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ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2007年04月30日
  今年から「昭和の日」

 昨日は、昭和時代の「天皇誕生日」。平成に入ってからは「みどりの日」というとロートル頭にもインプットされていたのに、今年から「昭和の日」に改名されたという。一週間ほど前、それを愚妻に言われて、初めて知った。我が愚脳に定着するのにまたしばらくかかりそうだ。でも、その話はそれで終わり、すぐに忘れていた。
 さっき、連休仕事で疲れた体を横たえ、ぼんやりラジオを聞いていたら、立川談志ら芸能人が面白可笑しく昭和を回顧する特集をやっていた。ああ、そうだ、今日は「昭和の日」の振替休日だったと思い出す。
 この番組の中で、あの頃のものとして、蝿捕りリボン、DDT、噴霧器、種痘、BCG注射の腕の痕などが挙げられていた。私の日記の、氷枕や手水タンクと同じような話題で、みんな、そんな死に絶えたものを思い出しては懐かしがっているようである。
  それにしてもと、その時になって、「昭和の日」というネーミングが急に気になった。自分の生まれた元号が、今や思い出すべき記念日になっている。その時襲った感慨は、ほとんど中村草田男の例の有名句と同じようなものだった。

 

  降る雪や明治は遠くなりにけり

 

 中村は、炬燵に入って、区切られた硝子窓越しに見える雪の縦のラインを見ながら、ふと、明治という時代がだいぶ昔のことになっていることに気づいた。それは、自分の生まれた元号(明治三十四年生)だからこそ意味を持つ。明治の子である自分が、違う元号を跨いで、それなりの年月を生きてきたことへの感慨、生への思いが、そこには深く含まれている。
 この時、中村は三十代半ば。老いさらばえた後の懐旧の句ではなく、初めての「気づき」の瞬間を捉まえた句なのだろう。
 中村がこの句を載せる第一句集「長子」を出したのは、昭和十一年のことである。この年の句とは限らないが、仮にそう考えると、彼がこの句を詠んだ時、明治が終わって四半世紀たっていたことになる。
 私もここ数年、妙に四半世紀前のことばかり思い出す。二十五年という歳月は思い出収納箱を開けたくなるに充分なスパンなのだろう。
 今年、昭和が終わって十九年目。ちょっと足りないから、「えっ、もう昭和記念日?」という軽い驚きにつながったのだろう。でも、そろそろ、そんな時期にさしかかってきたことも間違いない。

 

  春今宵遠き昭和と知りにけり   拙作
 

(全然、換骨奪胎されてないなぞりの句。愚妻の「説明調。才能ないね。」と批評する声も背後から聞こえてくる。頼むから本人判っていることを、わざわざ指摘すな。)

 2007年04月28日
  『木村伊兵衛の眼』(平凡社 コロナ・ブックス)を読む

 今年二月新刊の写真ブック。奥付によると一九九九年七月「太陽」の木村伊兵衛特集に加筆・再構成したもの。代表的作品を前半に置いて彼の芸術を紹介し、関係者の証言を後半に載せ、巻末に作品集案内と評伝・年譜を付すという判りやすい編集のガイドである。亡くなって四半世紀、カメラという機械を扱っている以上、彼の書いた文章は古びてしまっているものが多い。そういった意味で、いくらかの引用はあるものの、本人の文章は載せないで、証言で固めていくというやり方は悪くない。彼の芸術は写真であって文章ではなのだから、これもアリである。
 当然、この本の内容は、難しい芸術論より人物印象が中心となる。どの文章にも彼の印象にブレはない。オシャレで洒脱、女好き。下ネタがうまい江戸っ子。弟子の写真技術を聞く質問には、楽をして人に聞くなという態度で、一切教えなかった。
 戦前、発売されてほどない高価なライカをいち早く使って、堅苦しい肖像写真にはない生き生きとした作家の表情をカメラにおさめた。その三十歳代以来、彼は、「いつの時代でも話題の人」(多木浩二)だった。年譜を見ると、五十歳直前には写真家協会の会長におさまっていて、早くから、彼はすべての日本の写真家が「目指すべき大先生」であったようである。
  彼の撮影スタイルは、被写体に撮られたことを意識させない「居合い抜き」のようなもので、深追いぜず、「後ろを振り返ってシャッターを切らない」(佐々木昆)、また、同じ構図で何枚も撮らない、というあっさりとしたものだった。対象にどっぷりと入り込まず、都市(特に下町)や地方の文化、あるいは、そこに生活する人間の本質が表層に現れる瞬間を繋ぎ止めることに一生腐心した人で、写真によっては自然ににじみ出ているものもあるが、本質的にラジカルな批評性には乏しかったというのが証言者の共通した評価のようだ。確かにそう言われればその通りだが、それで終わりではなかろう。それ以上の彼への評価や発見は、今後の私自身の宿題である。
 この本を読み終わって、高梨豊が紹介しているライカ代理店明石正己の言葉、「一機種のカメラだけで仕事をした職業写真家なんかほかにいませんよ(中略)木村さんは素人じゃないけど、ひとりのアマチュアだったんですよ」という台詞が印象に残った。まさに正鵠を射た指摘だ。その流れで、田沼武能の「生涯写真家として撮り続けることができた伊兵衛さんの人生は幸せだった」というコメントもすっと心に入って納得がいった。
 つまり、彼は、出来不出来はともかく、誰でもやろうとすればすぐにできてしまうスナップ写真の手法で、出来のいい写真を撮り続け、一生飯を喰うことができた「超」幸せな天才的アマチュアだったのだ。

