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 この頁は、戦前・戦後のベストセラーについて論及した論文を掲載しています。

遅々として作業が進まず、過去に書いた論文のアップが遅れていますが、徐々に充実させていくつもりです。申し訳ありません。  

  (論文)伊藤左千夫「野菊の墓」論ノートー夏目漱石との関わりを中心にー

(論文)伊藤左千夫『野菊の墓』論ノート

   ー夏目漱石との関わりを中心にー

 

(前白)論文冒頭にも言うように、この作品は、意外にも、戦後、映画で有名になって、本も売れたという、角川映画的経緯がある。そうしたマスコミ・ジャーナリズム主導のベストセラーという点で、この「ベストセラー論」のジャンルに入れた。了解願いたい。

 

 『野菊の墓』は、現在までに幾度も映画化され人気作品となっているが、普及史を瞥見すると興味深い事実が判明する。それは、中野重治が「歌人としての左千夫は知っているが、小説家としての左千夫などは知らぬというのが一番多いのではないか」(註1)と評する如く、戦前までは遍く知られているとは言い難い状態であった。それが一遽に人々に喧伝されたのは、昭和三十年、木下恵介監督による松竹映画『野菊の如き君なりき』が封切られてからである。
 以来、今度は逆に、「伊藤左千夫という名は、このごろの若い人たちの間では、おそらく根岸派の歌人としてよりも、小説『野菊の墓』の作者として知られ、親しまれているのではなかろうか」(山本英吉)(註2)と評される程、左千夫と言えば『野菊の墓』というイメージが強くなっている。土屋文明も「一部関係者だけの評判はとにかく、世間的になつたのは戦後の映画化以後のことであつた」(註3)と証言している。いわば、この作品は、映画先行型の作品で、近年流行の、この種の小説の嚆矢をなすものと言えよう。
 であるから、文学作品として正当な評価を受けた訳ではなく、物語に内在する甘美な抒情性が一般大衆の琴線に触れたにすぎず、人気と文学的評価は必ずしも一致していない。こうした事情のため、研究も未だしの感が強く、不明な点も多い。例えば、民子のモデルに関しては、現在のところ、薮崎きさ説(註4)、川島みつ説(註5)、今関たみ説(註6)の諸説あり、確定し難い。これは、伝記研究の不備や、舞台設定を郷里成東地方から矢切地方へ移した小説的虚構という面も絡み合って、問題を複雑にしている。左千夫の小説が「結局自叙伝小説と見なしてよい」(土屋文明)(註7)、「大部分が私小説」(宇野浩二)(註8)とされる割には、モデルさえ明確でないというのが現状なのである。
 本稿では、諸先覚の成果を踏まえつつ、本作品について、特に夏目漱石の本作品の受容という問題を中心に、若干の考察を試みたい。

 

 
 (1)「現代日本小説大系 第十八巻」解説
 (2)旺文社文庫『野菊の墓(他三編)』解説
 (3)「解説にならない話二三」左千夫全集(岩波書店刊)第二巻 月報
 (4)奥山儀八郎「矢切の左千夫」(昭41・9)の説。左千夫が矢切に居住したことが前提となっているが、その事実はなく、疑わしい。
 (5)永塚功「『野菊の墓』論ーその成立と作品構造ー」(「近代日本文学」第十八号(昭48・10))の説。現在、この説が定説化しているが、年令的に無理があり、確定とまではいかない。
 (6)江畑耕作「左千夫と民子ー野菊の如き君」(新地書房刊 昭57・5)の新説。詳細な実地調査を踏まえているが、物的証拠に乏しい。
 (7)「伊藤左千夫」(白玉書房刊 昭37)
 (8)「小説家としての伊藤左千夫」(「新朝」昭l6・6、8)
 

 『野菊の墓』は、明治三十九年一月、「ホトトギス」に発表された左千夫の処女小説である。同年四月には、俳書堂(籾山書店)より出版。生前唯一の単行本となった。第四版まで版を重ねている。歌人である左千夫が小説を執筆するに到った動機として、諸見を整理すると、次のような理由が考えられる。
 まず、当時文壇に急速に巻き起りつつあった小説旋風がある。折口信夫は、当時を回想して、

