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金沢・石川の文学(郷土の文学)

 この頁は、郷土の文学である「石川の文学(石川近代文学)」「金沢文学」についての論文、エッセイなどを掲載しています。
遅々として作業が進まず、過去に書いた論文のアップが遅れていますが、徐々に充実させていくつもりです。申し訳ありません。 

  (映画評)金沢三文豪の古い映画を観る

金沢三文豪の古い映画を観る

 

 二〇〇六年秋、金沢文化振興財団の「鏡花、秋声、犀星の世界を楽しむ」という一連の企画の中で、「三文豪映画上映会」が実施された。犀星、鏡花、秋声原作の映画を各々一本ずつ観ようという趣旨である。「ものぐさ日記」に感想を書いたものを、郷土の作家の作品ということで、三本まとめてここにも載せる。(2006.11.6)

 

室生犀星原作の古い映画「あにいもうと」を観る

 「鏡花、秋声、犀星の世界を楽しむ」(金沢文化振興財団)という企画の一環として実施された「三文豪映画上映会」の第一回を観る。十月九日、場所は金沢市立泉野図書館二階オアシスホール。映画は、室生犀星原作「あにいもうと」(大映)。昭和二十八年、成瀬巳喜男監督作品である。目と鼻の先に文化的施設があることの有り難さを実感する。
  上映に先立ち、笠森勇先生による簡にして要を得た解説がつく。小さい頃、犀星には血のつながらない兄弟たちとの葛藤があったことや、原作使用料の三十万円は、自分の子供たちがつくった借金の穴埋めに使ったというような裏話が披露されて興味深かった。
 子を宿し身を持ち崩す上の妹もん(京マチ子)に対して、さんざん悪態をつく粗野な兄(森雅之)、近所の饂飩屋の養子の男との結婚がうまくいかなかった下の妹さん(久我美子)、この三人の兄妹を中心に、コンクリート護岸になって落ちぶれた川師の父(山本礼三郎)と、茶屋を切り盛りして生活を助ける母(浦辺粂子)の東京近郊の僻村での生活を絡めながら描いた作品。
 孕ました相手の学生(船越英二)に妹への愛情を兄が吐露する場面や、もんがさんと共に東京に戻るラスト、あんな兄でも顔を見たくなる時があるのよと語る場面で、血の繋がった者同士の情愛の深さを表現する。肉親である故に憎悪と愛情が交錯するという心の真理をうまく描いてある。
  映画の場面として東京は一度も出てこないが、都会住まいの娘二人は、時々故郷に帰ってくる。男相手の水商売を生業としている姉もんは、いわば、都会のもつある種の側面、一種の「退廃性」を象徴しているし、看護師として今度助産師の資格をとろうと頑張っている妹さんの生活は、これも都会生活でしかできない「アカデミック」な側面を象徴している。いずれにしても、この農村に存在しない新しい生活である。彼女らの帰省とは、すなわち、近代の前近代への流入なのである。
 地元に残った兄亥之吉は、ご近所様に恥をかかないようにという発想の旧弊な倫理観を代表している。兄がもんに辛く当たるのは、古い倫理社会に侵入してきた「都会」のいかがわしさに対する拒絶反応なのであり、さんに寛大なのは、田舎に欠落している知的側面への憧憬があるからだろう。
 絶大な権力を持っていた過去と違って、うらぶれて妻の稼ぎをちょろまかして酒を飲んでいるような父は、もはや、その場の「父性」ではあり得ない。息子亥之吉にそれは移譲していると考えるべきで、兄が粗暴なのは、一家を束ねようと奮闘する父性を体現しているからである。
  そうした荒ぶる父である兄に較べ、母はあくまでも寛大である。どんなに娘があばずれになっても盲目的に包み込んで温かく迎える。もちろん、それは「母性」のなせる行為であり、 故郷はあくまでも戻るべき安らぎの場であることを示している。
 すなわち、もんにとって故郷とは、こうした拒絶と受容の両義性としてあるわけで、それは、愛するが故に憎いという兄妹同士のアンビバレンツな感情と等価であるといえよう。
  手持ちぶさたな父と吠えるばかりの兄の存在が意味する、実質的に支配権を失っている脆弱な父性とは、別の見方をすれば、この農村のおかれた立場でもある。この狭小で旧弊な社会は、前近代をかろうじて維持してはいるが、既にその堅固な足場は崩れ去りつつある。
 対して、妹たちはたくましさを増している。もんはこれからも男を手玉にとりながら生きていくだろうし、さんは着々と今で言うキャリアウーマンの地位を都会で固めていくだろう。それは時代が近代の論理にいやがおうにもとって代わられることの象徴なのであり、映像は、この対比を、淋しそうに川を眺める父の様子や未舗装の農道のカットなどで補強している。
 この映画は、こうした滅びの予兆をたっぷり我々に示しつつ、ギリギリのところで残る旧来の世界を一時の情景としてつなぎ止めようとしているかのように感じた。
 あの妹たちが永遠に田舎に帰省することはできない。何年かしたら、コンクリート護岸整備は完了するだろうし、農道も舗装されているだろう。母のかき氷とおでんの店もいつまでやっていけるか。そもそも、老いた父母もそう長くこの世にはいまい。
 田舎の家に戻って、大人の兄妹たちが大喧嘩をする時間。それは、逆説的だが、彼女たちにとっても時代にとっても、つかの間の平穏な時間ではではなかったかと私には思えた。
          (2006.10.14「ものぐさ日記」より)

