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 近現代文学

 この頁は、耽美派・ベストセラー論以外の、近現代文学についての論文、エッセイ、教育実践例などを掲載しています。
遅々として作業が進まず、過去に書いた論文のアップが遅れていますが、徐々に充実させていくつもりです。申し訳ありません。 

  (年譜)池崎忠孝(赤木桁平)略年譜

(年譜)池崎忠孝(赤木桁平)略年譜

 

○はじめに
 池崎忠孝は、学生時代、夏目漱石門下となり、赤木桁平(あかぎこうへい)の筆名で文芸評論家として活躍、遊蕩文学撲滅論争、白樺派の評価をめぐる生田長江との論争などで知られた。一時、家業のメリヤス業を継いで筆を折ったが、後年、軍事評論家として再度名を成し、国会議員としても活躍、戦後、A級戦犯となった人物である。
 ここに掲げる略年譜は、池崎忠孝論考作成のために制作したもので、彼の年譜は、池崎忠孝追悼録刊行会編「池崎忠孝」(昭三七・一〇)所収の「年譜」(永井保編)があるが、これはそれを下敷きに、不備を修正、稿者が調査した事項を加える形で、書き改めたものである。故にここに記載された事項は、稿者が全面的に確認したものではないことを了承願いたい。略年譜であり、雑誌掲載論文など書誌的事項については主要なもの(特に文学方面)に限った。
 如上の理由から、錯誤も多いかと思われる。御叱正を賜りたい。本略年譜によって池崎忠孝の人となりの概略を理解して頂ければ、本稿の目的は達せられたといってよい。

[ 略 年 譜 ]
明治二四年(〇歳)
 二月九日 岡山県阿哲郡万歳村矢戸に三菱系の吉岡銅山の測量関係の仕事をしていた赤木辰三郎(三四歳)、妻リヨ(二二歳、一説に二四歳)の長男として出生。本名、赤木忠孝(あかぎただよし)。後年「ちゅうこう」とも名乗る。 
明治二七年(三歳)
 父、鉱山の会計監査に絡み、会社側と対立、退職する。吉岡銅山の隣に鉱区を設定することで、盗掘問題をもって会社への復讐を企てる。岡山市花畑の棟割長屋に転居。

明治二九年(五歳)
 父、援助を得て新しい鉱区の設定に成功、鉱山を開拓するため、川上郡吹屋町に転居する。

明治三〇年(六歳)
 吹屋尋常高等小学校尋常科に入学。小学時代は主に講談本、冒険小説を愛読。森田思軒訳の「十五少年漂流記」などに感激する。山国の自然の中で野山を駆け回って遊ぶ。

明治三四年(一〇歳)
 尋常科を終えて、高等科に進学。級長として活躍。成績優秀、特に漢文や作文(綴り方)に長じていた。

明治三七年(一三歳)
 師範出の教師赴任、野球選手であることを知り、吹屋校野球会なるチームを結成し、会長になるなどリーダーシップを発揮する。

明治三八年(一四歳)
 高等科を卒業。県立高梁中学校に入学。卒業まで五年間、寄宿舎第三部(日新寮)で生活する。舎監の高田大作先生(数学担当)の指導を受ける。この中学時代、漢文に本格的に興味を持ち、「文章軌範」「唐宋八家文」「古文真宝」「孟子」などを愛読、漢文の素養を活かした後年の名文の基礎となる。

明治四〇年(一六歳)
 成績優秀のため特待生となるが、上級生に絶対服従の風習に憤慨し、反抗するなど問題行動が多く、一年で外される。学校裏手の山に登り、国木田独歩などの文学書を愛読する。

明治四一年(一七歳)
 この頃、高山樗牛に傾倒、全集を購入し耽読する。

明治四二年(一八歳)
 父、吉岡の鉱区侵入は確認されるも、法廷闘争などで莫大な負債をかかえ、事実上、破産。郷里を出、伊予松山に渡る。後見人現れ、中途退学を免れる。

明治四三年(一九歳)
 高梁中学を卒業。無試験制度最初の生徒として第六高等学校に入学する。弁論部に所属。二学期、校友会雑誌に「『ヘッダ・ガブラー』及び『ウォーレン夫人の職業』を論じて、女子開放問題に及ぶ」投稿。

