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 近現代文学

 この頁は、耽美派・ベストセラー論以外の、近現代文学についての論文、エッセイ、教育実践例などを掲載しています。
遅々として作業が進まず、過去に書いた論文のアップが遅れていますが、徐々に充実させていくつもりです。申し訳ありません。 

  (論文)昭和三十年代批評家覚書ー服部達を中心としてー

昭和三十年代批評家覚書 ー服部達を中心としてー

 

 本稿は、所謂昭和三十年代批評家について、その登場時における意味を、特に服部達に焦点を当て、彼の理論上の欠陥と死を中心に探ったものである。論究方法としては、論文を批評史で組み立て、全てを引用を以って語らしめ、文献総覧を兼ねるという一つの形式を脳裏に描いた試作であることを確認しておく。

 

〔一〕
 批評家が作家を批評する時、「思い入れ」は必要である。思い入れのない批評は成り立たない。しかし、その思い入れが、ある世代の批評家に共通したものであるならば、事は重大である。ここに第三の新人と同世代の批評家達がいる。この人達に共通するのは、自己の興味の対象に対する過度とも思える思い入れである。奥野健男は『太宰治論』(注1)の冒頭で、

 

ぼくがこの評論を書く動機は、ぼくの精神の内部におけるどうにもならない必然性のためです。(中略)太宰のことを言われるのは自分のことのように恥ずかしいのです。

 

と、評論をするにあたっての心情を吐露しているのは有名であるし、

佐古純一郎は、矢張り、同じ太宰治を論じた『太宰治におけるデカダンスの倫理』(注2)「第一章 出発点」の中で、

 

太宰治、それは私にとっては限りない郷愁なのだ。私の青春は太宰治の文学のなかで育ってきたといっても言いすぎではない。かつて太宰治の文学は私の希望であった。あの絶望にみちた世界が、希望であったということ、その逆説のなかに私の、いや私たちの世代の宿命があったのかもしれない。

 

と、批評対象に熱烈なラブコールを送っている。随筆や回想記ならともかく、このように対象に密着していて評論などできるのだろうかと訝しくなる程である。彼らの多くは、一世代前の作家に自己の興味の対象を求め、それを論ずる所から出発した。彼らは、以下述べるような理由から、所謂戦後派の批評家達とは大きく一線を画していたと思われるのである。

 普通、評論というジャンルを芸術作品にまで高めたのは小林秀雄と言われている。それ以前は、きわめて割り切った言い方をすれば「長い健康な啓蒙期」(江藤淳)(注3)であった。その小林秀堆でさえ、結局、彼の仕事は、文芸批評を確立し、且つ自ら破壊したという批判がなくはない。本多秋五は、大別して批評家には、現代作家や作品を専ら批評の対象にする批評家と、思想や文化の問題などを対象にする批評家がいると二分した(注4)が、小林秀雄は、広義の意味で後者の系列の代表者であり、それに続く戦後派批評家群は再度、江藤淳に裁断させれば、「小林の語彙を用いることを識った新しい、衰弱した啓蒙家たち」(注5)ということになろう。彼らは、政治と文学の問題など戦後の思想の確立に忙しく、自己の青春を賭けた対象に耽溺する暇などなかったのである。
 昭和三十年代に入っての批評の変化について、一般的な文学史入門書等では、「三十年代に活躍をはじめる批評家たちは、共通の傾向として、いずれも現実とは別次元の文学作品の内的構造の解明を志向している」(注6)と概括されている。この志向の変化の裏には、戦後の批評方法に対するアンチテーゼが認められる。これを本多の図式で言えば、後者から、作家や作品を多く対象にする前者への方法の転換があったわけである。第三の新人と言われる作家と同世代の批評家(以下同世代批評家という)は、前世代とは違って、政治的関心が欠如し、高邁な思想を持っていなかった。同世代批評家服部達が規定した第三の新人の特色、

 