 

「どこにどうした人物が、隠れて居るかも知れない」と言うさざめきが、あらゆる心をば波立たせて居た。
  此は、三十七、八年戦争の済んだ頃の、文壇殊に小説界のあり様である。此声は、唯一の懸案には、止って居なかった。直様、要求の叫びに変って来た。文壇のどの隅からか、今に、土を擡げて、大きな作家が現れて来相な心持ちが、行き亘つて居た。此わくわくと昂り立った待ち心は、自然、めいめいの内へも向って行った。「左千夫の小説」(註1)

 

と述べている。漱石も、その雰囲気の中で『我輩は猫である』を執筆、「ホトトギス」売上倍増となる人気を得、長塚節ら山会メンバーの小説執筆欲を刺激している。『野菊の墓』も、連載中の『猫』と併載されている。
 執筆に際し、彼の胸中に去来したのは、子規との次のような小説問答であった。余りに著名な箇所ではあるが一応引いて置く。

 

けふはお昼前碧梧桐が独逸の小説を読むで聞かせてくれた、勿論翻訳ではあるが、僕は小説と云ふものは、吾々の感じを満足させる様なものは迚ても出来ないものとキメてしまつた、今迄では小説に就ていくらか迷ってゐたが、迚ても吾々を満足させる小説は出来得ないものとキメてしまつた。(中略)自分の親しく経歴した事を綴つたら、人に依たら或は一生涯に一つ二つ、吾々の想ふ様なものが出来るかも知れぬけれど、さういふ事は小説と云ふより寧ろ其人の伝説といふのが適当であらふ、又自分が一年か二年前に実験した事実を種として作るといふ様なことがあつても、それは駄目であらふ、どうしても想像や推測が出てきて新に考えたものと大差がなくなる。「竹乃里人」(註2)

 

想像の介在を峻拒する典型的な写実主義の小説観である。左千夫は、師の教示から「一生涯に一つ」の体験ー<初恋>を題材にと発想したのは間違いあるまい。「自叙伝小説」と評される所以もここに存する。舞台設定を矢切に移行させたのも、此の地方の景物が写生に適していたためであろう。
 また、左千夫は、明治三十三年一月『草花日記』を発表以来、十四編に及ぶ写生文を執筆、散文方面にも円熟を加えていた。『千本松原』にいたっては、「ホトトギス」(明38・5)巻頭に置かれることとなった。山本英吉は「この思いがけない措置が左千夫に自信をもたらして、小説執筆のバネになったのはないか」(註3)と推察しているが、首肯されよう。左千夫の小説は、飽くまでも先師の訓戒を忠実に守って、写生文の延長として認識されたと見てよい。
 その他、遠因としては、「好んで読んだ四迷、独歩の作品から執筆の機運が高まった」(永塚功)(註4)こと、あるいは、自然主義文学からの影響等も考えられる。ただ、家の問題のみ重視するのは正しい読みではない。「唯り主人公が潔白ばかりではなく周囲の人物も純潔なるものを以て点綴されてある(同時代評)(註5)のであって、「地方色をたぷ(ママ)っり湛えながら、自然主義系統のそれと違い、農民生活が楽しげな色調に染められているのが特色である」(吉田精一)(註6)と言えるのである。この時期、野菊に対する「寄物陳思歌」が多いのにも注目される。だが、これも、実体験に野菊が何らかの形で投影していたのか、あるいは、単に好きな野菊を小説的虚構として利用しただけなのかという点になると判然とし難い。
 執筆は、明治三十八年十一月九日付寺田憲宛絵葉書に、「小生只今柄になき小説をかき居候出来候節ハ御慰みに進上可致候御笑被下度候」とあることや、同じ頃開催された山会席上、本作を朗読し感きわまって流涕したと伝えられている(註7)ことから、十一月中であったと理解される。

