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金沢・石川の文学(郷土の文学)
この頁は、郷土の文学である「石川の文学(石川近代文学)」「金沢文学」についての論文、エッセイなどを掲載しています。 ・遅々として作業が進まず、過去に書いた論文のアップが遅れていますが、徐々に充実させていくつもりです。申し訳ありません。
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(作品解説)森山啓「風の吹く道」作品解説 |
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森山啓「風の吹く道」作品解説
初出は、「新潮」昭和三十一年九月号。作者の森山啓には、作家・杉村夏也を主人公として、生い立ち・結婚・子育てという経過を描いた自伝的小説群がある。これもその一つで、昭和十九年春から二十一年の二年間、作者は小松農商学校(現小松商業高校)に勤務していた時の経験を基にしている。 南洋の見知らぬ島へ行かされることを恐れ、<徴用代わりに一時教員を勤めたにすぎない>主人公の杉村は、文筆一本の生活が恋しくなる。三年間、文学の世界から遠ざかってはいたが、中央で活躍している作家からの励ましや、久しぶりに小説の筆を執ったことで、ますます教員生活を重荷に感ずるようになる。 杉村の文筆生活に対する感慨は、冒頭部と終盤部にはっきりと書かれている。戦後、自由に作品を書くことができるようになったが、<それが敗戦後の一時的な現象で、やがてまた自由が取り上げられる日があるとしても、それならばそれで、いま書かねば書き遺すことができない>と作品執筆への強い決意を示す。反面、ブレーキとなるのは、<生活の最低限度の保証さえあれば自分も自由な人間として、時勢と調子を合わせるような文章は一篇も書かなくてもすんだ>はずなのに、定収のない以前は、生きていくために<時勢と妥協した文章>を書いてしまったという後悔である。彼はこの芸術と生活との二律背反に悩む。 その上、生徒たちへの深い愛着から、教員として<一人も落第させずに進学(注…進級のこと)させる義務がある>とも感ずる。これも誠実ゆえの責任感からであろう。 こうした苦悩に、東京帝国大学新人会に入会し、また、日本プロレタリア文芸連盟創立に参画、以降、当局の厳しい検閲に常に心を砕かねばならなかった作者自身の経歴が完全に重なるのは言うまでもない。その後の思想的変遷などは、この作品では故意に語られてはいないが、生活者としての当時の感慨は、まさにこうしたものであったのだろう。 作品は、終戦前後の石川県の学校教育現場の様子が描かれていて興味深い。本来、不自由であったはずの戦前の方が、<無理なことは改められる善い校風>で、自由な雰囲気が残っていたのに、戦後、新校長がやってきた頃から、<学校が窮屈>になる。校長は初訓示で「文化国家」をぶちあげる。この占領下に、そう簡単に文化国家が出来てたまるかと杉村は阿呆くささを感じる。校長は教員の点数をつけ始める始末。寄付金集めの話もこうした流れの中に位置づけられ、気が進まない教員の仕事の代表的なものとして冒頭に配して効果的である。 こうした窮屈さと、自分が教職に向かないことへのはっきりした自覚が、辞表提出を決意する直接の契機となった。 それにしても、戦後の教育が軽薄な非民主主義的校長から出発し、それによって踏ん切りがつくというのは何とも皮肉である。作者は最後に、原稿料の世話を頼む校長の俗人ぶりを描いて、これにダメを押している。 表題の「風の吹く道」は末尾に出てくる。辞表を提出し学校からの帰途、遠く海に続く野中の道を過ぎ小川沿いの道に出た。吹きつける風はもう頬に寒いとは感じられず、大麦がしなやかにそよいでいた。<自分以外にこの加賀平野の戦中戦後の農民を、文学に書き遺すものはいないだろう。一生かかって書こう>という杉村の決心は、そのまま作者の決意でもある。確かに風は吹いている。が、彼がこれから歩む道は<一本道>である。 作者は<貧しい不幸な人たちのことを愛情こめて書きたい>(「自分のこと」)と願う。昭和十六年以降、加賀の地に住む中で、北陸の農民をテーマとして見据えてきたのは自然なことであろう。彼は、時に農民を肯定的に、時に旧弊な因習、僻村、出稼ぎなどの問題を、同じ生活者の視点で積極的に取り上げていく。 この作品はペン一本の生活に入る決意をした転回点を、十年近くの時を置いて飾らずに描くことで自己を確認した作品といえる。 (二〇〇一・四) 森山啓「風の吹く道」解説
(「ミリアニア」(平成十三年九月)所収)
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(野田山の室生犀星墓)
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