 

 2007年04月26日
  絶滅危惧種
 冬の弓道大会でのこと。風邪の部員から「コーチに貸してもらったのですが、これは一体なんですか。」と質問された。見るとポーチに入った白金懐炉である。はじめて見たのだろう。そこで、使い捨てカイロが発明されるまではこれだった、燃料はベンジンでね……と説明した。
 今の子はベンジンを知らない。染み抜きにも使った、当時、大抵、一家に一瓶あった女性管理の「危険物」だった。私も、その昔、白金懐炉を愛用したことがある。あの頃でさえ、ちょっとアナクロ気分も混ざって使っていたように思う。コーチのものは新しかったので、細々ながら今でも売られているのだろう。
 そういえば、と、絶滅しかかっているもう一つのものを思い出した。「アイスノン(冷凍庫で固める氷枕)」が発明されて駆逐された赤茶色のゴム製の氷嚢。
 子供の頃、熱を出すと、母親は、あれに水と氷を入れて、金属の留め金で止め、タオルを巻いて頭の下に敷いてくれたものだ。横向きになると枕に耳をあてる恰好になり、ぽちゃぽちゃという音が奇妙なくらい大きな音に聞こえた。子供はよく熱を出す。あの音は、寝込んでいる時の一番の思い出かもしれない。
 じっとしていなければならないので、つまらなくて、頭を振って、ぼちゃんちゃぽんと変化する音を聞いて過ごした。眼はぼんやり天井板の年輪模様を眺めていたものだ。こうした自分の光景を、今、文章を書きながらまざまざと思い出した。結構、それは自分の記憶の早い部類のものではなかろうか。
 あの頃、毎日、両親の間に寝ていた。俗にいう川の字というやつである。今思うと、私は幸せな子供だったのだろう。
  今の子供たちは、あの氷枕の音を聞かずに大きくなっていく。彼らが大人になった時、何を懐かしく思い出すのだろうか。
 もしかしたら、ぺたんシールの小林製薬「熱さまシート」?
 2007年04月23日
  乙女の金沢制作委員会編『乙女の金沢』(中央公論新社)を読む

 去年九月発行。地元本でもなく旅行ガイドのシリーズでもなく、中央公論新社というメジャーな出版社の発行(マーブル・ブックス)ということで、地元金沢でも話題になり、東京でも、結構、売れた金沢案内本である。パラパラめくりながら、どんな出版戦略なのか考えてみた。

 

一、「カフェ、雑貨、和菓子、散歩道……かわいい金沢案内」という副題が示すように、小物や食べ物が中心。それも有名どころではなくて、ちょっとマイナーな、和ものでお洒落なものを多く載せている。和菓子も、定番ではなく、その店が出している別の意欲作のお菓子を載せるというような変化球。かと思うと、どこにでもある鯛焼きまで載っている。確かに、そこのお店、美味しいと評判だが、そんな町内会レベルの超ローカルな話題が全国本に載るとは……。これまでは当たり前だった情報の遠近・強弱の性質を、意図的になくす現代の伝達ありようを巧みに使っていると感じた。