明治四四年(二〇歳)
 文芸部の委員になり、校友会雑誌の編集に携わる。「W君に能へて新日本主義の徹底的意義を論ず」、三学期に「鈴木三重吉論」を校友会雑誌に発表。これにより三重吉本人を知る。

明治四五年(二一歳)
 三重吉、書簡にみる文才に感心、彼の推薦により、『新時代の書翰文』(東京弘学館)出版(赤木忠孝名)。「新潮」八月号に「鈴木三重吉論」転載され、校内で話題になる。学費を出していた後見人、事業の失敗から自殺、経済的に行き詰まるが、メリヤス業を営む北河内郡四条村野崎の池崎小三郎、養子入籍を条件に学費を出すことになり、長男故、一度叔母の嫁ぎ先の阿哲郡本郷村大字則安一八四番地、青木与八郎妻の甥として入籍後、八月一〇日、池崎家に養子入籍、池崎姓となる。

大正二年(二二歳)
 第六高等学校を卒業。東京帝国大学独法科に入学。法科の選択は父の無念が心にあったためという。初め日本橋区箱崎町四−一増田方に下宿。後、本郷富士見館に転宿。ほとんど講義には出ず。九月頃、三重吉の紹介で漱石門下となり、木曜会のメンバーとなる。一〇月より「ホトトギス」の「評論の評論」欄を担当する。一一月頃、「夏目漱石論」を書き、三重吉に見せる。

大正三年(二三歳)
 三重吉、赤木桁平の筆名を考え、「ホトトギス」一月号にこの名で「夏目漱石論」を掲載。帰省中の養家で初めて雑誌を見、自分の筆名を知る。以後、この筆名を使う。漱石より感想を記した手紙早速(一月五日付)来る。「書き方の割合には中のほうが薄い」と評されていた。「模倣文明の擺脱」(「新潮」一月号)、「『桑の実』に就いて」(「国民新聞」3月)、「『赤光』の作者に就いて」(「アララギ」四月号)、「『秋風の歌』を評す」(「水甕」七月号)、「阿部次郎氏の思想と態度」(「文章世界」一〇月号)、「前田夕暮氏に」(「詩歌」一一月号)等の文芸評論を発表。文芸評論家として名が出、文学者との交友広がる。中村憲吉を通じアララギ派とのつながりができる。本郷菊富士楼に転居。彫刻家朝倉文夫を知り、交友生涯続く。

大正四年(二四歳)
 「短歌批評論」(「水甕」二月号)、「歌人長塚節」(「時事新報」二月号)、「『赤光』の作者について」(「アララギ」三月号)、「ドストエウスキーの作品に就いての断想」(「ホトトギス」三月号)、「性愛否定の哲学ーオットー・ワイニンゲルとその思想ー」(「アララギ」三〜九月号)、「歌集『切火』の印象」(「アルス」五月)、「近松秋江氏に與へて氏の作品及び態度を論ず」(「時事新報」八月号)、「『道草』を読む」(読売新聞」一〇月)、「『雲母集を読む』(「アルス」一〇月号)、「近世個人主義の一態様」(「新小説」一一月号)、「キエルケゴールとその個人主義」(「新小説」一二月号)などの文芸評論を発表。芥川龍之介、木曜会に参加、交友始まる。会では談論風発、芥川と博覧強記を競った。