 

 註
 (l)「左千夫七回忌集」より。本稿では江畑耕作氏の指摘から引用した。
 (2)子規全集(講談社刊)別巻二(回想の子規一)
 (3)左千夫全集第二巻後記
 (4)前掲書
 (5)雲峰「小説野菊の墓を読む」(「甲矢」明39・2)
 (6)「左千夫の小説」左千夫全集第二巻月報
 (7)著名な逸話であるが、真偽は不明と言う他ない。

 

 「ホトトギス」新年号発売後、漱石は、直ちに『野菊の墓』を読み、「二三度会したぎり交際もない」にも拘わらず、早速、批評の書簡を左千夫に送っている(註1)。この中には「野菊の花は名品です。自然で、淡泊で、可哀想で、美しくて、野趣があつて結構です。あんな小説なら何百篇よんでもよろしい」という著名な評言を含んでいる。これに対して左千夫は「拙作への貴評実に嬉しく候全く諸君の御推奨之御蔭と存候」と感謝の書状を返送している(註2)。
 漱石は、余程、『野菊の墓』に感銘を受けた様である。鈴木三重吉にも「野菊の墓といふのをよんだですか。あれは面白い。美しい感じする」と感想を書き送っているし(註3)、森田草平に対しては草平の新作『病葉』と比較して言及している。草平の作品は、「文章杯は随分骨を折ったものでせう。趣向も面白い」と褒めながらも、「然し美しい愉快な感じがないと思ひます」と欠点を指摘しているのに対し、『野菊の墓』の方は「文章は君の気に入らんかも知れない。然しうつくしい愉快な感じがします」と述べている。これにより、両作品を対極的に観ていたことが理解される。師漱石の指摘を受けて、草平は『野菊の墓』を読み、折り返し長文の感想を書き送ったようである(現在のところ未発見)。内容は、次の漱石の再返信(註5)により、ほぼ推察し得る。
 この中で、漱石は、「君の非難をする箇所は一々尤もである。僕も多少さう思ふ。」と、一応、草平の批判を是認、「あの作も一句一句吟味すると技巧の上では大分足らぬ所があると思ふ」「趣向は仰せの如く陳腐です。寧ろ月並臭を脱しない」と否定的見解に同調しつつも、「只野菊に取るべき所は真率の態度を以て作者が事件を徹頭徹尾描き出して居る点である」と弁護している。この漱石の受け止め方は、斎藤茂吉の、「全力的な涙の記録として、これほど人目をはばからぬものは世には尠(すくな)いであろう」という評と交響していよう(註6)。
 また、漱石は続けて次のように述べる。 

 

 但し女が死んでからの一段はあれでいい実際です。尤も君の云う様にすれば死といふものに対して吾人の態度が違ってあらはれてくる許りである。死に崇高の感を持たせやうとするときには、其方を用ゐるがよいと思ふが、死に可憐の情を持たせるのは、あれでなくてはいかぬ。野菊の行きがかりから云ふてあれでなくてはものにならない。調和せんと思ふ。

 

草平が民子の死を如何に変更すべきとしたかは不明であるが、漱石は草平の末段批判に反駁し、現行を肯定する立場に立っている。そして、論旨は再び『病葉』批判となり、主人公が難解な書物を読んでいるのは気障で不必要と助言している。
 以上から、草平の批判は主に技巧の未熟に対する技術論的なものと、末段の民子の死の扱いの是非の二点に収斂され、漱石は前者には同意しているが、後者には反対しているわけである。漱石書簡には「野菊の墓の末段をわるく云ふ人は君の外にあります。森田二十五絃が同様の事を云つて来ました。僕はさうも思はない。東京辺の家庭にはこんな御シヤベリな婆さんがあるものだと存候」という皆川正禧宛(註7)のものもあり、草平の他にも末段を否定的に看ていた人のあったことが伺われる。そして、皆川に対しても、漱石は積極的に弁護しているわけである。
 では、漱石は、何故この様に現行の末段を懸命に弁護せねばならなかったのであろうか。