二、ネット上で話題になっている店や品物はしっかり載せてある。地元では知られていない情報でも、ネットで調べて金沢にくる若者たちへの配慮を忘れてはいない。

三、地図は、手書きのものが最後にあるだけ。その店に行きやすいようにという利便性は考えられていない。いないどころか、わざと不便にしてあるという言い方もできる。自分で見つけ出す楽しさ損なわせないようにという配慮からなのであろう。

四 地元民がとっておきを紹介するコーナーがある。個人から個人へ教えますといった紙面づくりで、「こっそり感」をうまく演出してある。

五、かとって、マイナーばかりを狙っている訳でもなく、金沢二十一世紀美術館など、最小限のメジャー観光施設も載っていて、これ以外のガイド本を買わなくてもいいように作ってある。 

 

 「観光ガイドじゃ見つからない、とっておきの金沢を集めました」と、表紙に貼られたステッカーに惹句が載っているが、なるほど、女の子が、この本があると「自分だけの素敵な旅」ができるのではないかと思わせるのに成功している。
 読んでいて、ファンシー雑貨屋さんで、若い女の子がワクワクしながら品物選びしているあの気分を、そのまま「金沢」という町単位に拡大させて反映させたバージョンだと思えばいいのだろうと思った。
 今、東山の茶屋街は、外観はそのままに洒落な和風雑貨屋街もどきになっているし、市内の何の変哲のない地味な商店街に、お洒落な店がぽつんぽつんと出現していて、町並みが微妙に変化してきている。
 観光都市としてうまくやっているということは、つまり、若い女の子の嗜好に対応してきているということである。この本の功は、そんな金沢の微妙な変化を、はっきり「乙女」という括りで顕在化させた点にあるのではないだろうか。今までの「いい日旅立ち」的な古都再発見的イメージとは違う、もっとマニアックで乙女チックな領域にも、金沢という町は充分対応できていることを告知する役割。
 編集は、岩本歩弓なる三十一歳の女性。先月三日、金沢の魅力を再発見してもらう市の青少年育成事業として、この方が地元の高校生を案内したという記事が新聞に出ていた。変わりつつある金沢の案内人として、なかなか、かなった人選だ。

 

 2007年04月22日
  「オセロー」を観る

(以下、観劇感想文です。「かあてんこおる」のところにも載せています。)

 

今の感覚からみると
       幹の会+リリックプロデュース公演『オセロー』第二六五回例会

 

 有名なシェークスピア「オセロ(Othello)」の舞台を初めて生で観ることができた。作品が出来たのは江戸開府のころ。もう四百年も前のことである。平幹二朗のシェークスピアを観たのは、『冬物語』『リア王』に続き、これで三回目。
 高潔で勲功誉れ高い黒人将軍オセロ(平)が、部下のイアーゴ(平岳大、親子競演)の奸計によって、愛する新妻(三田和代)と副官キャシオー(大滝寛)とが密通していると誤解し、ついには妻を殺してしまうという男の嫉妬の物語。どんな高貴な身分でもそこは人間、高見にいるからこそ見えなくなり、嫉妬や猜疑の沼に陥るというのはシェークスピアが繰り返し描いてきたテーマである。
 今の感覚からみると、夫婦の間の心の行き来に物足りなさを感ずる人が多いのではないだろうか。妻はもっと潔白を晴らすべく自己主張すべきだし、夫婦なのだから、夫も、まず腹蔵なく自分の気持ちを伝えれば、誤解は回避できたのはないかとの思いが湧くはずである。だが、それは今の感覚。女は夫に尽くすのが本分とするこの時代、その部分はそういうものとして受け止めるしかない。ただ、そのため、最後まで、古典なのだから仕方がないという気持ちで観なければならないことに違和感を覚えた女性陣がいるかもしれない。(もちろん、男である私は、一途に夫に誠を尽くす新妻という存在自体が、話の筋に全然関係なく、うらやましてなりませんでしたが、なにか?)
 純情で愛情豊かな主人公、夫に献身的な愛を捧げる妻。美しい関係だからこそ、奸臣のつけ入る余地があった。悪漢イアーゴを忠臣と信ずる将軍は、彼の讒誣(ざんぶ)をことごとく信じ、嫉妬でぼろぼろになっていく。下降心理の劇として、ストレートな構成で判りやすい。
 いつも同様、素晴らしい警句や箴言が、豊富に散りばめられている(小田島雄志訳版)ので、深く意味を酌み取らねばならず、そのあたりに重さを感じるが、決して現代の目からみて間延びしているとは感じられない。どんどん奸臣の策略が図に当たって思うつぼになっていく様は、それどころか、なかなかにスリリングであった。また、ベッドの上で、夫に殺された妻と、自刃した将軍オセロが折り重なって終わるラストも哀れを誘う名シーンだ。
 主演の平幹二朗は今年七十四歳になる。そんなお歳とはとても思えないバイタリティ溢れる演技だった。NHK大河ドラマ「樅の木は残った」(一九七〇)や「国盗り物語」(一九七三)でみせた、彼とすぐ判る低い魅力的なお声は今も健在で、重厚で鬼気迫る演技にますます磨きがかかり、観客を魅了させていた。
 対して、相手役の名女優三田和代も、すでに今年六十七歳。こちらは、どれだけうまくこしらえていても、お声など、どうしようもない部分で、新妻役というはちょっと……というところがあった。ここはベテランに頼る必要はない。若手を起用すべきだったのではないか。
 全編スパニッシュ風味の演出(平幹二朗自身)が効いていてたし、舞台中央端にスポットフットライトを配し、影を背景に大きく映し出すの照明も効果的だった。
 私の観たのは、今興行百四十七回目。千秋楽ということで、観客はスタンデングオベーションで演技を終えた役者を迎え、花束の応酬があったりして、いつもより華やかなアンコールとなった。
             (鬼妻にデズデモーナの爪の垢を)                      (2007.4)

