(随筆)鏡花を歩く
小説作品に肉薄する方法として、私はよく現地に行ってみる。現代を舞台にした作品ならともかく、明治を舞台にしたものなど、もはや面影などないのではないか、ことに東京などは、と思われるかもしれない。確かに町は大きく変貌している。が、それでも、何かを得ることが多い。 先日、東京文京区小石川の永井荷風の生誕地を久しぶりに訪れた。前回より広範囲に散策したので、地図では実感することができなかった「地面の起伏」を実感した。足で確認してはじめて、この辺りの地理や景物が、作品にいかに多く投影されているかを改めて感ずることができた。例えば、今や東京散歩のバイブルとなった「日和下駄」に、東京を一望できる坂として紹介されている「荒木坂」など、何のことはない、彼が子供の頃通った黒田小学校の横の坂のことなのである。 研究者の多くも、こうした現地走査をして、その上で発見があり、その観点を膨らます形での立論することもおそらくは多いのだろう。だが、それは論文になる前の<舞台裏>であり、そうした手の内が公になることは意外に少ない。おそらく発酵過程が見透かされてしまうのが恥ずかしいからだろう。
ここ金沢には、浅野川を中心とした城北地区と、犀川以南の城南地区があって、それぞれ文化圏が違う。城南に住む小生にとって、浅野川周辺地区の細道まで知っているかと言えば、正直怪しい。いまだに、車で袋小路に迷い込めば、ラビリンス感覚を味わってしまう。戦争で焼けなかった細く狭い小路で、車輌通行禁止、行き止まりが多い上に、一方通行だらけとくれば、大通りに囲まれたそうした江戸以来の古い町並みの一地区などは、現代の金沢人にとっても、ある種のブラックボックスである。
前田愛の「幻景の街」(小学館)は、彼の文学論の普及版・実践編のような作品で、文学散歩を元に、わかりやすく作品を切り取っている好書だ。この本に取り上げられているのが、金沢を舞台にした泉鏡花「照葉狂言」である。この小説を読むと、鏡花の幼いときの橋場・尾張町界隈が彷彿としてくる。谷崎潤一郎が回想記「幼少時代」で、明治初期の人形町・茅場町界隈を描いてくれたように、また、樋口一葉が「たけくらべ」で郭の隣町、竜泉寺町を描いてくれたように、我々は、鏡花があの頃の金沢を描いてくれていたことを、本当に有り難く思うのだ。 前田は働き盛りの年齢で他界し、愛読者たちを残念がらせた。亡くなって、しばらくしたある年、中村雄二郎の講演会があって、私は聞きに出かけた。その枕に、金沢は前田と浅野川周辺の取材に来て以来であるという話があった。どうやら取材の時は単独ではなかったようだ。このことは、「前田愛著作集」の月報にも書かれてあって、その時の取材旅行のあらましが知られ、彼の舞台裏が彷彿としてくる。 私は、いつもあの辺りを歩くと、鏡花の面影と共に、取材している前田愛の姿をイリュージョンとして感ずる。それは、自分も、同じような「研究」の意識で歩いているからかもしれない。
さて、もう一つ、郷土を描いた鏡花の有名作と言えば「義血侠血」である。ご存知ように、この作品は、金沢から富山西部あたりを舞台にした作品で、新派では水谷八重子の当たり芝居となっているもの。先日、金沢で興行された、二代目水谷八重子襲名記念公演で、私は、はじめてこの劇を観た。作品の大枠を上手く仕立ててあり、それぞれ、この場は、水芸で観客を楽しませ、この場は事件の展開をと、一幕一幕の役割がはっきりしている点に感心させられた。多くの人の目を通った作品だけある。熟成された洗練を感じた。楽しいお芝居だった。 そのゆかりの地が主計町界隈である。金沢に居住する者として、浅野川大橋から主計町、あるいは上流に上がっていく川沿い道は、その昔、芝居小屋を前身とする古い映画館の建物があった関係もあり、親しい景色ではあったが、現在は、高層マンション街となって、昔を知るよすがもない。想像を明治に飛翔させるなど、なかなかに困難である。 そういう訳だからでもないが、浅野川界隈の散策は、私にとっていつもエトランジェである。地方人の私が、明治初期の東京を描いた「幼少時代」や、荷風の「狐」を、ある種の異国情緒的感覚で感じるのと同様、地元民なのに、そうした何か異国情緒のような、ある種のスタンスと、そして、何ともいえない懐かしさを感ずる、その輻輳された気分。そうした気分で歩くのが常である。そして、いつもその次に思うのは、鏡花の世界は、金沢という広汎な地域で括っても駄目なのではないか。やはり、浅野川界隈の人しか本当のところは分からないのではないかという諦め心である。
ただ、何か城南の地に住む私にできることはないだろうかと、思ってはいた。 ところが、以前、私の所属する金沢近代文芸研究会で発表された方のお話の中に「義血侠血」のモデルになった芝居一座の座長の墓が、現在、城南の地、広小路バス停前の極楽寺にあるという。そこは、その昔、私がよく遊んだ寺だ。現在は、観光名所忍者寺の駐車場として、寺内を観光バスが出入りして昔の面影はなく、裏の墓地も、鬱蒼としていた木々を取り払い、明るく墓石が林立しているだけの寺となった。一度案内を乞い、調べれば、なにか分かるかもしれないとは思ったが、そのままにしてある。いや、もしかしたら、彼については、もう多く調べられているのかもしれぬ。持ち前の怠け心で、おそらく、この話は、ここでストップである。
これから後は、雑談。
鏡花が幼い頃に観た芝居がこうして作品に形象化された訳だが、明治の文人にとって、そうした体験は、現代人が考える以上に、文学に親しむ大きな要因になっていたようだ。よく引き合いに出すが、谷崎の「幼少時代」などを読むと、自分のことと同じくらいに、芝居小屋「新富座」などのことに多くの頁が割かれている。 現代の子供たちは、文学に親しむ機会が大幅に減り、大学入試のセンター試験に小説の問題が200点配点中50点分出題されるから、その分だけ勉強すればいいといった傾向がはっきりしてきた。その結果、色々な時代の、色々な人々の発想に触れる機会がなくなって、自分たちの発想だけしか理解できぬ矮小な人間になりつつあるような気がしてならない。進学校の生徒の方が、小説問題に弱いという事実がそれを証明している。小説で描かれてた登場人物のどれが人間として当然の発想で、どれがその人固有の発想なのか区別できなくなっているのかもしれない。人と違っていることの恐怖心がつよく、仲間とつながっていたいという気持ちの反映である携帯電話の流行も、結局、いじめも同根の病という気がする。 (平成九年八月)
(雑誌未発表原稿)(2004.10改)
(雑司ヶ谷墓地の鏡花墓)
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