ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。
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エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」 http://hiyorigeta.exblog.jp/
前に紹介したG・ミラバッシ(p)のライブCDのことが出ていないかと、「もっきりや」のHPを観ていて、チャリート(vo)のライブがあることを知った。 そういえば、ライブハウスで生演奏を聴くなんてことは、六年程前、南青山の「ボディ&ソウル」で辛島文雄(p)グループを聴いて以来である。ただ、あそこはジャズクラブで、もっきりやのようなフォークもするライブハウスとはちょっと雰囲気が違う。 地元で聴いたのはいつだったろうと記憶を遡ると、どうやら、一九七七年、山下洋輔(p)とA・ロイディンガー(b)のデュオを「ヨーク片町」で聴いて以来らしい。あそこも厳密にはライブハウスではなくてジャズ喫茶というべきところ。当時、片町大通り沿い、細い階段を上がった二階にあった。小さな店のテーブルをどけて、十数人が入れるスペースを作っての演奏会。 あの時、ピアノの音が狂っていると山下からクレームがあったらしい。客が入ってから、やおら調律師がやってきて、ビーンビーンと作業を始め、我々はその一部始終を見守った。だから、開演は一時間遅れ。それでも誰も文句も言わずじっと待った。今考えると悠長なものである。山下さん、鍵盤肘打ちで、どうせ、またすぐに狂うのに……。 もう三十年前の思い出。 それなら、久しぶりにと、愚妻を連れ出して夜の繁華街に出向く。平日(二十六日)のこの時間帯に柿木畠周辺を歩くのは珍しいが、七時前だというのに、通りは閑散としていて、地方都市中心部の地盤沈下をまざまざと感じる静けさだった。 なにせライブ経験不足である。開場一番乗りで店に入ったものの、誰も後に続かず、私たちだけだったらどうしよう、歌ってくれるかしらと愚妻は要らぬ心配をしていた。それでも、ステージが始まる頃には三十人ほどの客が席を埋め、ちょうどいい密度になった。 席は最前列。まあ、新参者ですから、少し後ろでゆったりと聴くなどというお上品ことはしない。貪欲に聴くという態度満々。 まず、大石学(p)トリオの「枯葉」からスタート。ラジオの生演奏収録番組などで、日本屈指の実力派だと知っていたので、彼らの演奏も楽しみだった。彼のピアノは、正統派スタイルのアドリブの他、曲によって、フリー風のスケールアウト、ハンコック風のファンクリズムとあらゆる奏法を熟知したオールマイティぶりを発揮、ガンガン飛ばす疾走感が素晴らしかった。 「東京ジャズ2005」の圧倒的パフォーマンスで更に脚光を浴び、今年、ビッグバンドとの競演アルバムが話題を集めるなど、赤丸急上昇中のボーカリスト、チャリートの歌は、二十年選手のベテランぶりを感じさせるメリハリの利いた歌いっぷりでパワフルの一言。私の座席の二メートル先で、奥歯の歯並びまで見えるほど大きく口を開けてシャウトする発声に圧倒された。 曲は、「ニカの夢」「バードランドの子守歌」などのジャズ曲も混じるが、「愛するデューク」「素顔のままで」「ソングフォーユー」などポピュラー曲中心で、愚妻も聴いたことある曲ばかりでなじみやすかったとのこと。でも、有名メロディべったりではなく、スティービーワンダーの有名テーマをチャリートがロックビートで歌った後、一転、高速フォービートとなってピアノが火を噴く展開など、変幻自在なリズムチェンジがいかにもライブならでは臨場感を感じさせた。シンバルの鼻先に座っていたので、外人ドラマーが叩く太鼓のパルスが体に直接響き、パワー感、音圧、リズムのノリなど、四人全員で発散する、音楽が持つプリミティブな魔力に酔った一時だった。 かぶりつきでジャズを聴くという、これまでしたことのない経験に、私も愚妻も大満足だったが、帰りの道すがら、愚妻は「行ってよかったわ。ボケ防止には、日頃したことのないことをすると、脳の刺激になっていいという話だもの。」と今宵の行動を総括した。 せっかく最高のライブを聴いて、そんな哀しい理屈、つけんでもよろしい。
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石川の花の便りをいち早くカメラにおさめ、ブログでアップしている人も多い。それで、その花の季節が到来したことを知る。文明の利器を介して郷土の自然が身近になるという図式がいかにも今風である。 二週間程前、金沢でも彼岸花が咲き始めたというブログ記事があった。身近には見かけないなあと思っていたら、今週後半、一気に勤め先の敷地のあちらこちらに咲きはじめた。何年も通っているのに、植わっているのにさえ気がつかないなんて、やはり、風流心はあまりないようである。 彼岸花という名前は子供の頃から聞き馴染みがあったが、あの赤いバタ臭い花のことだと知ったのはかなり大きくなってからのことであった。お彼岸という日本的な名前と容姿がどうも合わなくて、心に定着しなかったのだろう。私は、別名の「曼珠沙華」の方が華やかな姿に似合っているような気がするのだが、いかがだろうか。 先日、図書室の棚に地元の花を紹介してある本を見つけた。「北陸中日新聞」に連載されていたもので、県内の元教員コンビが写真と文章を担当して、二〇〇二年から二年間連載し、昨年四月に上梓されたもの。