 2007年04月19日
  春の散策

 去年は、福岡町の桜まつりがこの時期の行楽だった。桜は市内では終わりに近い。今年は時期を逃したかなと思ったが、標高を上げるとまだ咲いているだろう、それに、この前、平栗に短時間いたので、もうちょっと自然の中にいたくなって、好天の日曜日、近場をドライブをすることにした。湯涌から峠を越えて刀利ダムに抜けるコースは、若い時には何度も通ったが、ここ十数年はご無沙汰。よし、このルートにしよう。そもそも、山道を運転すること自体、腰痛発病以来初めてである。
 勇んで出かけたものの、峠のずっと手前で、冬季通行止めのゲートが道をふさいでいて、計画はさっさと頓挫してしまった。
 時間はたっぷりある。付近の山村をそぞろ歩き、花や田舎の風景を写真におさめた。白、赤、ピンク、黄色。椿がまだ咲いているかと思えば、菜の花、染井吉野、桃の花、八重の桜、水芭蕉と、冬から春にかけて開花時期のずれている花々が、時を同じくして咲いている。今の季節ならではの風景である。
 特にすることとてない。早目に近くの料理旅館に入り、岩魚の塩焼き定食に舌鼓をうった。それから、湯涌温泉総湯「白鷺の湯」で一風呂あびて、充分、太陽が高いうちに自宅へ帰り着いた。
 最初の計画からしたら、ぐっとこぢんまりとしてしまったが、春の散策はそれでいい。岩魚を食べるなんて朝の段階では思いもしなかったし、お風呂は、石鹸を持ってなくてシェービングクリームで代用した。
(参考までに、泡は嵩ばかりで、全然、脂垢落とし効果はありません。タオルにモコモコ泡をこすりつけて洗っている様子を人に見られるのは、結構、恥ずかしかったです。)
 目的のある外出以外、出歩かなくなった我が身が、春を感ずるためだけに、行き当たりばったりに動く。私には、そのこと自体が楽しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(タイトル「岩魚の阿鼻叫喚」愚妻撮影)

 

