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書評・北陸の同人誌評

  この頁は、「書評」と「北陸の同人誌評」を掲載しています。
 「書評」は、文学誌「イミタチオ」誌に掲載された「北陸の本」、教育機関のパンフレットの掲載されたもの、ミニコミ誌に掲載されたものと初出はさまざまです。
  「北陸の同人誌評」は、同じく文学誌「イミタチオ」誌に掲載された「北陸の同人誌評」コーナーが初出です。

  (北陸の同人誌評)詩評(平成3年3月)

(北陸の同人誌評)詩評(平成3年3月) 

 

 今号のこの詩評の担当となった稿者は、詩の愛好者でもなければ、実作者でもない。故に、詩作上の苦労など機微に触れる部分に関しても正直なところ鈍感である。配偶者には「あなたの文章って気がきかないものばかりね。うまいのは紋切り文だけだわ。」と言われる始末。図星。他人の文章に、所謂文学的≠ネ香りをかぐと、「何を気どって」と思ってしまう人間なのである。
 無論、詩は芸術的に独立した作品だ。如何に日常性から脱却して表現体たり得るかが評価の鍵となる。しかし、反面、表現に作者を感じさせない、あるいは、感動や発見の息づかいのない作品は難解でつまらないものとなる。この二律背反に佇立する詩こそ成功した作品と言えるだろう。その意味で、今回、瞥見した詩の中に、この均衡を保ち得た作品は、やはりと言うべきか多くはない。例えば、あるものは、気どった散文を詩の型にはめただけとしか思えぬようなものであった。また、よく言われていることだが、熟している最中での詩作より、ある程度、距離をおいた方がよい作品ができるということからして、少々自己客観性に欠けるのではないかと思われる詩もあった。対象へののめり込みは必要だが、自己陶酔に終っては意味がない。
 今回、「北国帯」一〇五号、「どっぴょう」四二号、「日々草」二五号、「笛」一八二号、「洲」三二号、「ある」一三四号、「雪嶺文学」四号、「草原」六八号、「小松文芸」三九号の中の詩を読んだ。
 詩に対峙する時、極力気楽な気持ちを持つようにと心がけている。以前、詩はわからないと避けていた折に、二、三、これならわかるという詩を書いた詩人にめぐり合ったので、一冊の選集を購い、読み始めた。意味不明のものが多い中で、ポツリボツリとわかる詩が出てくる。そのうちに徐々に詩人の心の一端が見えてくる。難解と思っていた詩も、その流れで「あたり」をつけられるようになる。選集の効用である。一人の詩人が見据えるものーそれは、それ程多岐にわたるものではない。そう割り切ってしまえば、詩という存在が、我々の生活のレベルに降りてくる。気楽になったのはそれ以後のことである。であるから、各詩誌を同時期を区切りとして横に切って見ていく作業では見落しが多くなってつらいものがある。