そういえば、新聞で何回か目にした覚えがある。 全国版の花譜を読むと、開花期の項は、二か月近く幅をとった書き方しかしてないので、実際のところ、地元ではいつ咲くのか判然としなかったし、分布の項も、「日本全土に広く生育」みたいな書き方しかしていないので、漠然としたことしか判らなかった。それが、これで時期が限定でき、その上、地元のどこに行ったら見られるかも判って、ちょっと見に行こうかという気持ちになる。ローカル本ならではの利点である。 これまで自分で撮った花の写真で、名前が判らないものも少なからずあったのだが、頁をめくっていて、あ、これ、この花と、いくつか特定できたものがあった。 例えば、今春、片栗の群生を見に行った折り、まるで暖簾かなにかのように幾筋にも垂れている小さな花の粒々を見つけ、シャッターを切ったのだけれど、それは「ギブシ」と言うのだそうである。 もう何年も前の秋、白山でアザミを撮った。これは正式には「フジアザミ」というらしい。この本に、別当出合の水場付近がアザミロードとなっていると書かれているが、紛れもなく私はそこで撮ったのである。イガイガした基部に紫の線状の花弁が集まっていて、確かに説明のように「お化粧のパフ」のようだ。下向きの花なので、苦労して這いつくばるようにして撮ったのでよく覚えている。 この本、解説の文章が植物学的で、ちょっと素人には難しいのが難点。もう少し随筆風に書かれてあると手元に置いてゆっくり読んでみようという気になるのだが、どうやら頭から読み通すタイプの本ではなさそうだ。 そこで、春夏秋冬、好きな花の頁だけパラパラと摘み読みして棚に戻した。
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星野さんに直接お会いしたことはついになかったが、個人的に小さな思い出がある。自分語りにしばらくお付き合い願いたい。 以前、頼まれて、国語教科書に採る現代文の教材探しをしたことがあった。全国の教員から案を吸い上げ、いいものを載せる。「羅生門」などの定番教材以外は、時代にあった受けのよい鮮度の高い教材を載せようと教科書会社は必死である。どれも同じように見える教科書でも、そうした企業間の熾烈な争いがある。 私はその時、星野さんのエッセイ集『旅をする木』(文藝春秋社)の中の一編「もうひとつの時間」がいたく気に入り、一年生用にと推薦した。惚れ惚れとする文章だが、心臓部がはっきり書いてあり、授業として扱うにはちょっと物足りないという欠点はその折りに伝えてあった。 後日、編集担当の人に聞くと、私の選んだ文章は最終選考まで残ったとのこと。残念ながら、その会社では採用されなかったが、別の会社で採用になったそうで、それを聞いて、教員としては自分の見る目が間違っていなかったとちょっと嬉しかった覚えがある。もう五年ほど前の話だが、調べてみると、今年も旺文社の教科書に載っている。 星野さんと一緒に鯨のブリーチングを目の当たりにした女性編集者が、自分が都会で慌ただしく働いているこの瞬間、アラスカの海ではクジラが飛び上がっているかもしれないと思えるようになったと語ったことを紹介し、「もうひとつの時間が、確実に、ゆったり流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい。」と結ばれている。 彼は「すべてのものに平等に同じ時間が流れている不思議さ」という言い方もしている。今ここの世界の時間だけで生きている人に対して、自然の中で生かされている自分を感ずることのできる人、他者の生を包容して広く人生の時間を感じている人ということなのだろう。時に前者になりがちな心を、この文章は静かに戒めてくれる。 先日、山岳ガイドの傍ら閑期に受験出版社の営業をされている方が、例年通り職場に来られた。県で唯一正規の資格を持つプロの山岳ガイドさんである。この六月には、アラスカのマッキンリー(北米大陸最高峰6194m)を登頂してきたという。直子さんの本が私の机の上に置いてあったので、話は自然に星野さんのことになった。 彼は星野さんの本を悉く読んでいて、『旅をする木』が最もいいという。ああ、やっぱりそうでしょうねと相槌を打つ。そうしたやりとりがあった後、彼は淡々と次のことを言って私を驚かせた。 「今回のアラスカ行きにこの本を持参して、マッキンリー山頂まで担ぎ上げ、そこで彼へオマージュを捧げました。」 登山はグラム単位で荷物を軽くすることが至上命令である。特に高所になればなるほどシビアになる。それにもかかわらずの行動。彼の星野さんへ尊敬思慕の情、思い半ばにすぎるというものである。 鎮魂これに勝るものはない。私はしばらく間を置いて、ちょっと襟を正し、「読者の一人としてお礼申し上げます。」と感謝の念を述べた。 僭越にも数冊の本だけで星野さんを思っている時、思い万丈の方のお話を伺うことができた。不思議な縁(えにし)である。