 

泉鏡花原作の古い映画「歌行燈」を観る 

 「三文豪映画上映会」の第二回、泉鏡花原作の「歌行燈」を観た。十月二十八日、会場は前回と同じく金沢市立泉野図書館オアシスホール。解説は泉鏡花記念館館長青山克彌先生。
 もう二十年以上も昔、香林坊に北国講堂があった頃、昭和十八年作、山田五十鈴主演の白黒映画(東宝 久保田万太郎脚色、成瀬巳喜男監督)を観たことがある。
 ほとんど忘れかけていたが、今回の昭和三十五年カラー作品(大映 衣笠貞之助脚色監督)を観て、いくつかのシーンを思い出した。特に、破門された喜多八が、自分が殺したも同然の田舎謡曲師宗山の亡霊におびえるシーンは出色で、多重露出によるオーバーラップ手法が使われていたはずである。あの時、観客から、気持ち悪さに思わず声があがったのを覚えている。
 それに、なんといっても、ヒロインお袖役の山田五十鈴が、若く清楚な色香が漂い、大変、魅力的だった。私の世代では、山田は上品な年嵩の女優といった印象しかなかったので、その頃は、うら若きスターだったのだという当たり前のことを知って、妙に感心した。
 今回観た衣笠作品、明らかにその前作を意識し研究している。喜多八(市川雷蔵)が、お袖(山本富士子)に能を伝授する印象的な場面を、この映画でもシルエットを多用して幻想的に映像化して力が入っているし、喜多八を破門にした家元の座敷に出たお袖が、藝はお能しかできないと申告して、鼓師に「やれやれ。」といった顔をされるといったシーンなどは前作そっくりであった。音響効果も前作をなぞっているところがあるように感じられた。
 映像は、発端の伊勢山田から伊勢路を転々とする展開ながら、そのほとんどをセットで撮っている。しかし、それが実に細部まで良くできていて、日本映画の絶頂期らしい贅沢な作りとなっている。
  ストーリーは、鏡花原作にはない喜多八とお袖との恋愛が根幹に据えられている。これは娯楽映画として順当なところ。市川、山本という二大スターが共演していて、何もないほうが肩透かしを喰う。青山館長は、「芸道ものが恋愛ものになっている。評価は人それぞれ。」と説明していたので、もっと甘い好いたはれたの話になっているのかと思って観ていたが、藝道至上主義的な部分もうまく描いてあり、バランスはとれているように思った。シーン展開も破綻のない手堅いもの。雰囲気だけのトレンディドラマ大流行の昨今、昔はお金を出してこんなしっかりしたドラマを観ていたんだと古き良き時代に思いをはせたことだった。
 感想は以上。
 最後に、参考までにということで、映画の粗筋を載せる。
 「盲目の宗山は、伊勢山田では名を知られた謡曲の師匠だっが、上手を鼻にかけていた。そこに家元血筋の若い名手恩地喜多八が訪れ、鼓で勝負を挑み、その高慢チキな鼻をへし折った。狼狽した宗山は、古井戸に身を投げて自殺してしまう。
 宗山の娘お袖は、詫びにきた喜多八を好いたが、喜多八の父で師匠の恩地源三郎は、彼を破門して再び謡うことを禁じた。このため、彼は門付に身を落とし、諸国を流浪する身となった。一方、芸妓となったお袖も、中途半端な藝が父の身を滅ぼしたとかたく信じ、藝者の藝を覚える気力がなく、どこも馘首となり、置屋を転々とした。
 桑名で働いていたお袖は、ある夜、地廻りに襲われていた喜多八と再会する。彼女は仕舞の稽古を頼み、承諾した喜多八は、毎日、早朝の神社で仕舞を伝授した。二人が手と手を取り合って逃げる約束をしていた前夜、彼は地廻りとまた喧嘩となって、警察のやっかいとなり、約束を果たすことができなくなった。
 捨てられたと絶望したお袖は、大店の身請けを承諾し、最後のお座敷に出たが、そこは、あろうことか、喜多八の父源三郎の席であった。お袖はこれしかできぬと仕舞を舞い、感じ入った源三郎は謡を、同席の鼓師が鼓をつとめた。その声に誘われて、喜多八が唱和しながら庭に現れ、気づいた小袖と固く抱擁、父はそんな喜多八を許すのだった。」
           (2006.11.5「ものぐさ日記」より)

