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書評・北陸の同人誌評

  この頁は、「書評」と「北陸の同人誌評」を掲載しています。
 「書評」は、文学誌「イミタチオ」誌に掲載された「北陸の本」、教育機関のパンフレットの掲載されたもの、ミニコミ誌に掲載されたものと初出はさまざまです。
  「北陸の同人誌評」は、同じく文学誌「イミタチオ」誌に掲載された「北陸の同人誌評」コーナーが初出です。

  (北陸の同人誌評)小説評(平成4年)

(北陸の同人誌評)小説評(平成4年)

 

 先年、「スキーとお楽しみ抽選会のつどい」に行った時のことだ。毎年秋に実施されるスキー場宣伝のこの催し物はいつも若い人で一杯、当夜も会場満員の盛況ぶりでざわめきあっていた。定刻、主催者である某新聞社の方が挨拶に立たれたが、一向にざわめきはおさまらず、ついにほとんど聞きとれぬままに壇上を去っていかれた。失礼な話で、立場上おこる訳にもいかず、情けない思いをされたであろうことは想像がつく。
 この出来事に出喰わして、私の脳裏に浮んだのは、市内の某中学校は、全校集会がさわがしく、集会になっていないという噂であった。そこは、近年、急速に都市化した地域を校下としており、誰も生徒が聞いていない中、賞状伝達式などの式典が進行していく様を想像して、こんな感じなのだろうと虚しい思いにかられたものだ。
 教育がしっかりしていないからだという批判は容易だが、集団行動を全体主義に通ずるとして、重要視しなかった戦後の思想の「成果」とでもいうべき実態が、ついに学校レベルから、大人の集会にまで及んできたということだろう。腹を立てる人間は旧人類なのかもしれない。
 この二つのことで結論づけるのは少々無理があるかもしれないが、スキーのつどいは、色々なスキーグッズがあたるお楽しみ抽選会のために集まっているのであって、楽しくないことに、神妙に耐えている義理はないという感覚、則ち、一種の快楽追求主義とでもいうべきものに世の中全体がつき進んでいるように感じられてならないのである。
  そこで、<小説>。