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生前からのファンで、金沢名鉄丸越百貨店催事場での写真展「残された楽園」(一九九五年四〜五月)が来た時、観に出かけた。メイン写真に使われた、ジャンプした遡上中の鮭と熊とのキッス写真が印象的だった。会場に本人来場のお知らせを見つけ、アラスカの自然住まいの人が、わざわざこんな田舎の中途半端なコンクリート都市に顔を出すこと自体、何だか申し訳なく変な気がしたものだ。 熊による事故死の記事が新聞に出ていたのは、それから一年ほど後のこと(一九九六年八月八日)であった。今でもどんな内容の記事だったかよく覚えている。 死後、同じ会場で、写真展「星野道夫の世界」(一九九九年十月〜十一月)があって、それも観に行った。金沢では計二回、彼の展覧会が開かれている。 このビジュアル本、妻直子が思い出を綴り、そのことに触れている道夫の文章を抜粋する形で進む。最初に略歴が掲げられ、直子との出会い以降、そのまま本の目次になっている手法が面白い。アウトドア派でも何でもなかった普通の十七歳年下の女性が、彼の生活に飛び込んでいって、驚いたことや感じたことが素直に語られる。ある種、もっとも親しい人から見た最後の五年間のアナザーストーリーである。エッセイなどで彼の人生に詳しい人はより楽しめると思う。 動物写真家は彼以外にも多くいるし、極地の専門家もいる。なぜ、彼の写真は人を惹きつけるのだろうと長年思っていたが、彼の経歴や直子が描く人となりを読んで、少しその秘密が判ったような気がした。 高校時代、彼はアメリカへ一人旅をしているし、大学時代にはアラスカで三か月間暮らしている。そうした若い頃から反都会的反定住的な感覚を持っていること。アラスカ大学で野生動物管理学を学んで、動物を見る目に学問的裏付けがあるということ。写真は著名な動物写真家の助手を二年務めて、しっかり基礎を学んでいること。このどの要素が弱くても彼は彼になれなかっただろう。こうしたことをトータルした人間が作り出す作物としての写真だから、画に作為や技を感ぜず、彼の素直な発見に我々も同化できるのだ。日本の自然写真家の作品に時々感じる、都会の目で自然を観ているだけではないかと思うような被写体との距離感、写真が綺麗に芸術的に撮れればそれでいいというような職人藝的な臭みが微塵もない。 「自然写真を撮るために最も必要なものはなにかと聞かれたら、それは対象に対する深い興味だと思う。(中略)まず、その対象に対するマインドの部分での関わりである。そして次は、その気持ちをさらに深めていくことが必要になってくる。言いかえれば、どんどん好きになっていくプロセスだと。」(「自然写真家という人生」) まさにその通りと感じさせる彼の写真たちである。 もともと彼は日本の大学で経済学を学んでいる。一見、そこだけが後のキャリアからすると回り道だったかのようだが、彼の文章には、文系としてのしっかりした表現力と人間の見方があり、彼が置かれている「自然」対「人間」の世界を思惟する時、特に「人間」を考える部分で意味のある経歴だったのではないかと思える。晩年、アラスカの人々がカムチャッカを渡ってきたことに興味を持ち、遡行する形で取材を続けていたのも、自然写真家としての発想というより、人類学的実証としての興味であり、人も動物も同じ次元で考え、人を含んだ大きな「生命の動き」を感じる心があったからこそではないだろうか。 高桑信一は「通常のフォトエッセイが文章と写真の相互補完的な関係になってしまうのに対し、星野道夫の作品は、それぞれが相乗作用となって増幅され、独自の世界を構築している」(「一冊の本」モンベル「OUTWARD」32号2006.6)と指摘している。彼がそう感じるのは、単に文章写真両方達者だからというばかりではなく、その二つを統合したその上に、生きてそこにあることへの希望と現実、命の輝きとその終息への凛としたまなざしがあり、我々受け手に、信仰的と言ってもいいような広大な精神世界を感じさせるからである。(つづく)
(大乗寺にて 2006.9.18)
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宰相として高圧的政権づくりに邁進した祖父を大尊敬する御仁が某党総裁に当選し、「眦(まなじり)を決して」事に臨むと演説しているのをニュースで聞いた。 この言葉が気になって、食事中だったが辞書を繰った。「目を見開く。怒ったり決意したさま」とある。この場合は「決意」のほう。心して事にあたるというくらいの意味である。では、怒った時はどんな言い回しがあるのだろうと、別の辞書にもあたったが、用例はなかった。 先日、この日記の下書きを書いていて、「思い半ばに過ぎる」という慣用句を使った。ちょっと気になって、言葉のサイトで幾つか意味を採取してみた。
1、「意味の半分を理解できる」「おおよそは推測できる」「十分に推察することができる」「考えてみて思い当たることが多い」など。 2、転じて、「想像したよりも事実はそれ以上である」「想像以上で感無量である」。
それぞれ、推測理解する度合いが微妙に違う。転じての意味も、気持ちがぐっと入っているもの、ないものがある。 結局、せっせと調べた挙げ句、自分の使い方が間違っていないということを得心できずに終わったのであった。 辞書を繰れば、言葉の意味は判る。でも、用例がほとんどないか、あっても一つだけのものがほとんど。文法上や意味の上では問題ないはずだが、どういう前後の文脈の中で使うのか一般的なのかということになると何とも心許ない。普通、こういう時にこういう言い方しない、こんな風に使ったら微妙にニュアンスが違ってしまうといったようなところは辞書で確定のしようがない。 よく使われる言い回しを沢山用例として載せてくれると有り難いのだが、分量の問題もあってそうもいかないのだろう。 無い物ねだりでついでに言えば、慣用的表現について、用例ばかりでなく「用法」という項目をつけて、使い方の解説をしてほしい。この言葉はこういうニュアンスで使うのです、こんな使い方は間違っていますと、そこまではっきり書いてあって、こちらはようやく安心して使うことができる。 