 

 
 (1)明38・12・29付、漱石全集書簡番号四一六
 (2)明39・1・1付、左千夫全集書簡番号五三二
 (3)明39.1・1付、漱石全集書簡番号四一八
 (4)明38・12・3l付、漱石全集書簡番号四一七
 (5)明39・1・8付、漱石全集書簡番号四二三
 (6)「伊藤左千夫」(中央公論社刊 昭17)
 (7)明39・1・17付、漱石全集書簡番号四二八 

 

 この作品が、民子の死を以てクライマックスとしていることは言うまでもないが、作品上では、直接、死を描かず、母の懺悔という形で語らせている。この場面が読者をして多く涙を誘わしめる所で、同時代評にも次の評言がある(註1)

 

其少年が母に詫びられて其恋人の死に涙をそそぐ事が出来ずに却て其母を慰むるに至る何等の至情だろふ、泣けば其母を狂せしめるかも知れぬと恋人にそそぐ涙をおさゆる泣かんとして泣く能はざるもの実に悲哀の極である、泣かぬは泣くにまさるとはかかる時の事を
云ふのであらう。

 

世評も大概好評であった。だが、草平等にとっては、この余りに感傷的で主情的な民子の死の描写が、逆に欠点と映ったのではないだろうか。これは写生を旨とする所謂子規派の文学者にとっても事情は同じはずである。「ホトトギス」に載った写生文小説として観た場合、前半部の写生文としての見事な描写に比して、この後半は、写生を逸脱したものと映ったとしても当然であろう。
 写生とは「只ありのまま見たるままに其事物を摸写する」ことであった。このため、「人事の写実は難く、天然の写実は易し」(註2)と子規は主張し、以来、「自然」写実中心の写生が行なわれた。この限りにおいて、『野菊の墓』の末段は、明らかに写生を脱している。
 だが、写生文は子規の主張した境地のみに留まってはいなかった。「子規によって提唱されたとき、生成概念だったのであり、決して完成概念ではなかった」(高橋英夫)(註3)と言えるわけで、子規没後も、山会等で取り上げられ議論されているうちに、子規が問題としなかった「人事」の扱いをめぐって、各人に大きな意識のズレが生じてきていた。各人は、実作の経験を踏まえた上で、自らの写生観を陳べはじめる。                                                     

 左千夫の写生文観は『写生文論』(「趣味」明40・7)に詳しい。これによると、「今日の写生文専門家と目さるる諸子は、皆俳人側の人である。従て作る文章は俳句に近いものが多い為に、作者自身も写生文は最も俳句に親しいものである様に言ひ、世間からも、写生文は俳趣味に偏したもので一種特別の文章かの様に言はれて居るが、予は写生文研究者の一人として、写生文俳句親類論には大反対である」とする。多分に、師子規の「写実の目的を以て天然の風光を探ること尤も俳句に適せり」という言を意織してのものだろう。ここに、左千夫の「歌人としての立場」(福田清人)(註4)が看取できる。左千夫は「写生文は決してこれまでの写生文にとどまらぬ、(中略)露骨に云へば予は別に予の信ずる議論と予の好む写生文とを作りたいと思って居る」とも述べる。ここに新しい写生文開拓の意気込みが感じられる。
 徐々に写生文派に問題となりつつあった作者の主観の位置については、「写生文にはいつも作者自らが半面の中心になつて居る、それは写生文の特色が総ての描写に間接を嫌ふところからくる、作者と対象即ち文章の材料とがいつでも密接に錯綜して居る」「写生文は、殊に直接に作者が現はれる場合が多い、従来の文章は文章的技巧に依て、作者の人格性癖等の露出を避け得る場合が多かつた、写生文はさうはゆかぬ、そこが写生文の真剣なる自然なる処で、写生文の生命又そこに存する訳なれども、それだけ作者は自己の修養を根本的に勉めねばならぬ理由も出てくる」と師子規には見られぬ観点を提出している。