大正五年(二五歳)
 「新進作家論」(「文章世界」一月号)、「『白樺』派の諸作家」(「文章世界」二月号)、「谷崎潤一郎論」(「中央公論」四月号)、「貧馬の糧」(「アララギ」四月号)、ゲエテの見たるシェークスピア」(「読売新聞」四月)、「斎藤君の実朝観に就いて」(「アララギ」六月号)、「公娼私娼を論ず」(新小説」七月号)、「遊蕩文学の撲滅」(「読売新聞」八月)、「芸術資料としての遊蕩生活」(「時事新報」九月)、「予の゛遊蕩文学撲滅論゛に対する諸家の批評に答ふ」(「中央公論」一〇月号)、「最近の評論家」(「文章世界」九〜一一月号)、「白樺派の傾向、特質、使命」(「新潮」一〇月号)、「文壇の現状を論ず」(「文芸雑誌」一〇月号)、「所謂『自然主義前派』に就いてー生田長江氏に與ふー」(「新小説」一二月号)、「予は果して゛自然主義前派゛に属するやー重ねて生田長江氏に與ふー」(「帝国文学」一二月号)等を発表。遊蕩文学撲滅論争として、小山内薫、本間久雄らと論戦する。これ以後、長田幹彦、後藤末雄等の情話文学衰退する。また、白樺派を評論家として最初に推挽し、その評価をめぐり生田長江との論争があった。この二つの論争が彼の文学史上の業績となった。一〇月、遊蕩文学撲滅論を中心に『芸術の理想主義』(洛陽堂)が処女文芸評論集として出版される。一二月、漱石死亡。「明暗」原稿を遺品として譲り受ける。

大正六年(二六歳)
 講義にあまり出ぬまま帝大独法科卒業。式後の交歓パーティーに、ある教授が「著名な文芸評論家赤木桁平氏がこの中にいるはずだが。」と発言、面映ゆい思いをする。秋、万朝報に論説記者として入社。取材活動などを通じて、後年の政治家としての素地を養う。養家長女池崎能婦子と上野桜木町一七番地に新所帯を持つ。小三郎これに反対し、義絶状態となる。「予が求める煽動家ー三度生田長江氏に與ふー」(「日本評論」一月号)、「正宗白鳥論」(「文章世界」一月号)、五月、第二文芸評論集として以前の稿に加筆、増補した『評伝・夏目漱石』(新潮社)出版。漱石研究書第一号の名誉を担う。七月、生田との論を中心にした『近代心の諸象』(阿蘭陀書房)出版。「現代の文壇と白樺派の運動」(「新潮」九月号)、「森鴎外論」(「黒潮」一〇月号)発表。

大正七年(二七歳)
  一月、『人及び芸術家としての高山樗牛』(新潮社)出版。養父母、妊娠のため能婦子との結婚を承諾する。四月一日、入籍。四月八日、長男修吉誕生。下谷初音町養禅寺境内に転居。「芸術家の心(フローベル論)」(「文章世界」六月号)発表。                                             

大正八年(二八歳)
 房州旅行の折、帝劇女優と間違いを起こし、ゴシップとなる。気分一心の為、上野桜木町一七番地に再転居。次男清次郎誕生。二カ月で早世。春、万朝報退社。「最近歌壇に於ける万葉復活に就いて」(「短歌雑誌」一月号)、「近代文芸に現れたる民本主義」(「新潮」六月号)等を発表。

大正九年(二九歳)
 前年の事件の関係もあり、養家のメリヤス業を継ぐ約束となり、帰阪。文学を捨て、筆を折り、知己と義絶する決意をする。長女近子誕生。

大正一〇年(三〇歳)
 大阪市東区農人橋一丁目一六番地、池崎小三郎商店に住み、商売の修行をする。学士出の商人として評判になる。例外的に朝日新聞の依頼で聖徳太子を論じた「夢殿の王子」を、九月、『太子諸行讃』(大村書店)として出版。次女公子誕生。

大正一一年(三一歳)
 ようやく商売に慣れ、東区内本町一丁目一九番地に住居を移す。しかし商才無く、養父小三郎とのそりは合わなかった。長女近子死亡。

大正一二年(三二歳)
 時に久米正雄ら文学者来訪するも興味を示さず。丸善より洋書を取り寄せ、専ら歴史書を読み進める。三男文三郎誕生。

大正一三年(三三歳)
 三男文三郎死亡。

大正一四年(三四歳)
 仕事の合間、外国雑誌、外国新聞等を読み、世界情勢の把握に努める。画家斉藤与里と交友、絵画に興味を持つ。三女敏子誕生。

大正一五年(三五歳)
 日米関係の文献の読破、研究を続ける。特に外国の資料による海軍兵力の分析などに興味を示す。

昭和二年(三六歳)
 ヘクター・バイウォーターの「太平洋戦争」を読み、反論のための構想を練る。東区内本町一丁目一九番地に転居。山発メリヤス社長山本発次郎、歌人で住友本社部長川田順との交際深まり、関西財界人との交流できる。四女しず子誕生。