昔は、こんな辞書の痒いところに手の届かなさ(!)加減など、さして気にもとめなかったが、今はえらく気になる。下らぬ文章でも、ぐだぐだと書いているからこそ判ること。あくせく調べ、自分で使ってみてはじめてその言葉が身につく。何事にも効用はあるものである。 風采の上がらぬヨレヨレ爺さん予備軍になって、誰もこの私を褒めてくれようなんどという奇特な人はおるまいが、もしも、仮に、かりそめに、よしや、例えば、冗談でも、万が一にでも、褒めてくれる人がいるならば、「なかなかの言葉の使い手ですね。」と言ってくれたら、一番うれしいかも……。 こう書くと、あちこちから、こんな文章でどこが? と突っ込まれそうだ。ハイ、重々承知いたしております。無辺の彼方にある努力目標とでも思って下さい。 それにしても、あの御仁、「よかった。感動した。」というような物言いしかしない「単語族」の前任者より、断然、国語力はあるようだ。
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ただ、ネットでダウンロードが主流になりつつあるご時世ゆえ、それでもいいのだが、できればCDというパーケージにこだわってほしい。 私たちは、音楽を封じ込めたメディア自体に思い入れがある世代である。音楽を情報のビット量に還元して、あっちやったりこっちやったりするのは、未だに違和感がある。音楽に対して恐れ多いのではないかという素朴なアミニズムを感ずる。 その昔、大事に専用布袋にLPを入れて、満員バスで割れないように気をつけながら学校に持っていて、お気に入りの音楽をお昼の校内放送でかけてもらったものだ。あの頃は、苦労して買ったLPという「物」を大事にすることが音楽を愛おしむことと等価だった。アルバムの絵柄、評論家によるライナーノートを含め、トータルで「物」としてコレクションする。そんな気持ちを持ち続けたい。 自分の趣味好尚、すべてハードディスクのフォルダに入っていますでは悲しいではないか。 それに、ダウンロードでは、わざわざCD買って手元に置いておくまでもない、気分によって適宜ライブ音源を引っ張ってきて、飽きたら消去すればいいという感覚になって、音楽が使い捨てになり、それこそ、CD売り上げが落ちたり、音楽家の日々の営業に影響が出る危険性が増すように思う。形にして「コレクション意識」を刺激させながら、且つ、ターゲットを絞ったやり方ならば、その心配も払拭されるのではないだろうか。 具体的には、「コアな愛好家にレアな音源を限定で」ということ。これまでファンクラブなどが細々とサービスとしてやっていたことを企業化制度化するということになるが、これには、レコード会社が乗る必要があり、会社との専属契約の有無でも対応は大きく違うことになるなど、現実的には色々難しい問題もありそうだ。けれど、そのあたりをクリアして、こうした小回りの利いた音楽販売のルートを開拓すると、新たな需要を喚起できると思うのだが、どうだろうか。 と、いろいろ書いてきたけど、まあ、一言で言うと、「もっとライブ演奏を気軽に聴きたい。誰か叶えてくれる人はいないかなあ。」ということです。
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それにしても、特定の人のためのこうした音楽の流通の仕方は、公式盤の売り上げを阻害する懸念もなく、ファンにも嬉しい企画である。実は、前々から、音楽を楽しむ方法が公式CDと足を運んで聴く生演奏との二つだけなのを淋しく思っていた。二つの間が開きすぎているような気がしてならなかったのである。 例えば、渡辺貞夫のCDを私は出る毎に買っているが、数年に一度、一流どころの外国人が脇を固めた特別セッションの形で世に出る。それで商品価値を高めているのだが、彼は普段は気心の知れた日本人中心のレギュラーメンバーで活動している。そのメンバーでのCDが出ていない。彼がパーソナリティをつとめるラジオ番組ではよく流れるのだが、ラジオのエアチェックでは音質がよくない上に、MD編集がめんどくさく、録りっぱなしでどこかに埋もれている場合が多い。もちろん、コンサートに行けばいいのだが、そうたびたび来沢されるわけでもない。 だから、こうした日々の活動記録的なものも、公式CDとは別ルートでファンに届ける手段があってもいいのではないかと思う。特に渡辺さんのように七十歳をとうに過ぎた御大の場合、しっかり記録を残しておくというのも、日本のジャズの歴史の上で大切なことではないか。 おそらく音楽業界でも、そうしたルートを考えた人は多いのではないか。それがうまくいかない理由は、それによってライブハウスに来てくれず日々の演奏で飯が食えなくなるのではないかという演奏者側の根源的恐怖心(?)のせいだろう。 しかし、インディーズ市場が成立していて、まずマイナーレーベルからというルートがある日本の若者向け歌謡曲界(Jポップというらしい)に較べ、マーケットの小さな日本ジャズ界では、二十年選手のベテランでさえCD一枚も出したことないという人も多い。ジャズファンは、どうしても外国の一流どころを追うのに忙しく、日本人音楽家のCDまで手が回らない。日本人のいつもの演奏の様子をもっと身近に聴くことができるシステムの開拓は、逆に日本のジャズを活性化する効果があるのではないだろうか。受け手側として、パンは何もヤマザキパン、敷島パンばかりではない。自家製の町のパン屋さんのも食べたいと思うのと同じこと。そこに需要がある。(つづく)