  小説を読むことは一般の人にとって楽しいかということだ。楽しくなければ小説は見離される。吉本ばなななどは、その辺、実にはっきりしていて、現代の若者は、おもしろいかおもしろくないかをすぐにはっきりと判断してしまう、だから、小説にとって重要なのは<スピード感>だという認識から出発している。現代人は映像人間だから、それを超えて、文字を読ませるには、文字というものを意識させたらもう既に失敗しているというのである。事実、私がこの批評文執筆のために同人誌を読んでいたら、配偶者がポッリと「いまだに、小説をじっくりと読んでいる人なんているのかしら」とのたまい、少々慌てた。<読む>という行為ですら、最早かくの如し。<書く>という行為に努力されている方々を、我配偶者は何とのたまうであろうか。
 高校生の夏休みの読書感想文を読む機会があるが、よくある文章に、「私は久しぶりに本一冊読みました。」というのがある。中学三年の時は受験で忙しく、読む暇がなかったそうである。では、入学後一学期の間は何をしていたのだろうか。最近では、学習参考書でさえが、塾特製のプリント等に押され、店売の売上げが低下しているとの詰も聞いた。
 近年、「老人文学」というジャンルが隆盛している。これは、単純に老齢人口の増加に供なっての現象だと理解していたが、どうやらそうでなく、若い年齢層が完全に小説を二次的なものにしか考えておらず、書き手は、高年齢層にターゲットを絞らなければやっていけないという事情がそこにあるからだと気がついた。熟達の文章で老人の心情や生態を綴る高級(?)そうな小説と、表現面からして、文学の普遍性を無視し、人生の機微などとは関係のない、読者を若者に限ることが当り前の顔をしたポップ(?)な小説とー二極分化した姿が今の文学の状況だろう。
 今回、「雪嶺文学」七号、「大地」三十三号、「北陸文学」五十三号、「若狭文学」三十号、「金沢文学」八号を読んだ訳だが、やはりと言うべきか、「老人文学」と目される作品が目についた。
 荒川義清「可哀相に」(「北陸文学」)は、七十五歳になる「私」が、庭を荒らす鼠と悪戦苦闘する話。妻の視点と交互に描かれ、現役時代の仕事のこと、かつて関係のあった女との問題、戦争でした残忍な行為への自責の念などが交錯し、二人の心理に陰影をつけている。生け採った鼠をどうするかで迷う老夫婦の心情に、痴呆や寝たきりになるのではという将来の不安、これまで生きてきた人生の考え方がうまく投影され、納得のいく結末となっている。
 原政子「さよならも言わないで」(同)は、村の老婆の中で一番元気にしていた「おみよばあさん」が、農作業の帰りに一人倒れ死亡した、日常いかにも起こりうる小事件を、実に素朴なタッチで描いて印象深い。
  熊谷宗秀「鳩豆売りと四人の老人」(「金沢文学」)は、鳩豆売りのせいで、寺院内に鳩が群生し、その対策に宗務所が困っている様子を、毎日、休憩所に日がな集まる四人の老人が話の種にしているーそんな梗概である。寺院側が打つ鳩対策は、当然とも思える処置ばかりなのだが、特に俗世間であくせくすることもなくなった四人の老人の超然とした会話を読んでいると、本来、聖なる場所であるはずの寺が、妙に俗っぽく思えてくる。そのあたりに作者の主眼があるかと思えた。
 森松和風「長梅雨」(「雪嶺文学」)は、息子である「私」が父の死の二週間前から死までを記録した手記という体裁をとる。一人称という事もあり、ほとんどフィクションを感じさせない語り口。副題に「雨多き平成三年七月」と極めて私的である。交通事故で寝たきりとなった父親の「気配り」の性格を描写しつつ、息子として父の死に立ち会う心情が綴られていく。稿者はノベルとして読んだが、「編集後記」によると、作者は、小説家森山啓の子息という。途中、日記体の記述もあるので、本作は、記録(ドキュメント)と解釈する方が自然なのかもしれない。余りに対象と密着しているので判断に苦しむところだ。が、いずれにしろ、一人の老人の死を、その個性を描いていることに変りはない。
 老人を扱った作品以外では、佐藤嘉代子「なごり雪」(「金沢文学」)が、十四歳の少女が味わった不幸な生いたちを、昔語りのように、過多の感情移入なく淡々と描いて秀逸であるし、大森定嗣「迎え火」(「雪嶺文学」)は、以前、分校の教員だった主人公が、秋祭りに再訪する内容だが、小さな部落がやりくりして秋祭りをする様子が実にリアルにイメージできる。共に手堅い作品だ。天野流氓「傷」(同)は、水商売の女の一人語りが仲々の技を見せ、杉本利男「ご破算願いましては」(「金沢文学」)は一種のビジネス小説として読んだ。以上、駆け足ではあるが、ここに掲げた作品は秀作と呼ぶにふさわしい。
 今一歩という印象を持った作品には共通した弱点があるようだ。それは、同人誌故、限られた紙数を念頭に置いて作品作りをせねばならないにもかかわらず、長編のプロローグで終ってしまっている場合が多いということだ。せっかく、枚数を費やして人物が印象深く心に入ってきた途端、枚数が尽きてしまっているという印象である。その結果、特に結末に不満が残る。短編の難しさと言ってしまえばそれまでだが、やはり、永遠の課題だろう。
 北陸の同人誌に載る小説群は、実に手堅い。非常にオーソドックスである。おそらく熟達の方が書かれているのだろうと容易に想像できる。しかしながら、巧みであればある程、現代のマスメディアの中では取り残される状況となっていくのは冒頭に述べた通りである。その意味で、同人誌の中に、もっとスピード感のある、若い感覚の作品があってもよいのではないかと強く感じた。「大地」の一部にそうした傾向のものがないではないが、不充分である。漫画本を横に置いてその小説を読む、そんなパワーのある小説、平仮名ばかりで結構、若者だけに受ければ充分という開きなおりのある小説を期待したい。
 今回、読めない漢字があって辞書を何回かひいた。あて字、俗字、難漢字のせいである。実作者の方には、これまで述べた点を含め再考をお願いしたい。同人誌の小説イコール老人文学とならないためにも……。妄言多謝。   
                                   (「イミタチオ」第20号 平成4年11月)

    [1] 
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(永井龍男宛安岡章太郎自筆サイン入り本 運営者所有)

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