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 近現代文学

 この頁は、耽美派・ベストセラー論以外の、近現代文学についての論文、エッセイ、教育実践例などを掲載しています。
遅々として作業が進まず、過去に書いた論文のアップが遅れていますが、徐々に充実させていくつもりです。申し訳ありません。 

  (小論)荻野アンナ「私の愛毒書」を愛読する

(小論)荻野アンナ「私の愛毒書」を愛読する

   ー「小僧の、お客様は神様です」を中心にー                                                                                                                                     一、女流の現在

 

 平成に入り、ますます女流作家が活躍している。例えば、平成三年、国文学専門誌が、特集本『女性作家の新流』(「国文学解釈と鑑賞」別冊)を刊行、総纏めをしている。この時期の代表的女流と目されている作家の分かり易い見取り図となるので、取り上げられた作家をここに列挙してみよう。

 

 増田みず子 加藤幸子 李良枝 高樹のぶ子 中沢けい 干刈あがた 松浦理英子 村田喜代子 山田詠美 米谷ふみ子 木崎さと子 

 

 (新世代作家として)稲葉真弓 上田理恵 小川洋子 荻野アンナ 桑原一世 鷺沢萌 佐々木邦子 左能典代 笙野頼子 長竹裕子 長野まゆみ 藤本恵子 松本侑子 山本昌代 結城真子 吉本ばなな

 

 まさに百花繚乱、女流という性別だけで一括りになど出来そうもない。が、強いて言えば、近年の若手作家の特色として、コミック的、あるいは「少女趣味的」なものに対する市民権の獲得ということが上げられるように思う。いわば、普通の女の子的感覚が文学のテーマとなり、その精神での作品化によって読者層が獲得されるという循環の中で、女流の隆盛に結びついている面がある。
 また、従来、女流作品の一部には、性に対して、殊更、異常・観念的なものが強調されたものが目立ったが、乾いたものや日常的感覚的な形へと変化しているようだ。反面、従来、こうした性の描き方なら誰々というような、はっきりとした個性があった古いタイプの作家に較べると、作品の個性は、少しく希薄になったようにも感じられる。

 

二、荻野アンナの作風

 

  そうした、現代の「あっさり(?)」した作家に較べ、今回、ここで取り上げる荻野アンナは、1991年『背負い水』(文藝春秋社)で芥川賞を受賞、奥様向けテレビメディアなどにも積極的に出演するなど、多方面で活躍をしている作家である。また、ラブレー研究者として、パリ第四大学で博士号取得、慶応大仏文科の教員として、二足の草鞋を履いている。彼女のラブレー研究の成果として体得されたパロディ感覚で発想されているという意味で、彼女の足場、スタンスははっきりしており、この点で、はっきりとした個性をもった作家ということができる。
  実は、彼女の作風が作風だけに、こちらが大真面目に論ずれば論ずるほど、軽やかに逃げられていくようで、評論するのがアホらしくなり、「まあ、存分お楽しみ下さい。」と投げてしまうのが一番いいのではないかと思いはじめる仕儀となった。実際、どう語っていけばいいか、迷ってしまうというのが、論ずる者の共通した悩みだろう。
 ……と言い放って、終わる訳にもいかない。分析を始めよう。まず、饒舌には饒舌で対抗するという方法で論を張った巽孝之の荻野アンナ評に耳を傾けたい。

 

「荻野アンナには、わざわざ異形の味覚を演出というエグさがひそむ」
「正当的な文章家ならもうちょっと何とか抑えられないものか、と眉をしかめるのも無理はない。だが、断言しよう。まさしくフタをしたくなるほどの悪ノリであるからこそ、荻野流ヤミナベのヤミナベたるゆえんがあるのだ」

「美味ならぬ珍味をだそうと秘術を尽くして読みのグルメどころかシェフと化し、批評的ヤミナベを展開する。それが結果的にメタファー過剰の印象を与え、ヘキエキする向きもあるのだが……」
(巽孝之「ヤミナベ言語の浮気娘」(前掲『女性作家の新流』)

 