即物性、日常性、生活性、現状維持性、伝統性、抒情性、私小説性、形式性、非倫理性、反批評性、非政治性(一部略)

 

は、同じ戦中派で精神的基盤を同じくする以上、批評家達にも当然当てはまる。となると、彼らは反批評性を特色とする批評家ということになってしまう。そんな批評家が存在するだろうか。批評精神の欠如した批評家など……。そもそも、戦後派批評家の概念から見るとこれでは批評家と呼びえない程、その批評的立場が稀薄ではないか。彼らのできることは、第三の新人の作家達と同じく、自己の興味や資質のみ信じて、その中から批評対象を見つめていく以外はあり得ない。彼らの批評の出発が、本稿冒頭に引用したような対象を全面的に肯定した作品が多いのもあながち不思議なことではない。こうした方法のみで批評していては、対立的に客観化して考察する所謂「武器」を持っていないのだから、早晩、対象を論じ尽くして行きづまるのは目に見えている。
 同世代批評家が、第三の新人と同じ戦中派で、同じ資質であると言っても、登場当初、両者が固い絆で結ばれていたかといえば否である。第三の新人の命名者の一人である山本健吉は、彼らは「必ずしも『第三の新人』の理論的支持者でない」(注7)と評している。これは、彼らの興味が自分を導いてくれた前世代以前の作家にあり、同世代の作家に冷たかった事情を表わしている。例えば、奥野健男は、初期の安岡章太郎を評して、「相対的安定期の文学」と呼び、

 

ぼくたちはがっかりするより、むしろあきれて、一体誰がこのような作品を読むのであろうかと、不思議に思ったのです。(中略)一時的な持需景気に照応する根なし草の文学だなどとぼくたちは語りあっていました。

 

と、冷やかな目でその出現を傍観していたことがわかる。この点は、また、吉行淳之介が文学的回想記『私の文学放浪』の中で、「同年代の批評家からの援護射撃も得られなかった」と記しているのとも一致する。つまり、同世代批評家は第三の新人の生き方や文学的方法を理論的に援護するという関係で登場したのではなく、自己を信じ興味に忠実に生きるという生活上の発想、処世術が同一であるという点で繋がっているのである。この意味で、第三の新人が作品と理論の両面から華々しく登場して、ある種の文学的ムーブメントとなることがなかったのはむしろ当然といえる。
 同世代批評家の主要なメンバーが一堂に集まって『現代評論』が発刊されたのは、昭和二十九年六月である。服部達、遠藤周作、村松剛、日野啓三、進藤純孝、奥野健男、佐古純一郎、武井昭夫、吉本隆明等が参加した。この雑誌は二号で廃刊となり、服部達らのメタフィジック派と、吉本隆明、武井昭夫らの政治的な『現代批評』派に分裂するわけだが、この雑誌に集まった批評家、特に前者の人々こそ戦後批評の中心であった現実と文学との結合を前提とした批評原理を転換させ、現実を超える領域を批評理念として提出させようとした批評家達であると言える。以下、服部達を中心に考察を進めたい。


(1)昭和三十一年近代生活社刊
(2)昭和三十三年現代文芸社刊
(3)『小林秀雄』
(4)『物語戦後文学史(全)』新潮社刊
(5)前掲書
(6)代表としてここでは『現代日本文学史』岡保生・大久保典夫共著 桜楓社刊から引用した。
(7)「戦後の文学運動の消長」昭和三十年

 

〔二〕
 メタフィジック派の中心人物、服部達が新進批評家として注目を集めるようになったのは、「新世代の作家達」(近代文学 昭和二十九年l月号)、「堀田善衛論」(文学界 同年三月号)を発表してか(1)???らである。前者は、第三の新人論として最も早く発表されたもので、前述の第三の新人の特色の規定もこの論文のものである。彼は第三の新人の特徴として、

 