 愚痴が長くなった。今回、全般的に感じたのは、さすが詩誌の同人の方々の作品は手慣れているということだ。それに反し、「小松文芸」は、御存知のように公民館が年一回一般募集している文芸誌。年若の女性の甘い恋愛詩等も多く、玉石混淆の感はいなめない。しかし、藤田桂子「いま、平安の中で思う」は、娘を死なせた母の思いが、中田美代子「還らぬあなた」は、四十歳の息子を亡した母の思いが素直に表出されていて胸を打つ。ただ、藤田作品はところどころに「ツラカッタロウネ、ユキ」「ゴメンネ、ユキ」という生の声が出すぎていて平板な印象となっているのが悔まれる。「神との和解」という主題がはっきりと提示されているだけに、もう少しの彫啄が望まれるところだ。
 こうした彫啄の必要性は、他にも多くの詩に見受けられた。高岡在住朝森弓子氏が同人の「草原」(発行は東京練馬)中の今岡弘「誕生日に想う」を例に取らせていただければ、八十をすぎた作者が、老妻との余命を想いながら、最終連で「この期に及んで/これまで何の頼りにもならぬ/と思っていた老妻が/心の扶けになる存在であることを/ひそかに覚えた/それは倖せという欣びであろう」と結ぶ。この詩の眼目である。しかし、この最終の一行は蛇足であろう。それは読者が感じることであって作者に説明を受けることではない。その前の二行を入れ換えて終りにすればよいのではないか。
 終わり方は重要である。徳沢愛子「コブダイ」(「日々草」)は、おそらく水族館で見たのであろう、あのユーモラスな魚に「おお一匹逆走していくコブダイよ/雄の老成魚よ/額にお前の思想を掲げて」と呼びかける。「日々草」十一編の中で一番の出色。しかし、最終連は、ほぼ前三連を要約するような形で終ってしまっている。無難ではあるがもう一波瀾ほしいところだ。同じように、井崎外枝子「イマドリ」(「笛」)は、イマドキの若者を鳥に喩えて痛快だが、「こんな珍種の鳥たちの命名が/いま、日本中で話題になっている/チィチィッ」で終りでは寓意のみで終ってしまっているという気がしてならないのだ。先程言った推敲の必要性も含め、じつくりと暖めるという態度を同人間で再度確認して進むべきであろう。
 紙幅の関係で、以下、駆け足となるが、この「イマドリ」のように諧謔性豊かな詩が多かったのは意外なことでうれしかった。徳沢愛子「亜流雨ニモマケズ」は、文字通りパロディ。「しわニモ負ケズ」云々とはじまる。角がとれたと言われて釈然としない気概がおかしい田中忠実「角が残っている」(「北国帯」)等々。
 また、人生のベテランの方々の現在の静謐な思い、戦争の残像は、表現の安定感もあり、読み手の心にすっと入ってくるものが多い。糸藤義人「杵」(「笛」)は、「この世ではもう会わないと決めた男が何人かいた」という物語的冒頭が印象的。特攻隊員の心情を淡々と描写していき、「あいつら/星も見えない長い夜のなかに/まだ眠っている」と結ぶこのラストが仲々効いている。意味するところは少しく違うが、高田敏子「崖」の終わりを思い出させる。同じく「笛」の酒井一吉「じゃがいもを喰ふ」は、川で馬鈴薯を洗う二昔前の村の生活の中での「社会主義へのあこがれ」が、今では陽炎のように心に映る心境をしみじみとした締観の中に描いている。
 その他では、安田桂子「還る」、喜多村貢「ひまわり」(「どっびょう」)、橋本美智子「オペ」(「笛」)等が印象に残った。
 先程、手慣れていると書いたが、逆に詩作という営みが若い世代に確実に受け継がれているのかと少々気にならないでもない読後感であったことを記して終りとしたい。妄言多謝。