 2007年04月16日
  昔の仲間の結婚パーティ
 二十年近く前にアマチュア無線で知り合い、今は県外に住む仲間の一人が結婚することとなり、先日、夫婦共々、夜の披露パーティ(結婚式二次会)に招かれた。場所は地元繁華街に昔からあるドイツ風居酒屋。
 ハム仲間はバイク乗りが多かった。最初、彼は免許を持っておらず、私たちが、やいのやいのと焚きつけて、後になって彼も乗るようになった。
 どうやら、会の出席者は、地元関係者以外、彼がその後知り合った全国のバイク仲間が多いようだ。同じテーブルの方に聞くと、ネットで知り合い、メンバーは百名ほどいるが、誰かが、行き先と宿泊宴会場所を決め、後は、都合がつく者のみ、勝手に現地集合し、勝手に解散するのだという。幹事が出欠を集約し……といった作業は一切しない。次の日、ご一緒に移動する小グループが出来るかと思えば、単独行の人あり、寄り道派がいるかと思えば、ぶっ飛ばし派がいるという具合で、融通無碍に離散集合するらしい。だから、今回の参加者の中には、彼とは旅先でよくワイワイ飲むが、実は、よく知らないという人もいて、なんだか、面白いつながりだった。
 彼にバイクの種を蒔いたのは我々金沢組だが、もう誰も乗っていない。いつの間にか、彼はオーバーナナハンを乗り回し、沢山の仲間を作り、バイクで華を咲かした。明るく気の置けない彼の人柄ならではである。
 司会進行の従兄弟さんは、何とロックギタリストだそうな。ステージトークで慣れているのだろう。座を盛り上げ、弾き語りも披露して、大活躍だった。小さな業界で、同じ発想の人とグタグタ内輪話している宴会ではない、はじけた明るさが眩しい祝宴だった。愚妻も、ちゃっかりビンゴで焼酎ご当選。
 JR9○△□さん。この度は、ご結婚おめでとうございます。
 「明るく楽しい家庭をお築きください。」ってよく言うけど、言われなくっても、毎日、夫婦漫才かも?(失礼)
 2007年04月13日
  『腕くらべ』の世界

 前々回書いたように、「浅の川園遊会」で芸妓さんの踊りを観た。外人さんは、「おお、ジャパニーズ・ゲイシャ・ダンス!」と言っていたとか。でも、ゲイシャと芸妓とは、仕事の内容、格式が違う。
 東の芸妓さんの踊りを観たのは、昨年の浮き舞台、二月の宇多須神社の奉納踊りに続き三回目である。望遠レンズで追っているので、何人かのお顔も覚えた。どうやらお若い現役の方は決して多くないようで、七、八人といったところではないか。後は三味線などベテランの方々。不況の中、昔のようにお大尽がいなくなって、金沢の旦那連が抱えることが出来る芸妓衆のキャパシティもそのくらいになっているのだろう。厳しい稽古が予想され、現代娘のなり手がいないということもあるかもしれない。
 節分の時は黒留袖、今回は春らしくパステル調の訪問着。お一人お一人色をかえているのが艶やかである。主計町の踊りはほんの数名、東よりも規模が小さいのだろう。今回は出られなかったが、西の郭づきの芸妓さんはどれだけおられるのか。
  愚妻が楽屋雀の噂話を小耳に挟んだ。誰それ奴さんは、今度、西から東に移ったけど、どうしてだろうねえ、まあ、色々とあったんでしょう、というような話だったらしい。女の世界だし、お客さんとの関係もある。おそらく、本当にいろいろとあったのだろう。
 それにしても、なんとも大時代的な話。芸者と芸妓とは違うことを承知で言えば、『腕くらべ』『おかめ笹』の世界に通ずるものがある。あの小説が書かれた大正時代、荷風には花街柳巷の文化が衰退しつつあるという危機意識があって、書き留めておこうという気持ちが強かった。でも、今もちゃんとつながっている。
 桜の造花を手にした春の踊りは本当に華やかだった。歳をとったのか、跳んだりはねたりするものより、こうした仕草の美しさのほうに、いたく感激する。彼女たち、一体どのくらいのレパートリーがあるのだろう。昔よりやせ細っていないだろうか。今は主役のお若い芸妓連がいずれ老妓となって、また、次の若い子を教えることができるだろうか。
 彼女たちは、本当に日本の文化を背負っている。しっかり身につけ、しっかり伝えて下さいね。文化を語る「理屈こき」ばかりいたって、なんにもなりゃせんのですから……。


