(随筆)同人誌を読んでの悲観的断想
先日、地元発行の文芸同人誌をまとめて読む機会があった。ここ金沢は、こうした創作の盛んな土地柄で、俳句、短歌等、その底辺の厚さを改めて感じた次第である。 しかしながら、小説の同人誌を読みながら、少々、不安を持たない訳ではなかった。地元に、こうも達者な方がいるのかと感心した反面、それらが、謂わば「老人文学」と言われるようなジャンルの作品ばかりだったからである。 作品は、実に熟練の筆で、「オーソドックス」という言葉がもっとも似合うものであった。書き手が、ある程度の年齢の方なのか、題材として、現代若者世代の風俗を描くことを意識的に拒否した結果なのか、おそらく前者なのだろうが、リアリズムとでも言うような筆致のものばかりであった。
近年、老人文学が隆盛している。これは高齢化社会となって、読者層を拡大した結果だと単純に理解していたが、こうした同人誌の傾向を考え合わせると、これは、文学に人生の大きな意味を感じる読者が高齢化し、作者がそれに合わせて対象を限定している、あるいは、作者自身が高齢化しているからであって、若い世代では、文学などもはや魅力的なものでなくなっているからでなないかと、ようやく思い当たった。 いずれ、<文学の世代>が死に絶えると、文学も娯楽以外の意味をなくすことは、ほぼ確実のことだろうと思われる。
この思いのもとには、毎年、提出させる夏休みの読書感想文の宿題に「久しぶりに本を読んだ」といった類の感想を記したものが多いという現実が念頭にあったからだ。なかには「中学三年の時は、受験のために忙しかったから」と理由まで記されているものがあって、呆れる。では、高校一年の一学期に本を読まなかったのは、どう説明するのだと反論したくもなる。受験に関係がないからという発想で、中学の時読んだ作品を利用するおざなりなものもあり、熱意が感じられないものが、年々、多くなっている。 聞くところによると、文学書ばかりでなく、書店での学習参考書の売上げも低下傾向という。これは、予備校や塾が独自に編集した問題集を使うので、いちいち買いに行く必要がなくなったからということであった。読書による感動の体験がないまま、あるいは、読書習慣がついていないまま、難解な読解問題ばかりやっていては、勉強時間以外に真面目な本を読もうという気がしなくなるのも当然というものだ。 書店での文芸書の占有率も低下、女性本コーナーに衣替えしたところも多く、郊外のスーパー型書店では、そもそも新刊以外置いていないところもある。専門書店を抱える大都市部より地方都市の方がこうした風化ははっきり表れてきているようだ。
今回、同人誌で力作を発表し続けている地方の同人誌作家に敬意を表しつつ、今後、一般人の感覚として、その努力が空しいものに思われてしまうのではないかという危倶を感じた。 同じことは文学研究にもいえる訳で、古典が専門だからなどと言って、文学の未来について無関心であると、足元をすくわれかねないというのが、現在の些か悲観的な心境である。 小生の憂鬱を軽やかに撃退してくれる反論を期待したい。 「解釈」(1993・1)
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