 一、ビーダーマイヤー的様式の優勢ー内容形式ともに小じんまりした作品を書く作家が多い。
 二、戦後派作家との対立。
 三、素朴実在的リアリティへの依存。
 四、私小説的伝統への接近。
 五、批評性の衰弱。
 六、政治的関心の欠如。

 

を掲げている。この時期のものとして実に鋭い指摘だったと言うべきで、以後の第三の新人論の基調となった。服部のこの論文は、同世代者が批評したということで非常に注目されたようである。吉行淳之介は「私たちと同世代の評論家たちは、第一次戦後派にたいする論評に熱心であって、おそらく服部のこの文章が同年代の評論家から寄せられた最初の批評だとおもう」とその意義を認め、「彼の出現は新鮮で魅力的だった」と評している。彼の第三の新人論は、他に「劣等生、小不具者、そして市民」(文学界 昭和三十年九月号)があるが、彼の業績の一つとして、この第三の新人の定義付けは重要である。
 しかしながら、矢張り、彼の名は「メタフィジック批評」の提唱者として記憶されるべきだろう。これは「メタフィジック批評の旗の下に」という題で、服部、村松、遠藤の三人が<三角帽子>の名で「文学界」昭和三十年四月から九月まで連載し、新批評を提唱したことによる。メタフィジック批評という命名について、服部は「言葉を発明したのはたぶん遠藤周作だったと記憶している」として、遠藤の命名であったことを明らかにしているが、実際の批評方法の内容については三人の思い描いたものに差があることを認めている。

 

遠藤のそれは、彼のカトリック信仰と結びついている。村松のそれは、彼がヴァレリィあたりから学んだ精神の活発さという概念と関係がある。私は私で、美学とか、想像力の自由さといったものを、メタフィジックという言葉から連想している。

 

別の箇所では、

 

信者でない村松と私は、遠藤のようにメタフィジック即カトリシズムと考えることができなかった。

 

と、その相違を述べている。しかし、「文学作品の批評を抜きにして、いきなり作家自体を問題とする、従来の自然主義的な批評方法に反対するという点」では、三人の意見が一致していたという。彼によると、現代の文芸批評界は、私生活批評、フロイティズム批評、マルクシズム批評、自然主義批評、近代主義批評、分類批評の六つの悪しき病にとりつかれているという。前三者は、作品を生み出す原因についての判断を、作品それ自体についての判断と混同しているとの、後三者は、非一般的で批評の代用品にすぎないとの理由で一蹴している。彼がこのように既製の批評方法を否定する根底には、

 

批評家たちの努力の大部分は、その中心点から遠く離れた円周上に縛りつけられている。それらの円周のあるものは、中心点に到達するための準備段階であり、別のあるものは、中心点から発した応用の段階であるかもしれない。しかし、いずれにせよ、その中心点自体は、いまなお空自のままに残されている。

 

という危機感がある。そして、真の文芸批評は、外面を評価するのではなく、作品個々の内的価値を評価すべきであると提唱するのである。この「内的価値の評価」という語句は、雑編を含め、彼の全著作のいたる箇所に見られ、メタフィジック批評の批評理論はとも角、その目ざしたものはこの一語に尽きるようである。
 では、服部が思い描いた「新批評」とはどんなものだったのであろうか。「われらにとって美は存在するか」(群像 昭和三十年四月〜九月号)は、彼の代表的な評論で、新批評の理論の集大成を目論んだ野心作である。彼の実質的な主張を展開したものは、極論すれば、この論文一編のみである。であるから、この論文を詳細に検討することで、彼の主張の全容を探り、また挫折した原因を明らかにしたい。
 この論文は「作品評価の混乱について」「「実在の文学」の潮流」「私小説の美学」「未来への脱出路」の四章から成り立っている。第一章で、以上述べた既製批評批判を展開し、内在的価値の評価のためには自己独自の美学の設定が必要と説く。それには個人の美的感受性の向上が必須条件であるが、美学は複数個存在している。美が評価の基準たるにはこれを統一しなければならない。「いかにして単一の美学を設定するか」ーこれが論文の問題提起であり、全編のモチーフになっている。彼は、この問題意識で、第二章、第三章において所謂私小説の分析を行なっている。一見、美学とは無縁に思える日本独特の私小説も、偏狭な美的世界ではあるが想像力の働きに支えられた美学の範疇に入ることを結論づけている。そして、第四章で、彼はこの私小説をも包含できるうる美学批評の内容について、すなわち、単一の美学の設定について語らねばならない筈であった。しかし、現存の第四章を読む限り、それは明確には提示されていない。論文の構造上、一旦、提示された設問に回答せずに終っているのは、尻り切れ蜻蛉の誹りをまぬがれ得ない。彼自身もこの点には気付いていたようで、別の文章の中で、

