(北陸の同人誌評) 短歌評 平成13年後半〜14年前半
今回は「新雪」平成十三年十月号(六六一号)〜平成十四年一月号(六六四号)、「柊」平成十三年十月号〜十四年一月号の八冊の歌誌を読んだ。 九月十一日、アメリカの同時テロで、世界は震撼した。いや、この表現は、個人的に言えば正確ではない。私自身、大変な事になったと興奮は覚えたが、テレビに映る映像に、映画のワンシーン然とした非現実感が伴っていて、内心困惑した。大惨事ではあるが、所詮、他国のことだという投げやり感、そして、建国以来、正義の名の下、他国への介入や侵攻を繰り返してきた強権主義へのしっぺ返しとして当然かもしれぬという、微かな悪意にも似た感情。私があの時味わった感情は、正直な話、瓦礫の下に埋もれた被害者とその家族への凄惨に思いを致すヒューマニズムとは無縁なものであったことを、ここに正直に告白したい。人間らしい感情は、私の場合、少々遅れてやってきた。 私の心がニヒリズムに陥っているのかもしれないし、個々人、ヒューマニズムの美名の下、意識的にしろ、無意識にしろ、鬱勃と湧く反正義的感情を、これではマズいと押し殺しているだけなのかもしれない。テロ、炭疽菌、アフガン報復戦と続く一連の動きについて、世上、色々な感想が聞かれることとなったが、私の感情のごとき、反動ととられかねない言説を積極的に弄する輩がそう多くいるはずもなく、事態の分析と展望の言説はすれど、後は「大変なことになったね」路線で終わってしまうのがオチであった。 ところで、日本の短詩系文学において最も重要なのは、言うまでもなく、その時々の生活の中で生まれる<思い>である。今回、テロ後の月刊歌誌四ヶ月分ということで、関連詠が多かった。生活詠が圧倒的に多い地方歌誌に、刻々変化する世界情勢が月々号に反映されていく。その辺りが今回大変興味深かった。二誌のうち、特に「新雪」に多く、「柊」に稀であったのも、両歌誌の特色を示していて興味深い。 テロ直後の詠は事実の確認の如きものが多い。
聳え建つ貿易センタービル二棟火を噴き黒煙上げつつ崩るる(田島邦子「新雪」十一月号)
が如き歌である。そこに湧く感情は、「瞬時の悪夢に眼疑ふ」(石塚しづ子 同)「テロに腹立つ」(田島 同)「テレビ凄じ」(水上幹佐夫 同)といった直截的なものだ。
ドラマかと眼を疑いぬ一瞬に巨塔くずるる砂の塔とも(池田喜美子 同)
平和のための戦とぞ今し落つる日に嗚呼ヴィオロンのためいき震ふ(岩田記未子「新雪」新年号)
前者は、こうした中で、「砂の塔」というイメージを付加することで詩となった。後者は、例の「秋の日のヴィオロンのひたぶるに……」を踏まているのが眼目の秀歌だが、発表月からみて熟考の作、直後の詠ではあるまい。 社会詠の良否は、周知のように、社会の出来事の取り込みが自身にとってどれだけ真実であるかを表現できるかという点だ。まず、日常生活との対比によって定置させようとした作品がある。
テロによる死者不明者の増えてゆく朝を曼珠沙華血のいろに咲く(藤井順子「新雪」十一月号)
早口にテロのニュースのしばし後「ひるのいこい」の曲流れ来る(寺岡千鶴子 同)
飾りたるこけしの面輪も憂い見せテレビは写すアフガン戦禍(文大麗子「新雪」十二月号)
アフガンの空爆伝ふる記事目立つ黙して配る今朝の新聞(上坂信行「柊」一月号)
また、戦争ということで、過去の日本の戦争を想起して自己とつなぐ歌々がある。
聖戦といふ語杳き日戦ひのわれらに覚え無しとは言へず(津田嘉信「新雪」十二月号)
タリバンは「死ねば神になる」と教えしとわが特幹時代を思い出でつも(丸田信「柊」一月号)
これらは戦争体験をお持ちの年輩の方の所感として当然のものだろう。 『新雪』十月号、奥付にあたる「トライアングル」欄に、津田嘉信氏が中東情勢悪化の報を書き付けたのは九月七日。四日後に事件。次号の「あっと・らいと」欄では津川洋三氏が、テロ発生直後、津田氏より原稿に日付を書き加えたい旨の連絡があったと明かす。次の十二月号では、同じく津川氏が「朝日新聞」に載った辺見庸氏の、アメリカの行為は国家に支持されているが、絶対多数の人間の良心には逆らうものだという論説や、現地の女性の立場に立って詠まれた石川逸子氏の詩「なぜ攻めにくるの」を紹介する。事実への衝撃という当初のかたちから、様々な言説の中で、民衆への思いや自分の立場を決めていく思惟へと深く変質していく様子は、こうした短歌誌所載の散文からも理解できよう。 短歌作品もまた、同質の移行をしている。テロが「これは戦争だ」となり、一指導者殺害が一国の政権崩壊へと拡大していく様子に、
タリバンを支持するならねど今一つ大国の論理に馴染まざるわれ(橋本忠「新雪」新年号)
と、正義の仮面への違和感を表明する歌。また、同じ母としての共感が素直に表出する、
母見上げ笑むアフガンの飢ゑたる子撫でて抱きたしその凛々しさに(伊藤喜美子「新雪」十二月号)
などの歌がそれに当たる。ここに描かれるのは、人としての実感的良心であり、生命への愛しさである。 だが、実は、私が望むのは、正義や詠嘆やヒューマニズムにまぶされた哀しみだけではない。勿論、こうした歌々を尊重した上で、冒頭、敢えて告白した人道主義と相反するも覚悟の、紛れもなく自己の真実の感情の表白の作歌を希求したいのだ。そうした自身と近しい詠を見つけようと八冊通読したが、残念ながら出会えなかった。 その時々、ちらりと思った、しかし、無意識に無視した気持ちのうねりを見事掬い上げ、卓抜な表現で定置させた歌が出現した時、その事件・社会的現象は文学として真に素材となったと言いうるのだろう。そういった意味で、散文が数ヶ月後には、言説として足る作品を輩出する割に、韻文で真の表現を得るのは難しく、理屈でない分、発酵に時間がかかるのかもしれない。これは短詩型文学の宿命でもあるかもしれないが、言うまでもなく、真の表現を得た時の強さは、散文の比ではない。ただ、作る側からしてみれば、社会詠を生活詠の範疇で処理しようとしても、歌が羽ばたかない。独立して扱おうとすると、今度は自己とのスタンスに悩む。なるほど、なかなか難しいジャンルである。 撃ち合ふは無惨なれども宿命か戦ふ時は戦ふが良き(桶田力雄「新雪」新年号)
最後に、誤解のないように付言する。この歌に歌われているような思想を稿者が擁護している訳ではないことをご理解戴きたい。
(「イミタチオ」第38号 平成14年7月)
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