して、少々自己客観性に欠けるのではないかと思われる詩もあった。対象へののめり込みは必要だが、自己陶酔に終っては意味がない。
 今回、「北国帯」一〇五号、「どっぴょう」四二号、「日々草」二五号、「笛」一八二号、「洲」三二号、「ある」一三四号、「雪嶺文学」四号、「草原」六八号、「小松文芸」三九号の中の詩を読んだ。
 詩に対峙する時、極力気楽な気持ちを持つようにと心がけている。以前、詩はわからないと避けていた折に、二、三、これならわかるという詩を書いた詩人にめぐり合ったので、一冊の選集を購い、読み始めた。意味不明のものが多い中で、ポツリボツリとわかる詩が出てくる。そのうちに徐々に詩人の心の一端が見えてくる。難解と思っていた詩も、その流れで「あたり」をつけられるようになる。選集の効用である。一人の詩人が見据えるものーそれは、それ程多岐にわたるものではない。そう割り切ってしまえば、詩という存在が、我々の生活のレベルに降りてくる。気楽になったのはそれ以後のことである。であるから、各詩誌を同時期を区切りとして横に切って見ていく作業では見落しが多くなってつらいものがある。
 愚痴が長くなった。今回、全般的に感じたのは、さすが詩誌の同人の方々の作品は手慣れているということだ。それに反し、「小松文芸」は、御存知のように公民館が年一回一般募集している文芸誌。年若の女性の甘い恋愛詩等も多く、玉石混淆の感はいなめない。しかし、藤田桂子「いま、平安の中で思う」は、娘を死なせた母の思いが、中田美代子「還らぬあなた」は、四十歳の息子を亡した母の思いが素直に表出されていて胸を打つ。ただ、藤田作品はところどころに「ツラカッタロウネ、ユキ」「ゴメンネ、ユキ」という生の声が出すぎていて平板な印象となっているのが悔まれる。「神との和解」という主題がはっきりと提示されているだけに、もう少しの彫啄が望まれるところだ。
 こうした彫啄の必要性は、他にも多くの詩に見受けられた。高岡在住朝森弓子氏が同人の「草原」(発行は東京練馬)中の今岡弘「誕生日に想う」を例に取らせていただければ、八十をすぎた作者が、老妻との余命を想いながら、最終連で「この期に及んで/これまで何の頼りにもならぬ/と思っていた老妻が/心の扶けになる存在であることを/ひそかに覚えた/それは倖せという欣びであろう」と結ぶ。この詩の眼目である。しかし、この最終の一行は蛇足であろう。それは読者が感じることであって作者に説明を受けることではない。その前の二行を入れ換えて終りにすればよいのではないか。
 終わり方は重要である。徳沢愛子「コブダイ」(「日々草」)は、おそらく水族館で見たのであろう、あのユーモラスな魚に「おお一匹逆走していくコブダイよ/雄の老成魚よ/額にお前の思想を掲げて」と呼びかける。「日々草」十一編の中で一番の出色。しかし、最終連は、ほぼ前三連を要約するような形で終ってしまっている。無難ではあるがもう一波瀾ほしいところだ。同じように、井崎外枝子「イマドリ」(「笛」)は、イマドキの若者を鳥に喩えて痛快だが、「こんな珍種の鳥たちの命名が/いま、日本中で話題になっている/チィチィッ」で終りでは寓意のみで終ってしまっているという気がしてならないのだ。先程言った推敲の必要性も含め、じつくりと暖めるという態度を同人間で再度確認して進むべきであろう。
 紙幅の関係で、以下、駆け足となるが、この「イマドリ」のように諧謔性豊かな詩が多かったのは意外なことでうれしかった。徳沢愛子「亜流雨ニモマケズ」は、文字通りパロディ。「しわニモ負ケズ」云々とはじまる。角がとれたと言われて釈然としない気概がおかしい田中忠実「角が残っている」(「北国帯」)等々。
 また、人生のベテランの方々の現在の静謐な思い、戦争の残像は、表現の安定感もあり、読み手の心にすっと入ってくるものが多い。糸藤義人「杵」(「笛」)は、「この世ではもう会わないと決めた男が何人かいた」という物語的冒頭が印象的。特攻隊員の心情を淡々と描写していき、「あいつら/星も見えない長い夜のなかに/まだ眠っている」と結ぶこのラストが仲々効いている。意味するところは少しく違うが、高田敏子「崖」の終わりを思い出させる。同じく「笛」の酒井一吉「じゃがいもを喰ふ」は、川で馬鈴薯を洗う二昔前の村の生活の中での「社会主義へのあこがれ」が、今では陽炎のように心に映る心境をしみじみとした締観の中に描いている。
 その他では、安田桂子「還る」、喜多村貢「ひまわり」(「どっびょう」)、橋本美智子「オペ」(「笛」)等が印象に残った。
 先程、手慣れていると書いたが、逆に詩作という営みが若い世代に確実に受け継がれているのかと少々気にならないでもない読後感であったことを記して終りとしたい。妄言多謝。
       「イミタチオ」第16号 平成3年3月

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(永井龍男宛安岡章太郎自筆サイン入り本 運営者所有)

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