 これに対して、漱石は『写生文』(「読売新聞」明40・l)を草している。これによると、「余の尤も要点だと考へるにも関らず誰も説き及んだ事のないのは作者の心的状態である」とこれも作者の心理を中心命題にすえ、人事に関する文章も視察の表現であって、自己の心的行動を叙する際にも同様の筆法を用いるという。二人共、作者に介在する主観、視点の位置付けに腐心しており、子規とは異なった知見が加えられている。漱石は同文末尾で、

 

俳句は俳句、写生文は写生文で面白い。其態度も亦東洋的で頗る面白い。面白いには違いないが、二十世紀の今日こんな立場のみに籠城して得意になつて他を軽蔑するのは誤ってゐる。かかる立場から出来上った作物にはそれ相当の長所があると同時に短所も亦多く含まれてゐる。作家は身辺の状況と天下の形勢に応じて時々其立場を変へねばならん。

 

と述べ、後年、写生文にはまったく部外者の如き態度をとる漱石の志向の萌芽が看取される。明治四十三年に到ると、「純客観の叙述なるものは科学以外には殆んどあり得べからざる事である。もし客観的描写を主張して極端まで行くとすると、彼は頭を下げたとは云へるが、彼は感謝したとは書けない訳になる」(註5)としてその限界を皮肉っている。写生文は、ちょうど明治三十九年頃絶頂期を迎え、人事導入の問題、作者の視点のあり方等をめぐって改良を迫られる転期にさしかかっていた。「ホトトギス」が積極的に小説掲載に踏み切ったのもそれを指し示すものである。小説移行を峻拒する写生文派の代表的人物坂本四方太でさえ、

 

将来の写生文には単に客観的態度のみを以て満足しては居られぬ、少なくとも主観的感想を背景とせねばならぬ。たとい、何処までも客観的形式を取るとしても主観的の背景は是非なくてはならぬ事になる。(註6)

 

と客観主義だけでは写生は立ち行かぬことを認めざるを得ない状況となっていたのであった。子規の写生観の限界が、結局、写生文派の崩壊を早めたと言えよう。文学史的に鳥瞰しても、浪漫派と自然主義の間に立って論ぜられることすら少ないのも、その内なる限界性の故とも言えようか。四方太が「帆立貝」以後の写生文を集めて出版しようとしたが、誰も引き受けてくれず、嘆きながら大正四年憤死したのは象徴的である。
 ともあれ、写生文の方法論の混乱が未解決のまま、「ホトトギス」は小説へ転換、成功して広く読者に受入れられた。だが、これが単なる一時的現象であることは漱石自身よく承知していた。『野菊の墓』書簡から一ケ月とたたぬ虚子宛書簡(註7)には、「ホトトギス」売上倍増に危惧を示し、同趣向では立ち行かない、「巻頭に毎号世人の注意をひくに足る作物を一つ宛のせる事が肝心」と打解策を提案している。漱石は、少なくとも、この時点では写生文派と同伴し、動向を見守っていたことが知られる。
 前述の如く、漱石は後年写生を離れるが、当時の彼の文学が写生に依拠していたことは論を俟たない。漱石の小説の構造は、態坂敦子氏が指摘する如く、

 

写生文論の延長上に、小説の対象と方法とが論じられていた。創作面で自らそれを実践し、体験的な過程が表明された。漱石は「写生」を学び、その方法的自覚を、表現内容となる近代的自我の展開する過程に重ねた。(註8)

 

