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書評・北陸の同人誌評

  この頁は、「書評」と「北陸の同人誌評」を掲載しています。
 「書評」は、文学誌「イミタチオ」誌に掲載された「北陸の本」、教育機関のパンフレットの掲載されたもの、ミニコミ誌に掲載されたものと初出はさまざまです。
  「北陸の同人誌評」は、同じく文学誌「イミタチオ」誌に掲載された「北陸の同人誌評」コーナーが初出です。

  (北陸の同人誌評)小説評(平成5年)

(北陸の同人誌評)小説評(平成5年)

 

 今回は、「勃海」二十七号、「金澤文学」第九号を読んだ。特に藝がある訳でもない。読んだ作品の感想を思い付くまま述べていきたい。
 ワープロの時代である。文学以外の著述業、ライターなどと呼ばれる方のほとんどは、今やワープロ派ということだ。雑誌の文章を読んでいても、「ああ、これはワープロ臭い文章だな。」と感ずるものに時々出喰わす。それ程ではないが、ひょんなことでバレてしまうものもある。聞いた話なのだが、国語の教員が「実力テスト」を作ろうと、某有名評論家の文章をワープロに入力していたところ、全て一度の変換で用が足せたという。よく言えば読みやすい彼の文章の秘密は、存外、こんな所にあるのかも知れない。こうなっては、ライターの個性というより、ワープロメーカーの個性なんてことにもなりかねないのではないか。いずれ、メーカー別の文章系統の研究も現われるかもしれない(もちろん、単語登録、学習機能等で個性は発揮できる訳だが……)。
 閑話休題、ワープロの出現で、文章執筆の際、思考方法に変化が起こったとはよく言われることである。書き損じを避けるため、筆書きでは、論理の流れを確定させてから書き始めることが多い。それに比べ、ワープロは編集ができるので、論理は後廻しでも、まず情報を入力しておくことが肝要となる。論理は、文章を画面で切ったり貼ったりする<作業>として、視認された形で行われる。こうしたワープロを睨む時間というのは、案外、キーボードを打っている時間より長いのではないだろうか。指を休めている時、論理の構築をしているような、あらぬ想像をしているような、傍から見ると単に休んでいるだけのような、そうした「たゆたう時間」、それは一体何をしている時間と呼べばいいのだろうか。
 村井博道「ワープロU」(「渤海」)は、こうしたワープロに向かう一時の意識の流れー「ぼく」と、頭の中でワープロをたたいているイメージされた「ぼく」との二人の心話ーに、実際、画面に現われた文章。ワープロを打つという分化した行為が、分化した作品構成となって表現されていると言ったら適当であろうか。その意味で、実験的手法とも言え、興味深かったが、少々混雑した印象を読者にあたえているので、もう少し整理した方が主題が明確になったかと思われる。

 金山嘉城「ー3号室(マイナス3ゴウシツ」(「渤海」)は、非日常を描いた短編。TVドラマ「世にも奇妙な物語」風とでも言えばよいか。郵便物がまったく配達されないことに不審をいだいた主人公が、試みに自分宛の葉書を出してみる。しかし、配達されてきたものは、「あて所に尋ねあたりません」とスタンプが押されたものだった。「宛名の住所にはいなくて、差出人の住所にぼくはいる」ー読者を引き込むに充分な展開である。しかし、話は自分の影がなくなるという方向に流れていき、末尾では、妹が主人公に手紙を出す時は、宛名も差出人も主人公名儀にすることで、ちゃんと手元に届くという話で終っている。いわば考えオチである。おそらくこの筒井康隆流のブラックユーモアを発想した時に考えついたオチなのだろうが、読者はこうした処世的(?)な解決方法を期待して読んでいった訳ではないだろう。折角の発想がうまく飛翔していかなかった憾みが残る。勿体ない感じである。

 竜頭蛇尾の弊は、田中帝子「演じたあとに」(「渤海」)にも感じられた。二十六歳独身の加奈は劇団員。芝居で「一人でいるとやりきれなくて男に寄り添う女」の役を練習中なのだが、役に入り込めなくて煮詰まっている。そんな折、三歳年下の行動力のある男と知り合うことで、役の女の気持ちが実感できるようになるというもの。役とのギャップがいずれ埋まっていくだろうことは容易に想像がついたが、吉祥寺に住いする演劇女性の気分をうまく捉えていて読ませる。唯、結末が性急かつ楽天的にすぎる。「あなたと結婚することから始めてみます。ヨロシクネ」では、それまでの大人の女性のイメージが崩れ、若者ノリのお姉さんといった感じになってしまう。掲載誌に枚数の制限でもあるのであろうか。前述の金山氏の作品と共に、結末の部分を削って、続きを読みたいものである。

 畔地里美「春暖の月」(「金澤文学」)は仲々の佳品。事業に失敗し夫が失踪、債務の取り立てに会いながらも強く生きている女の話である。眉に痣のある取り立て屋のことが気にかかるという書き出しがよい。途中、昭和三十年代半ば、主人公の子供時代のことが回想され、彼は同級生であったと暗示されている。淡々と昔話をしていながら、子供の人間関係が生き生きと伝わってきて、作品に深みをあたえている。

 杉本利男「熊を放つ」(「金澤文学」)は力強い作風。惜しむらくは、現在と昔語りの切り換えに不分明なところがあり、読者は少々混乱する。余りはっきりとすると底が浅くなって難しいところだが、この辺りに工夫が欲しい。

 上田千之「独り記者」(「渤海」)は、一人支局の新聞記者の生態を描いた作品。作者は本当に記者なのではないか。それ程、細かいエピソードは生々しい。もし違うとしたならば驚くべき取材力と吸収力である。偏頭痛持ちというのが、作品のトーンを決めており、憂鬱な気分や、時にユーモア等もそこからうまく発揮させている。

 その他、随筆と言った方がよいのかもしれないが、杉田欣次「転々展」、青木浩雲「山居閑話」(「渤海」)が読ませた。なお、松田邦彦「離反の記」は長編だが未完であり、完結後に評価を下すべきであろう。
 小説といえば、「○○殺人事件」のようなエンターテイメント小説が主流の御時世である。そんな中で、同人誌に作品を発表し続けている方の作を読むと、作者の個性が行間ににじみ出ている。ワープロ書きの方も多いのかもしれないが、私には、一字一字マス目を埋めていく作者の姿が彷彿とされた。
          (「イミタチオ」第22号 平成5年11月)

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(永井龍男宛安岡章太郎自筆サイン入り本 運営者所有)

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