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地元の老舗ライブハウス「もっきりや」に立ち寄ってジョバンニ・ミラバッシ(p)のCDを購った。 二年前、ここで行われたトリオ演奏が澤野工房によって録音され、澤野主催のコンサート会場とこの店だけで販売されているという記事が出ていたのを、新聞ウオッチャーの愚妻が目ざとく見つけて教えてくれたのである。 彼は、メジャーにのらない優秀人材発掘系レーベル、澤野工房最大のスターピアニストだが、ジャズファン全体からすると知名度はそれほど高くない。そんな彼の名が一地方新聞の片隅に出ていたので、愚妻の方が面白がって、買えばどう?と勧めてくれたのである。CD買ってくると、あまりいい顔をしない彼女にしては珍しいことだが、「限定レア」ものに弱い女性の特質をはからずも示しているのかなとも思いながら、こっちは、これ幸い、有り難くお言葉に甘えた次第である。 記事によると、この時、狭い店内が七十人もの客で埋まり、音響調整コンソールを道路に出して録音したという。 昼間は喫茶店のこのお店の入り口で、マスターらしき人に「ミラバッシのCDありますか。」と恐る恐る尋ねる。なにせ喫茶店でCDを買うのははじめての経験である。ちょっと説明してくれたので、「彼のDVD持っています。」と言うと、その時のツアーの一環で来たのだという。音楽の中身の話をしながらレジで会計するというのもCDショップではめったにないことで、ちょっと新鮮だった。 パッケージは通常発売のものとまったく変わらず、見た目、公式盤となんら変わらないが、曲名が間違っていたと正誤表が入っているのがちょっと御愛嬌であった。 再生ボタンを押すと、静かにピアノが当たり曲を奏で出す。知らない国の知らないコンサート会場ではない。金沢の二年前の空気。拍手や掛け声も地元民である。小さなライブハウスならではのインティメイトな雰囲気が部屋に漂う。 自分も呼吸している金沢のすぐそこの場所の、ついちょっと前の空気がこの一枚に閉じこめられて保管してあった。それが、今、封糸を解かれたかのように流れ出す……。
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仕事の合間、同僚と雑談に花が咲いた。 話題は、いつの間にか白髪の話へ。白いのもが混じってきたけど、白髪染めは面倒くさいので躊躇しているという同世代の女性。愚妻は目立たなくするシャンプーを使っているようですよと水を向けたところ、興味津々のご様子。ただ、相性があって、人によっては全然効果がないようで、有名なメーカーの、愚妻はダメだったといっていましたと言うと、ちょっと残念そうなお顔であった。 愚妻はそれでも懲りずに、別のを使っている。が、その容器、シャンプー・リンスとも真っ黒けで、見た目、いかにもいかにもなのがオバサンたるところであると内心思っているが、もちろん、そんなこと口に出したりはしない。 話は、次に男性の髪の話へ。髪が気になりだした三十代の男性と、シャンプー何使っているか情報交換。最近は、育毛剤と同じタイトルのシャンプーが色々売られており、ベストマッチを謳っている。私は、どこどこのメーカーの養毛剤とセットのを使っています、髪に優しい感じでとても気に入っていますと嬉々として喋っていたら、その男性が、一言、 「で、効果のほうは、いかほどですか?」 と聞いてきた。 「んんん!!」 私は絶句。しばらく無言の後、こう答えた。 「全然、効果ありません。私の頭を見れば、判るでしょう……。」 この薄毛ぶりじゃ、こう答えるしかなかったのですが、それにしても、○○さん、私にオチを強要してませんか。
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愚妻が、パソコンにへばりついてボソッと洩らした感想。 「人のブログ、しょうもない(金沢弁…たいしたことない)のが沢山あるわね。」 うん、知ってる。「友人の○○子と遊んだ。楽しかった。」の一行で終わりといった類のが結構多いよ。 自分だけの備忘録ならそれも意味があるが、公にして人に何を酌み取ってほしいのだろう。書く手間を惜しんだ結果なのだろうけど、ブログって、書くことが面倒な人には向いていないメディアである。 ただ、せっかく、沢山書いてあっても、お人柄の底が見えるのもある。ある若い女性、エステの店員に、予備知識として色々聞かれて、ご機嫌を損ねたらしい。ブログには「ブチギレタ」「ボケー!」の罵倒言葉の羅列。その後は可愛くハートマークなんかを使って書いてあるのだけれど、もうダメである。 変換ミスもよくある。正式な紙の書類ではないので、どうしても確認が疎かになる。私も同様なので、これは、ちょっと甘い目で見ている。 テニヲハを間違えて、文が捻れているものも多い。私自身は、注意しているつもりだが、変なところがあるかもしれない。 そういえば、「(自分は)昨日から金沢に行っている」というのがあった。この人は今どこにいるか。おそらく書いた本人、全然、変だと思ってはいないだろう。 一番気になるのは、言葉を間違って覚えて使っている人が多いこと。「辟易(ヘキエキ)した」を「ヘキヘキした」など。この手の間違いは、ミスではなく、そう言うと思い込んでいるわけだから、お里が知れて恥ずかしい。でも、私もどこかでしっかりやっているようで怖いこと怖いこと。 今、ふと思ったのですが、物書きを職業にしている人は、こんな心配していないのでしょうか。それとも校正者に丸投げ?