ものと言うべきであろう。つまり、<写生+近代的自我の追求>という図式に整理される。これに対して、左千夫の小説は、同じ写生の立脚点に立ちながら主情的な感傷で染め上げられ、「近代」としての要素は少ない。『野菊の墓』に研究が少ないのは、着手の遅ればかりではなく、この作品の内蔵する性格が、前近代的で浪花節的近世草紙物的世界の枠を出ていないという作品自体の弱さにもよるようである。『野菊の墓』を漱石の図式と対応させれば、<写生+主情的情緒>という構造となろう。近代小説として余りに弱い。だが、その弱さを超えて本作品を名作としているのは、写生と主情的情緒とが嫌味となる一歩手前で微妙なバランスを保っているからに他ならない。
 この左千夫の小説の構造ー基本的には写生文なのであるが、そこに人間的情緒の世界を混入させる態度は、いみじくも漱石の『草枕』の世界とある意味で相似の形を成す。全編「非人情」という写生の論理を構築し、その骨法を標榜しつつも、最終章において主人公の主体的衝動から、結局、写生的観察者の領域を踏み超え、「非人情」の世界を自ら破壊せざるを得なかった、あの画工の姿と重なるのである。その後の漱石の「俳句的小説」からの華麗な転進と、左千夫の人間観の限界とによって、二人の前途は大きく隔たることとなるが、明治三十八、九年前後における漱石と左千夫には極めて類似した志向が顕著である。但し、左千夫が無意識的な自然的発露でしかなかったのに対し、漱石の『草枕』は倫理的思想的なもので、

 

漱石は美意識による調和の世界が現実的生活においては危殆に瀕することを知らないわけにはいかなかった。知情意を没した超生命的世界として、画家の特殊の美意識によって仮構するところにはじまって、この世界にまで押しよせてくる二十世紀文明ーこの世界の背景にある悲劇を瞥見するところに終っているからである。(瀬沼茂樹)(註9)

 

という、文明批評としての<意識>の世界であるという決定的な差異を除けば……。漱石が『野菊の墓』の末段を批判する者に対して積極果敢に弁護の論陣を張ったのも、漱石自身の非人情の破綻、しいては写生からの脱却という『草枕』的な志向が自働していたからではないだろうか。おそらく『野菊の墓』を弁護した理由はここにある。
 この検証として、『草枕』を論ずる際必ず引かれる『余が「草枕」』(明39・11)を参看したい。

 

私の『草枕』は、この世間普通にいふ小説とは全く反対の意味で書いたのである。唯一種の感じー美しい感じが読者の頭に残りさへすればよい。

 

この創作意図は、前述の漱石の『野菊の墓』の評言、「美しい感じする」(三重吉宛)、「うつくしい愉快な感じがします」(草平宛)と一致している。自作『草枕』も『野菊の墓』も共に「美しい感じ」を読者にあたえるものと理解しているわけで、ここに、両作品は大いなる符合があるわけである。

 

 註
 (1)前掲同時代評
 (2)『俳諧大要』(明28・l2)
 (3)「初期漱石の文体ー写生文との関連で」(「国文学解釈と教材の研究」昭54・5)  (4)「写生文派の研究」(明治書院刊 昭47・4)
 (5)『客観描写と印象描写』(「朝日文芸欄」明43・2)
 (6)『文話(写生文の新傾向に就いて)』(「ホトトギス」明42・1)
 (7)明39・1・26付、漱石全集書簡番号四三一
 (8)「漱石と「朝日文芸欄」ー写生文論の展開」(有斐閣刊「講座夏目淑石」第四巻 昭57・2)
 (9)「夏目漱石」(東京大学出版会刊 昭45・7)                

 

 左千夫の小説の弱さは、結局、漱石の如く自覚された世界でなかったことによる。以後も、先に示した図式以上の世界へ飛翔することができなかった。前近代的と稿者が断するのもそれ故である。更にもう一つ、この小説を前近代に封じ込めている理由として、左千夫の女性観の狭さが挙げられる。『野菊の墓』には、「僕は民子と下劣な関係をしたのではない」、「一点の邪念が無かつた」、「いやな考えなどは少しも無かった」といった政夫の肉体関係否定の言が散見される。恰も男女の関係が忌むべき不浄のものとして全否定されているような印象をあたえる。こうした中では、漱石の如き近代的自我の追求等は所詮無理というべきである。主人公の政夫にしても、いくら封建的色彩の強い明治三十年代の農村が舞台で、且つ、親がかりの身であるという設定であっても、余りに非主体的であるという非難はまぬがれ得ないだろう。堀江信男氏は、左千夫の、