 2007年04月10日
  帰るところ

 カタクリの花が金沢の山間部平栗で満開らしい。昨日の仕事後、見に行かれる方の車に同乗させてもらい、日没までのほんの短時間だったが群生地を散策できた。ヨタヨタ歩きでご迷惑だったかもしれない。
 昨年より早い開花で、既に盛りは少し過ぎた感じだった。生き物にお詳しい方なので、小池に白く沈んでいる山椒魚の卵を教えて下さったりした。写真好きがいい構図目当てにうろつきまわるのとは違う目のつけどころで、同じ自然を眺めていても見ているものは全然違うことを実感した。
 カモシカ注意の看板があるねと話が出た矢先、目の前に二頭のカモシカが遊歩道をふさいでいた。人を見かけても動じない。ゆっくりと近づいていくと、急にどうとばかり追っかけあいをしながら逃げていった。地面の高低、草むらや木々などものともぜず、素早い身のこなしで、地響きや草のざわついた音をたてながら、我が物顔に走り回る。まるで障害物がなにもない平たい運動場を好き勝手に走りまわっているかのようだった。ああ、ここは彼らのフィールドだ、お邪魔しているのはこっちだということがそれでよく判った。
  夕暮れが木々のシルエットを映し出しつつあった。その光景を見た時、今年になって、自然に分け入ったのは初めてだったことに気づく。あくせくした気持ちが消えていくのを感ずる。ただ、ここは人の住む世界とは違う世界。時たま来るから癒し心を感ずるだけのことなのかもしれない。
 ここにも都会と等しく夜は訪れる。そろそろ人間様は退散である。
 車が道を下り、町が眼下に広がるにつれ、では、帰るべきところは、この都会生活なのだろうかという疑問が湧いた。いいや違う。今の生活も、もしかしたらお邪魔しているだけなのではないか。ビル暮らし、蛇口をひねればお湯がすぐに出てくる便利さ、自分の日々の生活、日本経済の閉塞感、またいつか喧嘩しそうな世界情勢……全部ひっくるめて違うという気がした。本当に帰りたいのはここじゃない。「仮に」帰っているだけだ。
 私はどこに帰ればいいのだろう。どこに帰れば帰ったと思うのだろう?
 車はいつの間にか見慣れた町に入っていった。

 2007年04月08日
  桜の季節

 ネットの時代になって、桜前線をテレビで見なくても、ブログで最新開花情報が判るようになった。特に東京の開花の様子は、人口が多い分、大勢の人が逐一報告していて手にとるように判る。その東京の桜が散り切って、いよいよ北陸の桜が満開を迎えた。
  昨年の今頃、「先生、桜の木の下には死体が埋まっているのでしょう、誰の作品でしたっけ?」と生徒が司書さんに質問しているのが聞こえた。そこで、奥の部屋の私の出番である。
 「よく知っているね。それは坂口安吾という人の『桜の森の満開の下』という作品だよ。」
と教える。桜の下でドンチャンするのは、意外に最近の風習。夜桜の美しさの奥に感ずるような不気味な霊界との架け橋的なイメージ、死のイメージが桜にはついているのだよと蘊蓄を垂れる。こんなことを聞いてくる生徒はごく僅か。このまま、その興味を育てていってほしいものだ。文学少年・文学少女は、今や「絶滅危惧種」である。
 それにしても、ここ何年か、桜をタイトルにしたり、歌詞の中に出てくる若者の流行歌がいくつも出てきた。カラオケで「さくら」を頼んでも、誰々の唄っているやつという注釈がいる。
 でも、こんなに若者がさくらさくらと唄っているのに、他の花に寄せて書かれた若い人の歌詞をほとんど聞いたことがない。それだけ、桜が日本人に愛されている証拠ではあるが、逆に言えば、春の花は桜しか知らないのだろうかという天の邪鬼な疑問が湧く。四季の花々に触れることの少なくなった現代をそのまま反映している現象ではないか。
 そういえば、先日、あるブログで、花弁は染井吉野よりピンクで、枝が上にすっくと伸びている早咲きの桜ですと写真付きで紹介されていたのを見つけた。私は二年前に勉強した。それは桜ではなく杏の花である。
 今日、「浅の川園遊会」に行ってきた。昨年も行ったので、どうしようかと思ったが、好天の満開の桜の下、華やかな行事が繰り広げられていて、写真好きには絶好の被写体があちこち転がっている。行ってよかった。出不精の私には、その「写欲」だけで、数時間、なんとか歩くことができた。そんなモチベーションを感じながら、夢中でシャッターを押していた。