 確かに、彼女の教養と同レベルの者が読めば、一から十まで抱腹絶倒なのだろうが、あっさり好きの日本人には、少々、過剰な印象につながってしまう一面も持っているということのようだ。こうした点は、多くの読者が多かれ少なかれもつ、彼女の作品の第一印象であろう。
 また、作家の中沢けいは『背負い水』の評として、「人が饒舌になった時の内実を窺わせるものではなく、饒舌そのものの表面を文字に定着させたものである。(中略)「他者と自己」を拒否するための饒舌を写しとったところに作者の手柄はあり、文章そのものが深みや厚みへの拒否を明示した」(「朝日新聞」91.9.15)と述べている。確かに、彼女の饒舌自体が目的化し、深みを拒否したかのような文体は、「現代」の言語状況を映しているといえる。
 今回取り上げる『私の愛毒書』(福武書店 平3)は、簡単に言えば、日本文学の名作パロディで、原作を知っていると十倍楽しめるという趣向。稿者も大笑いしながら読んだ。もはや、古典となった日本近代文学の名作を基に、独自の観点でパラフレーズしていく。土俵がこれならば、多くの読者もがっぷりよつに組むことができる。彼女の基本的な精神を知るには、他の小説よりも、ある意味適しているかもしれない。料理の仕方は色々あって、楽しいけれど、その底にあるのは、アンナがその作品をどう読んだかということ。アンナ流の批評があって、その上で、手替え品替えのファルスがある。

 

三、「小僧の、お客様は神様です」の構成

 

 全ての短編に言及することは出来ないので、今回は、その中で、「小僧の、お客様は神様です」(「海燕」平2・11)を詳細に見ていく。言うまでもなく、志賀直哉『小僧の神様』をパロディにしたもの。「神様」と言えば、例の三波春夫「お客様は神様です」の台詞が出てくる訳で、この二つを足して、ちゃんと作品の内容と一致させているのはさすがである。
 まず、構成を見る。四段に分かれている。

 

1、「鮨について」として鮨が階級フードであるということの前振りをし、  
2、「神様について」として、いわば志賀直哉論を展開し、
3、「再び鮨について」として、再び<鮨=階級フード>であるという結論を得て、
4、「小僧について」で、アンナ流の作品の読みを述べている。

 

 実に判りやすい構成である。

 

四、荻野の志賀直哉評

 

 この作品には、荻野自身の「志賀直哉評」がどっさり盛り込まれている。
 志賀直哉という作家は、「等身大のうまさの横綱」であるという。ただ、「志賀直哉の短編は読むにもコツがいる」そうで、「読み手の感情移入の対象は常に主人公であらねばならぬ。特に加害者と被害者のいる小説では、間違っても脇役の被害者にほだされてはいけない」という。「志賀直哉の小説はモノフォニー」的世界であり、「あるひとつの視点に徹することによって始めて浮かび上がってくる世界の、彼は創造主であった」と記している。志賀の小説世界が、あくまでも視点人物を中心にした世界から一歩もでていないことへ、まず、注意がいったのは、いかにも実作者らしい感想であると言えよう。また、「志賀直哉の主人公にしても善悪に徹しているわけではない。通常の善悪の彼岸で、自分自身であることに徹している」と指摘する。こうした志賀文学の特色は、多かれ少なかれ誰でも感ずるもので、目新しいものではないが、女性らしい直感的な印象をわかりやすく指摘している。
 もう一つ、実作者ならではの指摘がある。志賀の作品というのは、「技術以前の、書き手の性格からくる力技」で書かれていて、「パワーがあれば、技術はパワーから三歩下がっていそいそと付いてくる」から、「彼のパワーはテクニックの問題に置き換えられたふしがあ」り、「顧みられるこのとないパワーのほうは、未だに宙をさまよっている」という。この「宙をさまよう」という指摘の意味するところは分明ではないが、「パワー」という言葉を「思い」という言葉に置き換えれば、志賀の小説を読む時強く感じる、作者の「正義感」がすべての源で、それを中心として、一つの事象や素材に対しての「思い」を分析し、作品化している印象を、作者流の言葉で言ったものと受け取ればいいのかもしれない。
 いずれにしろ、総体として見て、正直な話、そのユニークな表現はともかく、多くの人が志賀の小説に与えている批評と、そう大きく外れるものはない。オーソドックスといってもよいくらいである。

 

五、荻野の「小説の神様」評

 

 それに対し、荻野の「小僧の神様」の分析(作品評)の方は、なかなか面白い。
 まず、荻野の評を見る前に、いささか恣意的ではあるが、簡単に本家の「小説の神様」を押さえておこう。

 

1、この作品は、実際、「屋台のすし屋に小僧が入ってきて一度持ったすしを価をいはれ又置いて出て行く」(「創作余談」)様子を目撃した経験をしたことが、動機であったという。

2、構成的には、前半は小僧の心理が中心で、後半はAの心理が中心となる。

3、内容は、<素朴で純粋なヒューマニズム>の行動にあらわれる寂しい心理を描いたもので、善意を本当  の自分の心から批判されるという理由づけのみで終わっている点で、結論に物足りない面もある。
 「作者の自分自身に対するあくまで潔癖で純粋であろうとする一種のエゴイズムがあり、同時に近代インテリの寂寥感を自己のものとしてとらえた作者の狂いない鋭敏な眼もある」という粟林秀雄のまとめの評あたりが、褒めた言い方では順当なものだろう。