 

徳田秋聲原作の古い映画「爛」を観る

 翌二十九日、第三回、徳田秋聲原作の映画「爛(ただれ)」(大映)も鑑賞する。秋山稔先生の解説。
 映画は、時代を戦後風俗に移行させて、現代ドラマに仕立て直したもので、増村保造監督、新藤兼人脚色。若尾文子、田宮二郎主演。一九六二年作品である。
 私流に粗筋をまとめると、次のようになる。
 「美男子のトップセールスマン浅井(田宮二郎)とねんごろになっていた元ホステスの増子(若尾文子)は、後になって、男に妻がいることを知る。彼は妻の執念深さに辟易していて離婚するという。そんな折り、増子の元に田舎での縁談を嫌って、郷里から姪の栄子(水谷良重)が転がり込んでくる。浅井の離婚は成立し、増子は妻の座を射止めたが、元妻は恨み言を吐いて郷里で狂死してしまい後味の悪いものとなった。増子は、地位の安定には子供を産むことが一番と、不妊処置を解除する手術のため入院するが、その間に、一つ屋根の下で生活していた姪が夫とわりない仲となっていたことを知って激怒する。結局、姪を、無理矢理、田舎の縁談相手とくっつけることで夫から遠ざけようとするが、夫は彼女の挙式前にも拘わらず栄子と肉体関係を続ける。」
 何ともドロドロな人間模様。自分が寝取った夫を、今度は若い娘に寝取られるという因果応報の話で、主人公の増子は、本妻が味わった嫉妬の激情を、今度は自分が味わうことになってしまう。浮気現場に踏み込んだときの若尾の狂乱の演技は壮絶で、この映画最大の見物であった。この時、御歳二十九。
 妻の座に納まりさえすれば必ず安住が訪れるわけではないということは、離婚が成立した時、弁護士から「今度は貴女の番ですよ」と揶揄される場面に、すでに暗示されている。この台詞は、原作にもそっくり出てきていて、進藤脚本も、そこをこの物語の骨幹と意識して話を膨らましている。
 何とか泥棒猫を追い出したものの、今後も、妻の座は盤石であろうはずがないことは、増子自身、重々承知していて、ラスト、姪の結婚式の後、自宅に戻った彼女が、「ああ疲れた」というふうに顔を覆うシーンで、その後も無限に続くであろう愛憎の労苦を暗示している。何の解決も展望もない。いかにも原作が自然主義作品らしい終わり方である。
 冒頭の麻雀のガラガラ音や、病棟で増子が聞くカラスの鳴き声の不気味さなど、音響でも落ち着き場のない女の立場を表現しているし、音楽も、曲というより不安を煽る「ジョーズ」のような効果音的なもので、観るものの心をどんどんささくれだたせるようにしむけている。白黒で撮ったのも、緊迫感を出したいがための意図的なものだろう。だから、見終わった後、観客は疲れたかのように無言だった。
 強迫観念に囚われた正妻が、逃げる夫を鬼気迫る様子で追っかける場面、現場に踏み込んだ時の増子の阿修羅ぶり、姪の首を絞めて力ずくで言うことを聞かせる場面など、人間が自己の立場を危うくさせるものに対して見せる、後先忘れた凶暴さをこれでもかといわんばかりに羅列してあって、迫力がある。
 ただ、おそらく現代娘あたりが観ると、「女は男次第」という台詞や、永続的に男の愛を獲得するにはどうすればいいかなど、どんなにたくましく生きているように見えても、結局は男に寄生するばかりの女性像が物足りないかもしれない。また、火種をまき散らしておいて、平然と同僚に「困っちゃたよ」レベルで語る男に唖然とし、まずそういう男を断罪すべきだし、なぜ女のほうから手を切らないか、確かならぬ愛にすがる女たちを訝しく思うかもしれない。
  原作は大正初期の作、まさに「女は男次第」時代の女の生き方を描いている。男の性的身勝手には寛容で、女に厳しいという旧来の倫理の、その枠組を、いくら現代に置き換えたとしても、この場合、外すわけにはいかなかった。その分、苦しい地方から都会に出てきて、金回りがよくモダンな生活ができそうな男とくっついて贅沢生活を続けるため、男の愛を、ある意味利用し、したたかに生きようとする女という、戦後的逞しさを付加した造型が必要だったのだろう。昭和三十七年といえば、高度経済成長が端緒についた時期である。その時代の最も新しい女という側面をたっぷりと増子は持っている。
 タイトルは「爛」だが、不道徳と切って捨てれば終わりではなく、ちょっと個々人が自分の小さな幸福や欲望を成就させようとすると、こうした愛欲絵図に陥るのだと言いたいのかもしれない。今回も、観に来ているのは、酸いも甘いも噛み分けた御老人ばかり。人間、さもありなんという感じでご覧になっていたようだ。
           (2006.11.6「ものぐさ日記」より)

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 (野田山の室生犀星墓)

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