 2007年04月07日
   北杜夫『どくとるマンボウ回想記』(日本経済新聞出版社)を読む

 新刊平置きで北杜夫「どくとるマンボウ」の名を見るのは久しぶりだった。先に阿川さんとの対談を読んだこともあって購入した「布団で読書」の一冊。あの頃、『航海記』『青春記』などを愛読したものだ。『楡家の人々』『輝ける碧き空の下で』などの純文学作品もほとんど読破している。高校の時読んだ『幽霊』の抒情も忘れがたい。本当に大好きな作家だった。
 この本、小さい頃から現在までを振り返っている体裁だが、ファンならば既に知っている話題ばかり。それでも、『白きたおやかな峰』の現地ポーターとの再会話など、初めて知った話もあった。 
 文章は潤いに欠け、瑞々しさを失っているのが残念。現在の彼の心境では、もうエネルギッシュに創作を完成させていくということはかなうまい。諸先輩逝き、あの頃は楽しかったという追懐が彼の心を去来していて、マンボウ先生、本当に老いられた。
 現在は寝たきり老人に近いと書いてある。オーバーな表現がお得意なので、実際は判らない。懐かしくもあり、ちょっと哀しくもあった一冊となった。

 

 2007年04月05日
  耕治人『そうかもしれない』(晶文社)を読む
  耕治人の晩年の三部作「天井から降る哀しい音」「何のご縁で」「そうかもしれない」を収録した作品集。平成十九年二月発行。昨秋、公開された映画に合わせて、「耕治人全集」(晶文社)第四巻から抜いて、再度、単行本として発売したもの。新刊平台に載っていたのを見つけ、まだ読んでいなかったはずだと購入した。巻末の広告によると、全七巻のうち、第二巻・第四巻は欠本中とのこと。
 三つの作品という形にはなっているが、ほとんど話はつながっていて、妻の症状が、軽・中程度から重度となりホームに入所、自分自身は癌に冒され、入院闘病するまでを描く。
  作者は、一九八八年、最後の「そうかもしれない」が「群像」に掲載される直前に世を去った。生きていくのがやっとの中で、ここまで自分の置かれた状況を書け得たことは奇跡的である。通常、体力・気力ともになくなって、思いは溢れていても、作品という形にならないまま死んでいくものだ。
 介護法施行前の話なので、行政の関与なども今と違っているところもあるだろうし、自分が面倒を見なければならないという意識が強く、早めの相談を怠っていたり、ボケを早期発見し、早期治療する機会を失っているなど、今となっては、間違った判断だと感ずる部分もあるが、大事なのは当事者の思いなのであり、批判的な雑念を持たず、そのまま受け止めるのが一番いい読み方だ。則ち、これまで妻に頼った半生であったことの悔い、申し訳なさ、そして、感謝の念である。
 作者は白樺派の周縁にいた人。痴呆の妻に注ぐ温かな「見つめ」は、まさに人道主義的だが、方法的には、まったくの「私小説」というところが、中心にいた人達とは違った資質である。夫が妻を見つめる心の様を写し取った老老介護小説の佳品。話題になったのは二十年近く昔だが、まったく色褪せていない。
 2007年04月02日
   年度が始まる

 年度末、五千冊の廃棄を受け、本の配置がえに入っていた。棚から棚へ移していると、十年以上前に私が希望して入った本がすっと目に入る。自分の本でもないのに、なぜか、その本だけが周りから浮き出て見える。「見つけたよ、お前さん。ここに片づいていたのかい。」という気分である。
 昔、高校生に人気のあった詩集が何冊も置いてある。結構傷んでいる。ああ、これ、流行った流行った。当時、沢山の人が借りたのだろう。今は、誰からも見つけられず、ひっそりと余生をこの棚で過ごしているといった風情だった。
 そうした移動作業の真っ最中に、年度を跨ぐこととなった。頼みの司書さんは異動、小生も配置換えになり、慌ただしい日々が続いた。
 今日、多くもない身の回りの道具を持って小部屋を去った。
 ここ二年間、図書室にいて、本が間近にある至福を味わった。本の情報にちょっとは敏感になって、久しぶりに、昔の「本好き」だった自分を思い出した。「そうそう、自分と本とはこういう関係だった、こうでなくてはねえ。」という気持ちである。
 これまでの人生、雑務に取り紛れ、バタバタと過ごして、本と関係の薄い世界で生きてしまったような気がする。国語の先生が本読まなくなったらおしまい、そんなおしまいな生活を、ずっとやってきてしまった。この日記に、時々、本の感想を書いているが、「一年でたったこれだけ? こんなのしか読んでいないの?」と思われているのではないかと心配である。これでも、以前よりは読んでいるほうなのだから、尚更に。(これが読んだすべてはありませんと言い訳もちょっとはしておこう。)

 

 たのしみはそぞろ読みゆく書の中に我とひとしき人をみし時  橘曙覧

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 この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。

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