4、年譜的に見ると、「網走まで」「正義派」、この作品を経て、「灰色の月」にいたる「志賀作品の目撃と実感の系譜」(紅野敏郎)のひとつである。

 

 先程言ったように、荻野の作品は、小説の形を借りた「荻野なりの「小僧の神様」論」である。この中で提出された観点は二つある。

 

1、「おごる側」と「おごられる側」の階級性を持つ、鮨を中心にした「階級闘争」としての作品という観点。

2、主人公の視点に徹することによって始めて浮かび上がってくる「モノフォニーの世界」に対する「違和感」の表明(主人公に感情移入出来ない。)

 

  1については、いかにもグルメ時代を反映した現代的な視点だといえる。この小説を「究極の鮨小説」とするのである。「鮨は、究極の階級闘争フードだ」と定義し、「鮨を芯に据えると、社会の仕組みが輪切りなって見えて来る」、すなわち、「およそ社会と名のつくものは鮨のような二層構造になっている」と分析するなど、威勢のいい言辞が並ぶ。寿司という、ネタとシャリからなる日常的食べ物を「二層構造」としてとらえ、マルクス主義用語である「階級闘争」と結びつけるという「異種格闘技的力業」が、ここで読者を惹きつけている。そして、「おごる」「おごられる」という「階級差」について、読者に注意を喚起した上で、作者は、今度は登場人物の「格」(=視点の「格」)の差について論じるのである。
  2は、おそらく、荻野の読後の第一印象なのであり、その違和感がどこからくるのか、彼女なりの分析が本作品のタネなのだ。「主人公に感情移入しようとすると、どうもしっくりこない。ところが脇役に乗り移ろうとすると、これがいとも簡単にノレるのだ。」それは何故か。この引用部は、本作の問題提示として心臓部の一つである。
 彼女なりの分析の結果、この物語が「神格VS小僧格」という<人格(人間格)>不在の主人公二人の話であるということに気づく。
 原本の眼目である「変に寂しい、いやな気持ち」について、志賀自身は、「もしかしたら、自分のした事が善意だという変な意識があって、それを本統の心から批判され、裏切られ、嘲られて居るのが、こうした淋しい感じで感ぜられるのかしら。」と述べている。おそらく、志賀の装飾のない素直な感想には違いない。
 が、この説明を、文字通り、読者は素直に受け取ってもいいだろうか? それで納得するだろうか? と、このレベルで止まってしまっている志賀の結論に、現代の小説家として、疑問を呈するのである。すなわち、「変に淋しい、いやな気持ち気持ち」という余裕ある階層の心情を、たしかに、この作品では描き得たが、真に人間的な交流は描き出されていないではないかと。そこに物足りなさを感じたとするのである。
  まず、最初から神様的演出でもって実行に移されていることに対する指摘がある。おごり方が中途半端ではなく、多額の金子を使っていること、神様ライクに、すうっと消えたなどをその証拠に挙げる。志賀自身に擬される主人公は、ここでは、人間(格)ではなく、神さま格的役割が与えられているというのである。勿論、小僧は一人前の大人の「格」を与えられておらず、「小僧格」である。故に「人間格」が不在である。
 また、「AとBのやりとりには生活と精神の両面でゆとりのある者同士の、暗黙の了解の匂いがする」と指摘し、彼らは「デリカシィとセンスを持ち合わせた人物」たちであり、階級を超えて一緒に鮨をつまむような人間的な関係には最後までならないと指摘する。
 (ただ、デリカシィーがある割には、妻のささやかな要求を無視(?)するような<家庭内ケチ>であるとの批判は、まさしく女性らしい視点で、思わず吹き出す。)
 そして、登場人物は「皆善意で動き、全員が自分の分というものをわきまえて」いて、分からはみ出す部分が不足してる。Aには、人間的な「勇気」(蛮勇)も不足しており、つまり、人間くさいドラマがここには不在だと指摘するのである。
 対する小僧の方も、もう少し図々しくなればよいという。「小僧がAに鮨をねだり社長になる」となると、階級ドラマとなった筈だというのである。勿論、矛先は細君にも及ぶ。細君は勝気にして食欲を増大させればよい。そこに、緊張感あふれる夫婦のホームドラマができると荻野の想像はどんどん拡大する。(細君は「作品の座標軸から一番ズレれている」との指摘もある。)
  こうして見ていくと、感情移入できないという彼女の不満は、人間臭い「ドラマの不足」に起因しており、登場人物一人一人、どう話を「荒らし(?)」たら楽しくなるか、順番に分析しているのが本作品であるということが判る。
  こうした指摘は、何度も言うようだが、実作者ならではの視点であり、そこに国文学専門の研究者の分析でないワイルドさがあって、生き生きしたものになっている。そして、それを、一方では、洋の東西は違えど、文学研究者として、かなり論理的に項目立てた発想で分析してもいる点が、感性のみの指摘とは違った妙味があると言える。勿論、これらの要素は、彼女の二つの「仕事」が、そのまま反映したものであることは言うまでもない。