昭和三年(三七歳)
 春、山本発次郎、野村合名会社重役児山破魔吾氏らとともに南紀に旅行。その折の時事談話に皆感心し、野村合名会社で時局講演会を行うこととなる。速記録「米国怖るるに足らず」が評判を呼び、出版を決意、夏に武田尾温泉にて改稿作業。

昭和四年(三八歳)
 八月、本名池崎忠孝をもって先進社より『米国怖るるに足らず』を出版。以降、本名を使用する。ベストセラーとなり、米国でも翻訳される等、軍事評論家として名が知られるようになる。一一月、同社より姉妹編『日本潜水艦』出版。マスコミから執筆、講演依頼殺到。四男純吉誕生。

昭和五年(三九歳)
 引続き講演など多忙。漱石山房の木曜会に似せた会を定期的に持つ。四月、『亡友芥川龍之介への告別』(天人社)、『世界を脅威するアメリカニズム』(天人社)出版。

昭和六年(四〇歳)
 講演旅行多く、全国を巡る。一月、『六割海軍戦ひ得るか』(先進社)、三月、『大英帝国日既に没す』(先進社)出版。春、東区材木町三三番地に転居。

昭和七年(四一歳)
 二月総選挙に立候補、講演会は立見が出る程の好評だったが、票に結びつかず、落選。七月、『宿命の日米戦争』(先進社)出版。

昭和八年(四二歳)
 家業にほとんど従事できず、専ら執筆、講演生活となる。八月、『太平洋戦略論』(新光社)、『天才帝国日本の飛躍』(新光社)出版。

昭和九年(四三歳)
 夏、大阪時事新報社の顧問となる。毎日、夕刊に時事評論を執筆。

昭和一〇年(四四歳)
 大阪時事新報社顧問を退く。一〇月、『英国敢えて挑戦するか』(第一出版社)(昭一二?)出版。東区常盤町二二番地の店を自分の事務所とし、野崎の家とを往復する。

昭和一一年(四五歳)
 二月、総選挙に立候補。中之島中央公会堂個人演説会超満員、最高点で当選。国会内の第二控室、無所属クラブを本拠とする。同じく無所属の小山亮を知り、その政治家としての行動力を学ぶ。谷中天王寺の朝倉文夫氏の邸宅より国会に通う。夏、中国各地を旅行、特に新生活運動について視察する。五月、菊版四〇頁ほどの個人雑誌「少数意見」を発行したが六号で廃刊。六月、『最近軍事問題論攷』(大村書店)出版。一一月、『国防の立場から』(昭森社)出版。

昭和一二年(四六歳)
 国会の解散があり、再度出馬。当選。六月二四日、第一次近衛内閣下、文部参事官になる。辞任までに三人の文相に仕えた。帝国芸術院の創設に参画、特に文芸部の人選等に力があった。九月、『ソ連を監視せよ』(第一出版社)、一二月、『世界に立つ日本』(今日の問題社)出版。北河内群得庵に家を借り、実父母をそこに引き取る。

昭和一三年(四七歳)
  六月六日、父八三才で逝く。九月、『世界対戦回顧録』(第一出版社)、一〇月、『新支那論』(モダン日本社)出版。

昭和一四年(四八歳)
 一月、近衛内閣崩壊、文部参事官を辞任する。メリヤス配給統制問題で商工省に陳情、次官岸信介と会見する。以後親交を結ぶ。綿統制の強化によって家業苦しくなり、廃業する。七月、『新嘉坡根拠地』(第一出版社)、一二月、中国旅行の取材を生かし『新支那と新生活運動』(目黒書店)出版。

昭和一五年(四九歳)
 七月、第二次近衛内閣成立し、木戸幸一との接触多くなる。本郷西片町一〇番地に転居。時事評論を「読売新聞」夕刊に執筆したが、軍当局の妨害を受け、以後、活動の舞台を奪われる。八月、『新支那論』(明治書房)出版。