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先々月、ストレスチェックアンケートをしろと福利厚生担当から案内が来た。簡単なイエス・ノーが羅列してあって、深く考えずに直感で○をつけるタイプである。お気軽にチェックして提出し、そのまま忘れていたら、先頃、結果が郵送されてきた。 私の「心的エネルギーの分散状態(エコグラム)」は、厳格ではないがルーズでもない。世話好きでもないが冷淡でもない。傍若無人ではないが萎縮もしていない。イイ子でもないが放縦でもない。ただ、現実無視路線ではなくて、ちょっと合理主義者であるというところだけグラフの折れ線が片寄っているが、後はもう見事に中庸路線である。 面白くない性格だなあ、と我ながら呆れる。 ただ、現在のストレス度は「要注意」だそうだ。総合診断の文章を愚妻に読み上げたところ、「そのままアンタじゃん。」と言われてしまった。 そうですか。私、「取り越し苦労」してますか。人生に「四苦八苦」してますか。そうですか。 そうですねぇ………、 …………………、 …………………、 …………………。
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「文藝春秋」巻頭随筆の二冊目を先に読んで雰囲気がわかっていたので、この一冊目は、あえて注文せずともよいとそのままにしていたのだが、先日、郊外の大型書店にあったのを、「見つけた以上は買いますかね。」といった気分で購入した。 まず、謙遜の辞であるタイトルが秀逸である。これまでどこの随筆の題にも使われていなかったのが不思議なくらい。発行は平成十二年十一月、購入本は第二刷で、同月の増刷。昨年出来たての本屋さんに、もう六年もたって文庫本も出ている単行本が選ばれて置いてある。どういう基準で、開店の時、本を選択するのだろう? そんなことが気になった。 内容は、平成九年から十二年まで。前回も書いたように、政治への苦言もどんどん書くという態度なので、「再建された海上自衛隊といふ名の、新生日本海軍」などと平気で書いてあって、政治信条的に容認しがたいと思う人が大勢いても無理はない。作者自身、自分のは「文士の素人政談」であると断っているが、ポツダム海軍大尉として敗戦を迎えた海軍擁護派で、平成の世にも生き残った戦争世代の、ある一つの政治的立場の意見としてよく判る考え方である。戦時中勤労動員で働かされていた我が老父から聞かされる主義信条と重なる部分も多いが、それより更に微妙に上の世代の意見である。今や世代的に少数派の意見であるが、本の腰帯はそれを「懐深い見識」という言い方で表している。 ただ、どんなに直言しても、硬直していないのがいい。現代の世相を批判し、亡国を感ずるかと思えば、道に迷って受けた若い人の親切を喜んだり、軍神乃木大将にも、気にくわない和歌があれば平気で味噌をつけたり、決して尚古趣味には陥っていない。 話題も豊富だ。宰相論や軍隊がらみのもの、サンタモニカのトーマスマン旧居の訪問記、老人向け糞尿処理機に感心する話、自身の転倒骨折事故をめぐるアメリカの訴訟事情、東南アジアの海賊横行問題、女優木の実ナナに感心する話 ポン友芦田伸介追想など、縦横無尽で読者を飽きさせない。特に、日本人特有の大げさな不祥事のお詫びについての考察(「土下座考」)などは秀逸な文化論である。 今や現役で少なくなった旧仮名遣いの文章家である。よく吟味された言い回しで、文章に流れと息づかいがあり、読みやすい。時に国漢の素養のある言い回しがさりげなく入り、さすがの教養を感ずる。例えば、「都鄙(とひ)を問はず」などと書かれてあると、ああ、そういう言いまわしがあるのかとこちらが勉強になる。 最後に置かれたエッセイは、故皇太后の通夜列席記である。昭和と共に生き、そして老いた。これで完全に昭和が終わった。自分たちの生きた時代はもう歴史の中に入って行く。との感慨でこの本は終わる。 友多く逝き、居残り感を感じつつ、でも、言っておくことは言っておくというこのエッセイは、まさにこの感慨が基になっている。続きものではあるが、見事な切り方である。 先日、吉村昭が死去した。自分から管を外した尊厳死だったと後でニュースが伝えていた。人に迷惑をかけるのが心からお嫌だったのだろう。彼の作品から推察すると、そんなお人柄という気がする。 吉村は昭和二年生まれ、阿川は大正九年生まれで、阿川のほうが七歳も年長だ。 なんやかやと世の中を憤っているということは、矍鑠(かくしゃく)として、且つ、娑婆っ気たっぷりということ。 阿川さん、三冊目もお待ちしています。但し、ハラハラしますので政治的苦言はお控え気味に……。
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一昨日、午前中雨が降り、急に肌寒いくらいの日になった。去年はだらだらと下旬まで暑かったが、今年は上旬この日を迎えた。高校生の頃、やはり五日にすとん秋になったことを覚えているので、このくらいの時期がここ金沢の標準的な気候なのだろう。これからも暑い日はあるが、もうそれほどではない。 秋田出身の若い同僚に、向こうも突然秋になるんですかと聞いたら、日本海側同士、やはり、同じだそうだ。 続けて、彼女曰く、「秋田には秋がありません。」 なるほど、端的でよく判る表現である。過ごしやすい季節がほとんどなくて、すぐに肌寒くなってしまうのだろう。 彼女、金沢の雪など全然大したことないという話しぶりで、さすが名にし負う雪国の娘っ子、頼もしいかぎりである。 