 

私小説という相手は、一筋縄では行かない。そこに引っかかって苦労しているうちに多くの紙数を費してしまい。わがライバル奥野健男に「龍頭蛇尾」と評される始末に立ち到った。

 

と弁解している。だが、本当にそれだけの理由だったのだろうか。第四章途中「本当の、開かれた想像力に支えられた文学は、どこにあるのか。」という文章以下、この論文は急に文体に変化を見せる。これを最初に指摘した磯貝英夫は、

 

この論文は、この最後の問いかけのところから、はっきり転調するのである。これまでのところは、表面、できるだけ冷静に、客観的に美学的分析をこころみてきたのであるが、ここで、かれは、一挙に、その仮面をかなぐり捨てる。「この小論に評論としての体裁を整えようとするなら、私はおそらく、論理的な証明をそれに対して与えねばならないだろう。しかし、そのような作業は私はもはや厭きた。」と、かれは宣言する。そして、自分の願望をむぎだしにして、パッショネートに語りだすのである。(一部略)(注2)

 

と、急に文章が論理的でなくなった点を強調している。事実、「そのとき、何かが私のうちで変化するのである。私は感ずる、かくのごとき場所が、果して生きるに値しようか、と。私は立ち上る……ともかくも立ち上るのである」云々の如く、あたかも陳腐な私小説そのままの文章が現われるのである。この時点で、最早、この論文は論文としての体裁を失なってしまっている。この形体上の欠陥は、彼の批評理論の欠陥に基因していると考えられる。彼の論理を分析して考えてみたい。
 この論文に見られるメタフィジィク批評の真意は、次のようなものである。彼が美学を持ち出す時、必ず「想像力」という語句が供なう。彼の基本的な文学観はサルトルの言を引用して語っている次の部分である。

 

生産者の側から見るならば、美を支えるものは想像力の働きである。想像力はわれわれの知覚に抗して現実界に尽きるところに非現実界を生ぜしめる。そして、『芸術作品とは非現実的存在である』

 

として、作家・読者相方から想像力によって再生するのが本来の文学作品の姿であると考える。そういった役割を持つ作品を、想像力を中心に内在的な価値に限定し評価するのが真の批評であるとするのである。この理論は、文学を想像性で規定する文学観のきわめて初歩的な概説にしかすぎない。彼のイメージするメタフィジックの意殊についても、

 

美は想像力に依存し、そして想像力は、何らかの神秘、あるいはかつて神秘と呼ばれたものの知的解明において、もっともよくその本質を表わす。

 

として、現実では計りしれない「神秘」というものを持ち出している。この「未知なるもの」こそメタフィジック(形而上学的)なものだと考えていたようである。つまり、彼の思考を図式化すると、

 

形而上学ー美学ー想像力ー神秘、未知なるものー形而上学

 