 

六、パロディとして(まとめ)

 

 繰り返す。作者は、登場人物をもっと増幅させることで、この作品のように、神様の方にもっていくのとは別の視点ができた筈ではないか、神様視点になったため(別の言い方をすると「神格VS小僧格」というまとめかたをしたため)、主人公に感情移入出来ない作品となってしまったという批判が、この作品の根幹である。
 しかし、こうした「作家評」「作品評」だけだったら、論文でも充分できる。小説としての命はやはり、パロディの部分だ。
  話は飛ぶが、稿者は、かつてよく行った東京目黒の区立図書館の「図書館だより」に、漫画「サザエさん」をマルクス主義的教条主義で分析した記事が載っていたのを読んだことがある。「「サザエさん」には、社会への批判の視点が欠落しており、プチブル的ぬるま湯があるだけだ。」と批判しているのである。これには大笑いだった。おそらく、大学経済学部あたりを真面目に卒業、公務員として図書館に勤めはじめ、初めて図書館報の冒頭記事を任されたのであろう。区民とをつなぐ「たより」という性質との違和感と、何より、その大真面目な分析ぶりが微笑ましく、でも、何だか頓珍漢で(小市民を描いた作品を小市民的だと批判しているようなもので、サザエさんが、現代社会に対してアグレッシブな発言を連発しているようなアニメだったら、正直、ただでさえ、明日仕事だと気分が暗くなっている日曜日の夜に、わざわざ見たくないです。)、その差異が可笑しかった。つまり、私はマルクス主義論文のパロディとして楽しんだのだ。でも、思ったこと。この作者は、多分、笑いのタネになっているなどと夢にも思っていないだろうと。
 この図書館報の話は、書き手が意図していないが故に可笑しかったという部分が大きいが、志賀の、志賀だからこその、有産的立場から、ちょっとした事件を見聞した、その時の心理の違和感をタネにして、じっくり育てあげた愛すべき小佳品に対して、「階級闘争」的立場で威勢よく切り刻む、ある意味、「鶏を割くに牛刀を用ふ」のたぐいの、その意図的暴力的な手口が、読者を惹きつける訳で、それで、この作品をパロディとして支えているのは言うまでもない。
  『私の愛毒書』全体をみても、作品を連結したり(「鼻と蜘蛛の糸」「雪国の踊り子」「走れトカトカトン」など)、作品その後を設定してみたり(「ミッシマ精神研究所」など)とあの手この手である。
 この延長上に近作『マドンナの変身失格』(福武書店 平5)もある。表題作は、歌手のマドンナ、カフカの小説の主人公、太宰の小説の主人公が主役。何ともタイトル通りであるが、最後まで読み進むと、この小説自体が彼らが結成したロックグループの曲の歌詞だというのである。ギミックの楽しさというのか、意外性が命というか、そうしたところで勝負している作品だ。
 この本では、内容ばかりか、レイアウトで常識の破壊を試みている。別々の作者を想定し、上下二段にして同時進行する「其日草VSもの草」は、そのアイディアが秀逸だし、各編ごとにレイアウトを変えてあるのにも驚く。また、欄外には頁と逆行する「欄外小説」が書かれてあるなど、その奇抜な発想はとどまるところを知らない。
 ただ、発想の飛び具合に感心するが、なぜそういう発想が出てきたのか、説明不足で、どうもよくわからず、そのまま読み進むしかないところも時々出てくる。そこが、冒頭引用した巽氏の指摘ということになろう。
 いずれにせよ、彼女が培ったパロディ精神は筋金入りだ。ただ、逆に、あまりに足許がしっかりしているだけに、読者から飽きられる、あるいは、早晩、ネタが枯渇し、同工異曲、マンネリに陥る可能性がなくもない。そこからの脱却がいずれ必要になった時、どういう展開を見せるか、今後、彼女の場合、楽しみでもある。(終)

 

(付記)この小稿は、平成6年「金沢近代文芸研究会」の夏合宿でおこなった発表レジメを元に構成したものである。なお、その折りのメンバーの意見も幾つか採り入れていることを付け加えて置きたい。
                   
(平成6年8月口頭発表、雑誌未発表 平成16年10月加筆)

 

    [1] 
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