今年は梅雨がちょっと長かったが、八月になった途端に暑くなり、雨もなく淡々と三十三度近い日が続いた。それでも三十六度を超えるようなヒートアイランド現象的な暑さはなく、お盆が過ぎたら朝夕涼しくなり、そして、今、秋になった。異常気象が叫ばれる昨今では、なかなかに正統な夏だったのではないかというのが私の実感である。 そこで、ここ数日、この「正統な夏」というキーワードを、何人かに言ってみたのだが、だれも賛同してくれない。特に反対もしないけど、「そうですかね。」といった程度のリアクションだった。 外でとびまわっていた人、日中、冷房の中にいた人、人それぞれ過ごし方が違うように、人それぞれ夏の感じ方も違うのだろう。 青春の経験を積んで思い出の夏になった若者、仕事に忙しくて遊ぶ暇がなく、ちょっぴり残念感のある中年、夏を乗り切るのが重要案件だったお年寄り……。 人それぞれのそれぞれの夏。 我が勤務校でも、若いエネルギーを燃やした文化祭が終わった。ファインダーごしに彼らを追ったので、笑顔をアップで沢山見ることができた。夏の光の中、原色の衣装で踊るキラキラした破顔の表情が眩しい。 さて、明けて今日はテスト。いつもの机にいつもの面々が座っている。みんないつもの表情で……。 夏が終わった。
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ケータイで仕事が成り立っているご職業の方も多く、大人の世界でケータイを持っていないのが珍しいくらいになった。 なぜ、持たないのですかとよく聞かれる。特段、アレルギーがあるわけでもない。留守番電話、FAX、PCメール。外部との連絡に関して、それだけあれば充分でしょうという気がするからである。私、どこにも逃げ隠れしておりません。 我が家の固定電話の料金、基本料金を除いた通話料は今月九十円だった。その程度の利用状況である。毎月、基本料金を払っているみたいなもので、ケータイあったら便利だろうなとは思うものの、今現在、それ以上の必要性を感じていない。 もちろん、有り難みを感じる時もある。この前、伯父が亡くなり、弟が代表で急遽遠国へ葬儀に出向いた。我々夫婦、弟嫁が実家に皆居合わせた折り、弟嫁のケータイに中陰(宴席)の様子が「写メール」で送られてきて、こっちも、すぐに一家記念撮影して送りかえし、写真の交換ができた。日頃ご無沙汰しているだけに、これには老父母も感心しきり。便利な世の中になったものである。 ただ、子供がケータイ持つことについては、私は未だに内心懐疑的である。一人あたり月平均、五千円〜一万円の電話代を使っており、多くの家庭で親が全額負担している。 先日、生徒を車に乗せて移動中、彼女らの雑談を聞くともなしに聞いていた。話題はどうやってメールを終わらせるかについて。「風呂の順番だから」「食事だと親が呼んでいるから」が常套句だが、夕食言い訳を夜十時すぎに使ってしまって、ちょっとまずかったなんて失敗談を言い合っている。 どうやら、雑談メル友が二十人近くいて、暇だと全員に送信するらしい。すると、何人もの返事が返ってきて、そのまま会議のようなことになってしまうのだそうだ。それが午前様になり、さすがに止めたくなって、どう離脱するかが大問題になるらしい。それで、その言い訳のしかたが中心話題になるわけである。 毎日、日付が次の日になるまで、悪友と繁華街の茶店でダベリングに興じているのと同じようなもので、家にいるかいないかの違いでしかない。深夜は「交際の時間」ではなく「自分を育てる時間」のはず。昔なら、今の子、全員「不良」と言われそうである。 この話を聞いて、忙しくて本なんか読んでいる暇はないと生徒が口々に言う理由が判ったような気がした。
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先日、私用の電話をしようと、職場の緑公衆電話のところに行ったら、電話機が取り払われていた。コードだけが空しくフロアにのたくっている。 事務方に「臨時ですか、恒久ですか。」と聞くと、恒久だという。使用頻度が落ちて電話局が撤去していったらしい。置きたい場合は、自腹でピンク電話を設置して下さいということなのだそうだ。ケータイ持っていない私は、職場で私用電話が出来なくなって、ほとほと困ってしまった。 学内調査によると、ケータイ未携帯者は数%足らず。もはや校内に公衆電話がある意味はぐっと低下したが、一部の生徒は、私のように困るだろうし、事実に引きづられてケータイの持ち込みを容認したかのようなことになってしまう。登校帰宅時以外の校地内ケータイ使用禁止という校則との整合性も怪しくなる。事務方は今後どうするか考慮中とのことだった。 そんな出来事があってすぐに、新聞に「公衆電話激減危機」の記事が出た。政府がNTTに課している公衆電話設置義務を緩和し、もっと広域で一台あればそれでいいということにならないか検討中だという。市街地を五百平米一台から一キロ平米一台にというのである。 二分の一ではない、これは四分の一にするということである。一キロ平米というのは、小さい地方都市の繁華街一つそっくり入ってしまうくらいの広さがある。その街で電話しようと思ったら、ほとんど宝探しのような事態になる。 ここのところ、本当に、街のあちこちから緑電話がなくなった。居酒屋のピンク電話さえなくなり、電話したいんだけどとありかを店員さんに尋ねたら、私物ケータイを差し出されて困惑したこともある。そして、ついに、今、切実な問題として我が身にふりかかってきた。 通信費にお金を大量に落とさざるを得ない時代、「買わざる者、不便をかこちても致し方なし。」と、誰か上の方で嘯いている人がいるような気がして仕方がない。