といった堂々巡りを繰返していたにすぎない。その上、神秘的だから形而上的と短絡に連結させてしまう発想も余りに幼稚と言うべきだろう。結局、彼の言うメタフィジック批評の理論は、これだけである。これでは余りに概説的、抽象的にすぎて、実際面でほはとんど何の役にも立たないに等しい(注3)。実際、彼が躍起になって提唱したメタフィジック批評の方法を使用した評論というものを彼は一編も書いていない。あるのは、諭旨は卓抜であっても、方法的には旧来のものを一歩も出ないものばかりである。では、何故、服部の理論が空論に終ってしまったのであろうか。論文の最終章に具体的方法を提示できなかったのであろうか。考えられることは唯一つである。そもそも、彼には具体的にどうすればいいのか見当もついていなかったからに違いない。途中までの私小説論は、美学的見地からの読みごたえのある分析ではあるが、複数の美学を統一する単一の美学の設定という論文全体の諭旨から見れば傍証でしかない。彼の理論的根拠は、サルトルの想像力理論そのもので、全面的におぶさっている。実存主義文学論の典型である。この点に問題があるようである。実存主義文学論で文学を規定した場合、意味を持つのは生産者(作者)と受容者(読者)の個々の対応の問題であって、読者一般に普遍的に共通した想像力を言うのではない。文芸作品は個人にとって主観的に如何に有効かが重要なので、客観的に人類共通の要素として想像力という概念をとらえているわけではないのである。問題は個人であって読者全員ではない。服部はこの点で大いなる誤謬を犯しているようである。数個ある美学の想像力による統一と言う時、彼の意識には、当然、個の多様性を超えた人類共通の普遍的想像力の存在を認める立場を前提としているわけで、サルトルの実存主義的思考はその前提には立っていない。ここに彼の理論が行きづまった最大の原因がある。サルトルに依拠する限り、美学的統一などということはありえないのである。ここに論理の破綻があり、具体的方法が提示できなかったのはきわめて当然の帰着と言える。
 彼が、この論の最後で、野間宏等戦後派作家のあり方にも疑問を発し、「私小説の伝統に断乎として背を向け、われわれの風土に決定的な反逆を試みる作家たちはいないのか。」と自問し、「大岡昇平と三島由起夫が残るであろう。とりわけ『俘虜記』と『愛の渇き』において。」と自答した時、そこにあるのは、磯貝英夫の言うように「もはや論証命題ではなく、理以前の服部達の主体的生願望に由来するもので、つまり美学以前の問題である。」(注4)と言うことができる。そこには何の美学的基準もなく、結局は、服部の個人的趣味の問題に帰着してしまう。彼の論文から論理という鎧をはがせば、その地金は、欠張り、自己の興味のある対象に忠実であるという、第三の新人と同世代の批評家共通の弱味をさらけ出してしまうのである。新批評を目論みながら、理論上の欠陥に気づかなかったため、実体を思い浮べることができず、最終的には自分の趣味を基にした批評眼で批評をして、お茶をにごしていたというのが実状ではなかったかと思われる。    


(1)例えば、後者は平野謙の著名な「文芸時評」に取り上げられて、「ようやく新しい文芸評論の成熟してきたことがわかる。(中略)服部の堀田論などをよむと、よかれあしかれ同時代の批評家でなければ発言できない微妙な論旨が展開されていて、たのもしい。」と賞讃をあたえられている。
(2)「国文学解釈と鑑賞」昭和四十七年五月号「戦後批評の展望」
(3)「東京新聞」「大波小波」欄恒例の年末匿名座談会「文壇ざっくば乱」(昭和三十年十二月二十七日)には、
  B 服部達、村松剛、遠藤周作の「メタフィジック批評の旗の下に」には何もないね。
  F メタフィジックというのはどういう意味かね。
  B ご当人に聞かなければわからんよ。一人一人違うらしいよ。
  G へタな評論でもいいからジックリ書いて行こうというのだろう。ヘタフィジックだ。(笑)
 と、その空論を指摘、強烈な嘲笑をあびせている。
(4)前掲書

 

