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書評・北陸の同人誌評

  この頁は、「書評」と「北陸の同人誌評」を掲載しています。
 「書評」は、文学誌「イミタチオ」誌に掲載された「北陸の本」、教育機関のパンフレットの掲載されたもの、ミニコミ誌に掲載されたものと初出はさまざまです。
  「北陸の同人誌評」は、同じく文学誌「イミタチオ」誌に掲載された「北陸の同人誌評」コーナーが初出です。

  (北陸の同人誌評)詩評(平成8年)

(北陸の同人誌評)詩評(平成8年)

         
 今回は、『笛』二〇〇号、『北国帯』一三六号、『独標』六一号、『草原』二次一号、『航跡』二二号、『朱い耳』七、八号、『ある』一五四、五号、『日々草』三五号を読んだ。
 日頃、合理的な散文世界にどっぷり漬かって生活している者が詩の宇宙と向き合う。その時、別空間を廉するかのような感覚を味わう。これこそ文学の至福といえばいえる訳だが、特に、詩というジャンルにその傾向が強いようだ。私自身、その刹那の浮遊したかのような錯覚感にこそ詩の美点があると思っている。たとえ、日常を描きながらも、日常から如何に離れているか。そして読み手がそれに同化できるか。そうした見方で、作品を読んでいった。論文などに「管見によれば」という常套語があるが、以下の寸感は、まさに視野狭窄きわまった我流であるかもしれない。
 徳沢愛子氏の作風は、べとつかずエネルギシュな強さがある。個人詩誌『日々草』などを読むと、声に出して読みたくなるようなリズム性を念頭に置いた親しみやすさに本領があるようだ。作品に、彼女の生活の中で、触れ、感じた一瞬があったことを実感できるわかりやすさがある。老父母を見つめる目を感じる「眼」「やせた夏でも」、家事にいそしむ中で感じた時の流れの音「誰かがたたく」など。『笛』所収の「山の湯で」なども現場再現性が見事で、おそらく小学生でも充分詩というものを納得してもらえる爽やかさのある佳小品だ。
 それにしても、今回、老親を見つめる詩が目についた。
 酒井一吉「母」は、死を見据えて打掛に鉄を入れているところを目撃した息子の驚きがよく表現されている。ショッキングなモチーフを巧く生かしているが、惜しむらくは末尾が常套的だ。井崎外枝子「餓鬼になった母」は、痴呆の母を描く。「百姓女の意地だけで生きようとする」という箇所が印象的で、生命力への畏敬が感じられる。徳沢作品では「日常茶飯事の地続きで/ぷいと霧散するヤレ覚悟」と、死の想念のなかにもウイットを忘れない。子が親の老いや死に感ずる感情は、非常に普遍的で、詩にしやすい反面、感情だけにもたれかかっていては独自性を出すのは難しい。表現の巧拙以前の、詩人の内面凝視力が特に必要な領域だと思う。
 そのほか印象に残ったものとしては、歪んだ夢の記憶のモノローグがまがまがしい伊名康子「釣竿」(『朱い耳』)がある。途中の娘との会話が妙に現実的で、対比の効果をあげている。くらたゆかり「千手観音様」(『ある』)は「心が一つにものを囚えられたら/いかに千本の手があろうとも/他の手が自由を失うのだ」という発想が新鮮。三井喬子の連作「半島」(『朱い耳』)は、冗漫な箇所があるが、「(1)渚」のアフォリズムにはドキリとさせられた。
 詩人の文章は、散文であっても、象徴的で感覚的なことが多い。先日、某新聞に、地元女流詩人が書いた、詩集の書評が載っていたが、その文章は、まさに彼女の詩の語法と重なるものだった。詩集の印象を、詩語を使って端的に述べていて、具体的な内容は多くは紹介されないのだが、彼女自身どんな捉え方をしたのかだけは実によくわかった。時評という性格上、その批評方法はそれでも適当といわねばならないが、論理的文章が身に染みついている者にとっては、散文とも詩ともつかぬ文章のように見え、羨望も含め、少なくとも自分には書けぬ文体だと思ったことだった。
 こんな話をしたのは、今回、散文詩が目についたからだ。これは最近の傾向なのかもしれない。しかし、読んでいて、紀行や日記や童話にしたらいいものを、なぜ、わざわざ詩と銘打って、大きな余白を頁に残して枚数を稼いでいるのかと、意地悪な感想が湧いて出るのを禁じ得なかった。無論、多くの詩は、終結部あたりに詩らしい精神の昂揚があり、詩としての体裁を保っていたが……。
 こうした傾向は、短いインターバルで定期的に発行されている詩誌の作品に、心なしか多く見られるように感じられた。恐らく締め切りに追われながら作品を紡いでいかねばならない自転車操業が、詩世界に散文的文脈を流入させることになり、散文詩という形式に流れたのではないだろうか。職人藝的な水準は感じられたが、読者に藝を感じさせては、詩として失敗である。妙な言い方ではあるが、全体が詩であるような詩、少なくともすべての行が有機的に関連しているような詩に再度立ち戻ってほしいものだ。
 最後に、『笛』が一九六一年に創刊して二〇〇号を迎えた。特集の座談会が歴史を感じさせて興味深い。益々の発展と精進を祈りたい。
   (「イミタチオ」第27号 平成8年6月)

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(永井龍男宛安岡章太郎自筆サイン入り本 運営者所有)

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