(北陸の同人誌評)短歌評(平成4年3月)
今回は「新雪」新年号、「柊」一月号、「日本海」一月号、「雷鳥」十二月、一月号を読まさせていただいた。
個人歌集と違い、一人八首程の作品が一頁四〜六人ずつ並ぶ。文字通り、圧縮された精神のエネルギーが感じられて、圧倒され続けた。現代詩の同人誌が、余白多く、数頁で一作品なのに比べると、同じ韻文ながら、大きな差があるようだ。それは油絵の大作が並ぶ展覧会で、気に入った作を探しながら遠巻きに歩を進めるのと、小さな素描絵が数多く出品された会場で、一点一点歩みを止めながら観ていく差とでも言ったらよいだろうか。二つの韻文の本質的な差というものを、はからずも同人誌の体裁に見たような気がしたというのが正直な感想である。
閑話休題。 短歌の魅力は、普段、我々が何気なく見落していたものを、鋭い感覚で三十一文字に封じ込めることである。先号のこのコーナーで、喜多昭夫氏が紹介していた小西八千代氏の作品を再度紹介しよう。
デジタルの時計の文字はゼロ並ぶ一日終わりて無になる一瞬(「日本海」十月号)
デジタルという分節された世界、その一瞬の表示を、<無>としてとらえる。この感覚の敏感さこそ作歌には不可欠である。しかしながら、こうした、一読、でハッとする歌はそう数多くある訳もなく、この視点のみで通覧すると、正直なところ、一つの歌誌に数首あるかないかというところとなる。
<デジタル>の歌がでたので、まず、こうした現代的な事物を取り上げた作品から観ていこう。
ファックスを終へし安堵に交したり遺影の夫と声なき対話(山崎静枝「新雪」)
ホームファクシミリが自宅に入り、難しい操作にとまどいながらも、手順を書きとり、それを見ながらの緊張の初発信。文明の進歩に率直に感動し、成功に一安心する。その時に交した亡夫の写真への視線。こんな文明の利器のなかった頃に生きた夫に対して、私はちゃんとうまく使えるのよと報告しているかのようである。しかし、そこに、このファックスを使って亡き夫へ連絡ができたならばという気持ちが隠されているように感じられる。
賀状出す歌友の入りしワープロのキー一つにて故人名消す(尾崎久市 岡)
ワープロも、最早、必需品となった感がある。ワープロやパソコンで、賀状や名刺管理をしている人も多い。亡くなられた方の住所を残しておく訳にもいかず、キーを押す。その事務的な面と、すっきりとはいかない感情。こうした異和感がうまく表わされた一首。
天皇の病状知らせし文字ニュースビデオ映画の中に映れり(内田美枝子「日本海」)
ビデオが一家の中心となって久しい。以前に録画したものを観ていて やニュースが今起こったことかと勘違いした経験を持つ方も多かろう。平成の御代も定着し、天皇の病状に、国中、神経を使っていたことをすっかり忘れている、そんな自分を発見したことであろう。
コードレス受話機に曽孫の声聞きつ巡る朝庭あきつ飛び交ふ(林広子 同)
<あきつ>とは、トンボの古称。無線電話の御蔭で、別々に暮している曽孫と庭の様子をリアルタイムで報告し合い、行動を共にしているような疑似的状況を作り出すことが可能となった。現代的な一首。
国会の長々続く論争をワンタッチで消し暫し居眠る(渡辺幸作「雷鳥」十二号)
これも、テレビのリモコンがあればこその光景。ウィットの富む作である。以下、稿者の琴線に触れた歌をあげる。
膝を病むわがラクーターの低速に保育園児の駆けて追い越す(永井まつ子 同)
電動車椅子の初乗り、車道横断の興奮を詠んだ一首の後に置かれているだけに、ほほえましさが出た作。おそらく作者も、情けないという方向ではなく、明るさをもって描きたかったのであろう。
来年も生きるつもりの葱大根ふかぶかと掛け冬籠る構え(小石春栄「新雪」) 夜の更けて灯かげの隅にひげを振るゴキブリ我も生きねばならぬ(岡田栄書「日本海」)
共に<生きる>意志が、軽いユーモアの中に表現されている。
雪深き山里ならむ道の辺にビニール被れる地蔵のおはす(熊沢節子「新雪」)
ビニールを被った地蔵様、題材の奇妙さを「雪深き」故と理解することでやさしさを添えている。
夕塊の街空高く立つクレーン恐竜となる在を待ち居り(谷敷純子 同)
同趣向のものに、「ショベルカー恐竜のごと眠りいて夜明けの丘に霧たちこむる」(西村薫 同)というのがあったが、時間的な流れをうつまく出している点で、谷敷作品に軍配が上がる。但し、夕焼け空が少々出来すぎでマンガチックという気もするが……。
歌誌中の一首に「折にふれ拙きままに詠みつぎし歌は一年の自分史となり」というのがあった。まさに、短歌人の実感であろう。特に劇的な変化が続く訳でもない日常、その生活の中で、精神を持続して紡ぎ出される言葉、末節の技術論を抜きにして共感されるべき歌は多い。
欠礼の葉書はやばや出し終へて何か忘れし如き年の瀬(山口淑子 同) 入院も三月目の夫は黙深く見舞いの吾は饒舌にいる(中藤久子 同)
若き日々思うがままの夫なりき今日柿植えむ位置我にきく(西山銀子「雷鳥」一月号) 封切らぬ花火セットを棚に置き老いし二人の夏は過ぎゆく
電池耐用十年の時計贈られて自が命数ふと思ひたり(清水万紀子「日本海」) 夫逝きて十人年経む隻脚を支へし杖を秋の日に干す 物置に孫が見つけし松葉杖たぐりて祖父を語り継ぐ秋(加賀道子 同) コスモスを描きて坐る人影に重なり佇む妻と吾が影(横山李由「柊」)
亡くなりし女のづ如聞きおれば激しくたたく初琴ふる(斉藤和美「雷鳥」十二月号) 黙然と午後の翳りは広がりて銀杏の列を這ひ上りゆく(新保殊代枝 同) 浄き彫りの夢の世界に入る真夜か雪はやさしき粉に降る魔術師(浅野美代子 同一月号)
砂丘の点となりゐる友と我れ小春日の海は黙し濃紺(山本克子「新雪」) 病むひとの悲しみ長く聴く夜の受話器にうすき耳朶冷えゆける(大塚綾子「日本海」)
紙幅の関係で、後半、一首ずつの解説ができなくなり、羅列となった。しかし、解説など蛇足であろう。あの膨大な量の短歌から選び、ここに載せるという行為だけで、大変な批評となっていることに、遅まきながら気がついた次第。
(「イミタチオ」第19号 平成4年3月)
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