〔三〕
 服部達が自殺したのは、昭和三十一年一月一日夜半である。彼は八ヶ岳山麓の清里村キリスト教団清里センター清泉寮から失踪、約半年後、小海線鉄橋近くで死体が発見された。彼の自殺の動機は、当初、色々取り沙汰されたが、その資料となるものに、服部の「最後の日記」(知性 昭和三十一年三月号)が発表されている。この中で、彼は自らの自殺の方法について詳細に説明している。彼の計画では、

 

私がここに持ってきたのはプロパリン百錠入りの瓶だけである。おそらくそれだけでは死なぬ。だから私はこれを飲み、清里駅とは反対の方向へ歩いて行くつもりである。私は体力があったら(それはむろん睡眠剤ののみ方とも関係してくるが)八ヶ岳まで登りたいものである。

 

となっており、死体発見の方角が多少違ってはいたが、基本的には自分の計画した通り自殺を遂行したようである。「どうせわかることだから、書いておく」という事務的とも思える語調に対して、小松伸六は「死を前にして、これだけ自殺するまでの過程をはっきりと描く???ということはどういうことなのか。自己顕示欲なのか、死の演出なのか」(注1)と批判している。稿者が読む限りにおいても、この記事は「爬虫類めいた冷たい男」(日野啓三)(注2)という彼の性格の印象通り、客観を装った冷たさが感じられる。
 彼の自殺の俗物的な原因の方は、大きく分けて二つに尽きるようだ。則ち、女と金である。安岡章太郎が彼をモデルにしたといわれる『舌出し天使』の主人公の状況は、安岡の虚構が多いにしろ、ある程度は真実であるようである。服部の手記の、

 

Aへの愛情の問題なら、私はどこまでも生きのびただろう。借金はかなりあるが、借金とりは生命までとらない。

 

という弁明は、逆に勘ぐれば、確実に要因の一部であることを示しているとも考えられる。彼自身が分析した最終的な自殺の原因は、「疲労とプライド」の問題だという。「<死>の動機をいろいろ解釈している服部達の遺書は滑椿なほど倣慢なところが見えるし、道化的自殺にもみえてくる。」(小松伸六)(注3)と評される所以である。
 とは言うものの確かに彼は疲れていたようだ。自殺の一週間前に面会している僚友佐古純一郎は、「最後に会ったとき、たいへん疲れている服部を感じ、彼自身もそのことを訴えていたことが、いまだに忘れられない」(注4)と証言している。
 では、彼の疲労はフィジカルな方面からのみ考えてよいのか。答は、勿論、否である。稿者が前章で論じた、彼の批評の根本的矛盾からくる批評の行きづまりが大きな要因となっていることは言うまでもなかろう。彼自身方法の欠陥に気付いていたかは不明であるが、

 

批評を書いて、近ごろ、とくに私は一つ書き終えるたびに自分がカラッポになるような気がした。

 

と述べて、行きづまりを認めている。
 メタフィジック批評の行きづまりだけでなく、彼の第三の新人論の中からも、早晩、行きづまりを見せるであろうことが明確に類推できる。佐古純一郎が、

 

わたくし自身、自分を棚にあげて第三の新人たちを論じることはできないし、彼らとの間に距離を設けることはまことに困難であることを感じる。第三の新人たちの作品になんらかのひ弱さやもの足りなさが指摘しうるとしたら、それはただちに、わたくし自身のうちにもあるひ弱さであり、もの足りなさであるのかもしれない。わかりすぎるがゆえに嫌悪を感じるという気持ちが、たしかに第三の新人たちに対するわたしの気持ちなのである。

 

と自らを顧みる時、事情は服部にとっても同じ筈である。服部の第三の新人論に対して、 

 

第三の新人たちの空虚感が、わかりすぎるくらいわかっていて、しかも、文学表現としては自分の理念からはほど遠い、という嫌悪に似たいらだたしさが、その行間ににじみ出ている文章である。

 