(追記)
この文章のアップが遅れていた間に、新しい電話機が設置されていた。文化祭で外部の人が訪れるので、事務方は思いのほか早く決断したようだ。小型でプュッシュ部分が大きいユニバーサルデザインの電話だが、困ったことに、テレフォンカードが使えない。まだ大量にしまい込んであるあのカード、使い切るチャンスを失いつつある。
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先の休日の昼、浅野川近くのお蕎麦やさんに寄った。はじめてのお店で、和の店構え、自在鈎の囲炉裏、庭園も美しく、冷房の中、そこに座って時をすごすのも料金のうちと言われても納得する雰囲気の店だった。 蕎麦は時間がかかるから、ご自分で大根を摺っててくださいというシステム。辛みと普通とどちらにしますかと聞かれ、辛みのほうを選んだ。 すると、それなりの大きさの大根がドンと運ばれてきた。夫婦で交代交代、必死にスリスリ。一本全部摺り終わったころ、お蕎麦がきた。 ところが、店員さん、次のお客さんからは、「必要な分だけ摺ってくださいね。」と釘を刺しはじめた。 愚妻は、ああ、やっぱり、私たちにも最初からそう言ってくれればいいのに、全部摺れということかと思っちゃったわよねえと私に同意を求める。 どうやら、店員さん、私たちの行動を見て、これは先に言っておかねばと思って、付け足しはじめたようだった。愚妻は、恥かいた恥かいたと帰ってからも言い続けている。 お刺身にわさびがついているからといって、全部お醤油に溶かさなければならない義理はありません。それと同じ。 もちろん、おろしは、摺った以上、全部つゆに入れていただきましたよ。 お蕎麦のお味はどうだったかって? もう、それどころじゃありませんでした。
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某日、バリウムを飲むため、駅西方面へ車を走らせた。新しく出来た街らしく広々した道路に朝の通勤の車が流れている。流れはスムーズだ。キラキラしたガラスのビル街に、人工的な庭園の区画、そんな中を、コミューター然とした今時の四角っぽい車が、一定の間隔で行き過ぎる。それがコントロールされた新しい交通システムのように見える。近未来的にさえ感じる都市の風景。何か金沢ではないみたいだ。地元の通勤人は、戦災に遭わなかった狭い道の、ウンともスンとも動かぬ大ラッシュに悩まされている人ばかりかと思っていたが、どうもそうでもないようだ。 某日、特休を利用して、駅近くのデイケアセンターで、理学療法士に運動療法を習いに行く。朝、変貌著しい駅東口周辺に身を置くこと自体、ほとんどない行動である。行った先はお年寄りの通所訓練施設なので、張り紙が幼稚園みたいだった。トイレの左右の入り口に、ピンクとブルーで園児ならぬ可愛いお年寄りのイラストが書いてある。車椅子や杖をついてようやく動けるお年寄りが数人、リハビリに励んでいる程度の閑散さ。超満員の整形外科訓練室をイメージしていたので、最初、場所を間違えたかと思った。職員にも、何かのんびりしたムードが漂っていて、これまでの医療機関には感じたことのない雰囲気だった。 私の病気は、言うなればお年寄りの病気と同じようなものである。どこの待合室でも、かなりお体のお悪い方を横目で眺めながら待っているということがよくある。いずれ私も運動訓練が全人生とでもいうような、こんなゆっくりした世界に身を置くことになる。いつか確実に辿る道である。 その夜、同僚の御尊父の通夜があり、三十キロほど郊外に車を飛ばす。途中、自動車専用の新道と交わる交差点で、旧道が寸断されていて、見事に新道の方に行ってしまい、判っている場所のはずなのに、迷子になってしまった。隣の田舎町だと思っていたが、いつの間にか、金沢の衛星都市のような発展をし、知らないうちに大型ショッピングセンターや新しい町並みが出来ていた。多くの車がライトを皎々とつけて行きかう。そんな知らない道を、こっちのほうかなと見当をつけて走る。 新たに出現した、知らない街の知らない人の帰宅風景。 旧市街に生活し、狭い区域しか動いていない私にしては、この一週間、ちょっと違う景色をいくつか見た。たった四十万都市でさえ、知らない風景がたくさんある。石川県民は百万人、日本人は一億、世界は……。 そんな無数の人間が、今、この瞬間、色々な場所で生きている。考えてみるとクラクラするようなそれぞれの人の営み。その中で、私も同じように毎日を過ごし、少しずつ歳をとっている。 もう、大きく人生が動くということもあるまい。病気で止まった月日は、今から思うと結構大きい空白だったような気がする。その上、「急によくなることはありません。無理せず、たましだまし生活していくほかありません。」と言われ、そんな小さな小さな無理の利かなくなった人生を、でも、どうにか、息も詰まらず、いじけもせず、ちょっとは有意義に生きていかなければならない。 もう少し大きく人生を展開したかったなあという気もちょっぴりするけど、もう仕方がない。 色々な人がいる。無数の人の生を感じるからこそ、その中で、自分を自分として、なんとか頑張ってやっていかなければと思う気持ちも湧く。 新しい景色に触れるというのは、こんな気持ちになれる大切な時間なのだと気づいた一週間。
(写真は新旧混在する駅近くの駐車場の風景)
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