 

先天的に犠牲心に富める女性の自然が、一身を男子に委して、飽までも自己を第二位に置き、何の考慮もなく人間としての本分を尽しつつゆく、其の最善最美なる女徳の働は、天地間何物の之に比すべきものがない。女性を以て美の神となし、平和の神となすは、世界人類の自然的合唱であるのではないか。(「松籟語録」)(註1)

 

という言を引用した上で、次のように評価している。

 

恋愛をいやらしいもの、下劣なものとする封建的な考え方があって、『明星』派の短歌を否定し、その人間解放の意味を理解することのできなかった左千夫の一端があらわれている(中略)自我を持たない女への共感は左千夫の小説を、真の恋愛小説として弱いものにしている。(註2)

 

この点は同じく「松籟語録」中の、

 

女徳の根底はどこまでも受動的なところにある。女子に主動的欲望の起れるときに女徳は破れて終ふ。従って女子の働は変性のものとなり、女子其のものの為に不幸なるのみならず、直に社会人類の不幸をかもす。女徳滅して女子の働が自然を失ふと同時に、人類の平和は滅するのである。(中略)現代に於ける理智万能的教育は、女性の自然を傷りつつあり、自己を第二位に置く女徳の働きは、常に間接である。故に女徳の働は社会の幹枝ではない、根底である。現代の要求は、理智の上に女子を尊敬せんとして、社会に対する直接なる働を女子に要求せんとしてゐる。現代人類の幸福が次第に滅却しつつゆくは、主として女徳の働を認識し得ざる根本の誤りに基因するのである。

 

という近代女子教育否定論からも伺える。文学史上から観て、確かに左千夫の女性観は当時の文学者に比して新しいとは言えない。その意味で、堀江氏の批評は正鵠を得ている。だが、左千夫にも申し分があるのではないか。左千夫が全面的に依拠した写生文では、熊坂氏が指摘する如く、

 

写生文の基調となる情趣性への好悪は別として、やはり深く鋭く内に迫るものを欠きがちな一面を否定できない。複雑な人間関係の摘出、事件の展開、自我の迫求など、主題となる人事の世界は、写生文の将を超えたものなのである。(註3)

 

といった一面は否定できない。左千夫のように、写生文に固執する立場である限り、全面的な自我追求は所詮無理というべきで、『野菊の墓』が写生文の延長である以上、やはり、「一点の邪念のない」ような「人事」でなければならない。堀江氏の如く本作品にそれ以上のものを望むのは無い物ねだりと言えるのではないだろうか。この小説に自我の追求などを導入すると、写生と情緒のバランスが崩壊し、現行の如き美しい作品とはならなかったと推察できる。
 『野菊の墓』は、以上論じた如く、数多くの問題を含んだ、「素人小説」で、近代小説として認め難い側面を内包しているものの、作の巧拙を超越した写生と情緒とが危うい均衡を保った醇乎たる「写生文」小説として、文学的にも評価できるのではないだろうか。

 

 
 (1)「左千夫歌論集巻三」(岩波書店刊昭6・4)に初出。明4l・2より没年までの座右手記である。
 (2)「伊藤左千夫ー人と作品」(清水書院刊 昭55・12)
 (3)前掲論文

 

〔付記〕
 本稿は『野菊の墓』について、現在までの研究の成果を 適宜、引用紹介し集成を試みながら、特に漱石の『野菊の墓』の受容と左千夫との関連を中心として、若干の卑見を述べたものである。紙幅の都合上、論証不足で駆足となり、些か諸説の整理に終った憾みがないでもない。誠に残念である。表現上の未熟等、若輩者の仕業とて御容赦を乞う次第である。本稿が些かでも左千夫研究の驥尾に付すことができたとしたならば望外の喜びである。
             (昭和五十七年十二月二日擱筆)
       (鷺ゼミ編「雪客」第2号 1983年1月)

    [1] 
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(ベストセラー論関係書)
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