と、佐古が感ずるのも、彼が同じ苦境に立たされていた故であろう。則ち、服部の第三の新人論は、稿者が第一章で述べたような、同世代としての自己撞着をおこしているのである。第三の新人の弱点や問題点を全て自己の問題として還元させなくてはならなかった所に、服部の思考に無理が生じ疲労していった原因がある。佐古が彼の文章の「彼ら」という言葉が、いつの間にか「われわれの世代」として論じられていると指摘しているが、これもその一証左となろう。
 服部は、従来の批評を否定して、新しい形而上学的批評体系を樹立しようと企てたわけだが、それは考えて見れば、同世代批評家とも思えぬ、きわめて思想的で政治的な大事業の宣言だったと言わざるを得ない。批評家として大魚を狙った彼が、本来的に「反批評性、非政治性」であると自ら規定したその第三の新人の世代に属していたのが彼の悲劇であった。彼は自らが立てたスローガンに追いつくのに自信を喪失し「疲労」していったわけである。メタフィジック批評を提唱したことで批評界に登場した彼であるから逆説的になるが、彼はメタフィジヅク批評など唱えなければ自殺などしなくてよかったかもしれない。
 服部の死後、文壇内で自殺の原因の類推や追悼文が発表されたが、その中で、「東京新聞」「大波小波」欄(昭和三十一年一月二十八日)の匿名子<なだれ>の「服部達を悼んで」という論評は、この時期のものとして実に適確である。ここに引用する。

 

『三田文学』に書いた「ロバート・シューマン論」が、彼の最後のまとまった仕事だろうが、これは彼としては珍しく私評論的で、死ぬかもしれない彼の弱さが現れている。彼は、「誰のために書くか」と問いながら、やはり「自分自身のために」と言わないではいられないロマンティシストである。ロマンティシズムを超えようとしながら、超えきれない自分の資質を、彼は反芻している。自分を「素数的な存在」、言いかえれば「純粋に個人的な存在」として意識することと、彼の新しい文学観との間隙を埋めえなかったところに彼の破滅が待っていた。

 

この「個人的存在」という語句を、「第三の新人と同世代」、あるいは「戦中派」という言葉に置きかえれば、より明確になるだろう。彼の死は、戦中派故の悲劇であり、「世間が平和な状態にもどると戦中派は一種の潜函病を起して死んだ例」(安岡章太郎)(注5)のいたましい一つであった。彼以外の同世代批評家達は、その後、順調に理論を発展させて今日に到っているが、当時の状況下においては、誰もがこの危機に直面していたと考えることができる。

 


(1)『美を見し人はー自殺作家の系譜』講談社 昭和五十六年二月二十六日
(2)中公文庫『舌出し天使』解説
(3)前掲書
(4)『戦後文学論』昌美出版社 昭和三十八年五月、以下の彼の引用は本書に依る。
(5)安岡章太郎自作年譜 

 

〔付記〕
 本論は『美を見し人は』小松伸六(講談社)と、『文学の探求』佐古純一郎(審美社)に多大な示唆を受けている。両著者に感謝申し上げたい。なお、脱稿後、月村敏行氏に服部達の死についての詳細な評論があることに気付いた。拙稿と一部に論旨の重複があるが、論の展開上そのままにして置いた。一応この点を確認しておきたい。
 本稿に引用した以外で管見に入った服部達に関する批評は次の通りである。
○長谷川泉(国文学解釈と教材の研究 昭和四十五年十月臨時増刊「現代評論の手帖」)
○村松剛「『批評』の周辺」(佐伯彰一編『批評'58〜'70文学的決算』番町書房 昭和四十五年刊)
○大久保典夫「昭和三十年代批評の動向」(国文学解釈と教材の研究 昭和五十五年四月「戦後文学の検証ー八十年代を迎えてー」)
               (「論究」第4号 佐古研究室 昭和57年10月 所収)

    [1] 
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