(北陸の同人誌評)詩評(平成12年1月)
今回は、誌誌「独標」74・75号、「部分」7号、「笛」211号、「祷」18 号、「ある」168号、「結婚式場」7号を読んだ。 以下、「現代詩読解講座」風に……。
私の好きな詩に、黒田三郎の「海」という作品がある。 「駆け出し/叫び/笑い/手をふりまわし/砂を蹴り/ /飼いならされた/小さな心を/海は/荒々しい自然へ/
かえしてくれる」
海を眺めていると、日々の生活に追いまくられて委縮しきった精神が解放されていく。誰でも実感する詩だ。 前半は、波とたわむれる子供達をイメージさせる。これに、後半の「小さな心」という語句が補強の役目をする。しかし、もちろん、前半の動詞たちの主語は、子供ではない。駆け出し、叫んでいるのは「海」そのものである。擬人法と言ってしまえば、それまでだが、波を人の動作のように感じた詩人の感受性は鋭い。これに感づくかどうかで、この詩がわかるかが決まる。詩を読み慣れていない人には、こんなシンプルな詩でも手ごわいようだ。
詩を読む時にはコツがあり、いくつかのパターンを覚えてしまえば、そんなにこわくない。この手の詩の場合、わからなくなったら、「タイトルに戻れ」というのがコツである。多くの場合、タイトルに、素材、モチーフが示されていて、それを道標に読んでいけばよい。仕掛けが複雑でさえなければ、これほどわかりやすいものはない。 今回も、この種の詩は多かった。中でひろ子「中傷」(「独標」74)は、「それは〜」ではじまる。以下の記述全て中傷に関するコメントだと最初に宣言している訳で、読み手に構えはまったく不要である。 塩谷利夫「母−平成六年死別にて」(同)も、まさにタイトル通り。「バックギヤを入れて下さい」とリフレインしながら、思い出をフラッシュバックしている。実にシンプル。ただ、もう少し芸があってもいいような気がする。
次に、詩的な言葉というより、散文的、或いは事実の報告が続き、これが詩なのかといぶかられるようなものがある。この場合、末尾の一行で詩として成立していることが多い。それまでは長い前置きで、その中に伏線がはつてあると思えばよい。 真柄達夫「消耗品」(同)は、その典型。敗戦色濃い秋、入隊通知がくる。入隊当日、連隊長の訓示は「兵器や馬や車両は/貴様ら消耗品と違い/畏くも天皇陛下から/授かったもの/大切にせにやいかん」というもの。この詩は「一九四四年十月一日入隊兵/不要在庫品」で終わる。つまり、九月一日入隊兵は、消耗品として全滅したが、一ヶ月遅れの作者たちは生き残ったということ。些か自嘲的がら強烈な軍国主義批判となつていて、この一行で詩になつた。 小林クニコ「不在者投票」(同)も同様。障害者の多くは、投票する気があっても、物理的に出来ないことを訴える文が続さ、「投票を終えて大仕事を済ませたように清々しくなつている自分/私は明日不在でもないのに」と結ぶ。視線が自分に向いて、相対化できた。ただ、この詩の場合、ラストが弱いために、前半の演説調が少々目立ってしまった。 同じ作者の「声」(同75)は、留学した娘に対する母の思い。「娘よ帰る時はワイドになつておいで!」が末尾。主題そのものである。何のケレン味もない。良かれ悪しかれ、この作者の持ち味なのだろう。 杉原美那子「クッキングノート」(「笛」)は、繰り返しのユーモアを使って、読み手を引っぱつていく。ドレッシングは「溶け合わないものもいつの間にか融合する」とまとめて、ラストに「しかし/時間がたてば分離するのはしかたがない」とおとす。最後にぽんとほうり投げた格好だが、これが何の謂なのかは今一つ判然としない。もっと伏線がきいていたらと思う。
次に、どこかにはっきり心臓部のある詩がある。例えば、室生犀星「小景異情」の詩六つ。心臓部は、何といっても、有名な「ふるさとは遠きに〜」ではじまる「その二」である。ここで語られる、詩人の置かれた状況、心情を押さえてしまえば、あとは各論だと思ってしまえば、理解は容易だ。もちろん、一つの詩の中でも同様。 酒向明美「二月の空から」(「独標」74)は、第三連「あの胸に飛び込んでいたなら、夕陽と燃えて落ちてゆけただろうか。けれどあのひとには守るべき家族があって、わたしは道を外れる仔ひつじにはなれなくて」で、全てがわかる。つまりは、不倫の詩なのだ。もし、他の個所に、抽象的表現・難しい比喩があつたとしても、それさえわかれば、飾りのような気持ちで表現を楽しめばいい。
ほかに、頭の中で発酵したイメージ・空想だけを頼りに、詩世界を構築していくというやり方もある。この場合、読み手は、大まかな全体のイメージを把握できれば、それでいい。一つ一つのイメージには、何らかの深い意味があるだろうが、それには、詩人の生いたちにさかのぼっての理解も必要となり、短い詩の中で、全て説明がつくはずもない。個人的なイメージの連鎖は、一歩間違うと一人よがりに見える場合もあって難しい。わからない行は飛ばして読んで、イメージを楽しむというのが正しい態度だ。 中谷奉「風の終わり」(「笛」)はその典型。「今宵入り江に帆船は沈められる」ー現実にある祝祭ではあるまい。「風をはらんだ帆は海底で意識を失う」ー海の中の風とは? おそらく理屈ではなく、海底に帆をたるませて沈んでいる船のイメージが大事なのであろう。
これとは逆に、ごく日常的な光景、出来事に対して、凡人ならどうでもいいことと忘却の彼方へ、次から次へと押し込んでいるところを、微に入り細に入り分析している詩のパターンがある。 例えば、伊名康子「訪問者」(「結婚式場」)の訪問者とは、保険の外交員のことである。吉野弘の詩に、子が生まれてすぐ保険を勤めに来たことを、この子のどこに死の匂いがたちこめていたのかといぶかる秀逸な詩があるが、ここでは、何とかおひきとり願おうとオロオロする主婦の感懐が中心。如何にも日常的な光景である。実作者の立場からいうと、よくこんな小さいことを、深く鋭く考えるものだと読み手に思わせるのがポイント。詩人の日々の心の対話の質が如実に出ることだろう。
詩のパターンは、無論、これだけではない。この他、どんなパターンがあるか考えながら読むのも楽しいのではないだろうか。
最後に、地元詩人の詩を理解するコツを、こっそりあなたに教えましょう。絵画でも、ルノアール風、ユトリロ風というのがあります。詩も一緒です。谷川風、石垣風。まず著名な詩人の詩集を沢山読んでみてください。それから地元同人詳誌を読むと、何だかよくわかります。決して皮肉ではなくて、コツとして……。
(「イミタチオ」「北陸の同人誌評」 34号 平成12年1月) (一部加筆あり)
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