昭和一六年(五〇歳)
 二月、『日米戦はば』(新潮社)出版。

昭和一七年(五一歳)
 教育の改善を考える議員有志により結成された国民教育振興議員連盟による「教育体制確立建議案」が可決される。これにより、育英会設立にむけて活躍する。総選挙行われ、知人の大阪市企画部長菅野和太郎の出馬を画策。二人とも当選。三月、『長期戦必勝』(新潮社)、八月、『概説・石田三成』(岡倉書房)、一〇月、『大英帝国日既に没す』(駸々堂)出版。九月三〇日、母リヨ死去。

昭和一八年(五二歳)
 財団法人大日本育英団の創立確定。春、台湾の前線を視察。夏、一ヶ月以上高熱のため寝込む。次子公子、大井康夫と結婚す。三月、『世界は斯くして戦えり』(駸々堂)、六月、『聖徳太子讃』(岡倉書房)出版。

昭和一九年(五三歳)
 四月、大日本育英会法の成立により、財団法人大日本育英会正式に発足。永井柳太郎団長のもとに専務理事として実務に協力する。「議員諸君に謹んで檄す」なる檄文を草し、国会内で配布、募金活動をしたり、木戸内府に連絡し、天皇よりの御下賜金が通常の二倍の一〇〇万円となるよう画策する。

昭和二〇年(五四歳)
 二月二七日、養父の池崎小三郎死去。三月一七日、長男修吉硫黄島で玉砕。三月、野村合名山内貢より野村財団創設者野村徳七(号、得庵)の伝記執筆の依頼があり、承諾する。敗戦濃厚となった六月一〇日、戦時緊急措置法委員会で、決戦体制のあり方について数時間に及び鈴木首相、阿南陸相らを追求する。八月、衆議院議員の辞表を敗戦公表と同時に国会事務局に提出するよう辻川郁二に託し、大阪野崎の本宅に帰る。秋、菩提寺の長浜市石田町徳明寺に新しく先祖累代の墓を建立、養父、長男の骨を入れる。一二月一日戦犯容疑逮捕命令が出る。出発前、家族を自宅仏間に集め話をするも涙ぐむ。九日、上京。一一日、巣鴨拘置所に収監、監獄生活始まる。一七日、資料がなくても書ける自叙伝の執筆思い付く。                                                                 
昭和二一年(五五歳)
 通年、巣鴨拘置所に在監。一月二八日、初めての尋問。以後、自著の内容や、支那に関する持論などについて何度か尋問を受ける。日に一度、広場で運動する時、諸氏と雑談する以外、儒林叢書等の漢文書、漱石「こころ」「三四郎」、「石川啄木集」などの日本近代文学、ミル自伝、パスカルなどの海外物を読んだり、作詩、収監仲間の俳句の添削などをして時を過ごす。「全く文人墨客の生活だ」と日記に記している。日記の他、子孫に読ませることを目的に「山国の少年」と題する自叙伝の草稿書き進む。

昭和二二年(五六歳)
 春頃より健康を損ね、七月、巣鴨を出、築地の聖ルカ病院に収容される。九月はじめ、東大病院沖中内科に移される。一〇月二四日退院、そのまま釈放となる。一一月、一年一〇ヶ月ぶりに野崎の本宅に帰る。

昭和二三年(五七才)
  健康やや回復する。三月、収監前より依頼されていた「野村得庵伝」の執筆を本格的に進める。福井県に二度取材旅行。それ以外はほとんど終日在宅。一二月ごろ病気再発。床につくことが多くなり、執筆停滞する。(結局、完成せず、編纂委員の手で昭和二五年、全三巻として完結。)

昭和二四年(五八才)
 病状悪化、殆ど寝たきりになる。八月一九日、日本育英会総務課調査係、滝沢伝、記念誌刊行のため来訪、創立時の様子について臥したまま取材を受ける。一二月一〇日、午後二時二〇分、家族、親友山本発次郎、菅野和太郎両氏に看取られて逝く。享年五八歳。一二日、内輪だけで葬儀。法名清硯印慧哲文英居士。遺骨は菩提寺の徳明寺。

「付記」
 本稿は「略年譜」であり、彼の文学と思想の内実については触れていない。これについてはいずれ別稿を執筆する心算である。諒とされたい。
                         (平成二年八月三一日擱筆)
           (石川県立鶴来高等学校 平成2年度「研究紀要」)

    [1] 
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