ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。
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文筆家以外の人も含めて作家と愛猫を紹介するビジュアル本。 大昔、恩師から、文学の論文も一作だけを中心にして論ずる「作品論」ばかりでなく、「作家となになに」とか「作品となになに」といった発想で切っていく視点を持つことも大切だと諭された。その後、先生ご自身、川端康成と花との関係を論じた御本を上梓されたので、なるほど、そういう感じかと納得したことがある。 文学以外の知識が要求される上、どちらかと言えば、これまで求心的な方向で調べ物をしてきた私は、ついにこうした方法を身につけることなく今日まできてしまった。 「作家」と「猫」というのはいい視点。自分はこういうかわいがり方をしているが、他の人はどうなのだろう、有名人と猫との付き合い方も知りたいと思っていた愛猫家も多いはずである。 ビジュアル本なので、各々の作家毎に猫と一緒に写っている写真が多数掲載されているが、そうした写真をこれだけの量見つけ出すだけでも大変な労力だ。著作権クリアーのことも考えると、編集者の苦労が偲ばれる。 読むと、実に「猫可愛がり」のオンパレード(例外は梅崎春生)。内田百閧フように、全身全霊で可愛がり、いなくなると涙滂沱として止まらずの人も多いようだ。 ただ、あくまでも作家との関わりなので、作品ではどういうふうに関わっていて、どんな意味づけができるのかといったことについては、深く触れられておらず、そこは少々物足りなかった。この種の愛猫家向けの本にそれを望むのは酷ということは承知しているが、網羅的に人物を並べるだけでなく、スポット的に誰かにウエイトを置き、その人に限っては作品分析も含めて突っ込んで紹介してあると、もっと読み応えがあったのではないかとも思えた。 他のコロナブックスと同様に、最後に「猫文学」ガイドが載っていて親切。ここから各々の作品に入っていくのがいい。 (追記 「これから出る本」(七月下旬号)をパラパラとめくっていたら、『作家と犬』(コロナブックス)というのが今度出るとのこと。うーん、「猫」売れたんですね。)
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長年働いたオーブントースター、油っぽいものも平気で使っていたので、見るからに小汚くなっていた。半年前、布巾がけをすると、腐食して下受けのブリキ板に穴があいていることに気がつき、そろそろ替え時だということになった。あとは、物持ちのよい中年夫婦、まだ使える物をポイと捨てることができるかという決心の問題。 どこでこのトースターを買ったのか、私は忘れていたが、愚妻はしっかり覚えていた。アパートに暮らし始めて六年目、存外、周辺の小路を知らないので、散歩かたがた買い物もしようということになり、休日の午前中、夫婦で出かけ、二キロほど先の大型ショッピングセンターで買って、段ボール箱を担いで帰ってきたのであった。 あの時、子供の頃、風紀がよくないから行ってはダメだよと親に言われていた一画を通った。目立たないスナック風の古ぼけた看板がところどころにあって、昔は男のお楽しみ場所だったという名残りが感じられた。今でも営業しているのかな、扉を押したら、お婆ちゃんが出てきそうだと思ったものだ。 そうした印象が強かったので、あの街角探検の時に買ったのよと言われ、その日の行動をすべてはっきりと思い出した。あれからもう十五年たつのか。ついこの前のことのようだ。でも、目の前の薄汚いトタンの塊が、厳然と、もうかなり古い話だと私に告げていた。 今回、お取り寄せで我が家にやってきた最新型のトースター(ナショナルNB-G120)は、マイコン制御で温度調節ができるタイプ。オマケでないオーブン機能がウリ。電子レンジの受け皿を出し入れしてオーブンとして使うということはしないと判ったので、こっちにその機能がついているものにした。 共稼ぎ、買い置き生活なので、冷凍パンが美味しく焼けるというのが、この機種を気に入った最大の理由だが、愚妻は、もう一つ、焼き芋一発全自動ボタンが、断然、気に入ったようだ。(女の人って、何で、ああも焼き芋が好きなんだ?) 古いトースターはあの日の記憶とともに記憶され、そして捨てられる。今度の機械はどんな記憶がまとわりつくのだろう。
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疲れた頭には「さくらももこ」が効くといういつもの行動で、青春期をテーマにした『ひとりずもう』(小学館)に続く自伝エッセイ第二弾『おんぶにだっこ』を読んだ。読んだのは少し前のこと。書き下ろし、去年十一月発行。 テーマは「幼児期」で、オッパイを飲んでいた頃から小学校初年頃までの思い出話である。近所のお婆さんの死の話、ビーズを盗んだ話、人のランドセルを傷つけた話、嫌われっ子を殴ってしまった話など、どちらかというとシリアスな内容が多い。 幼児期の出来事を実によく覚えている。その時どんな気持ちだったかが事細かに書かれてあって、そうした「子供の感覚」の再現に労力がかかっていると感じた。案の定、「その時の心境に戻りながらの執筆だったので、非常にヘビーな作業だった」と「あとがき」にあった。 子供だから、何でも初めての体験である。日々の生活の中で、生と死、善悪の判断、人間関係、美への感動に触れはじめる。つまり、この本は、それら「お初体験」思い出し記である。 作者は、今回、何を読者に提供しているのか判らなくなって悩んだという。迷いながらの執筆だったが、自分なりに理解したのは、日頃、大人が忘れている「人間の根元的部分」や「シンプルな自分の魂の骨格」を「思い出すてがかり」にしてもらおうということだったという(「あとがき」)。 読み進めると、誰もが途中でその意図に気づく。確かにそんな本に違いない。が、この「あとがき」はしゃべりすぎである。 もちろん、いつもの家族が出てきてドタバタし、笑いの部分もあるので、重たいばかりの話ではないが、どっちつかずのように感じる向きもあるかもしれない。私は、ほのぼのお笑い路線を期待して手にとったので、思ったのと違ったという感じが残った。 とやこうと、さくらももこに付き合っていたら、七月より「ちびまる子ちゃん」が新聞連載四コマ漫画になると発表された。ほどなく「北陸中日新聞」は社会面を大きく割いて、「まるちゃんをよろしくー作者・さくらももこさんに聞くー」十七日付)を載せ、PRカラーチラシを折り込むなど、今が先途と大宣伝し始めた。 「ちびまる子ちゃん」は、どんどん「サザエさん」みたいになっていくんだねえと、新聞を読みながら夫婦で会話をしたけど、もちろん、ふたつの家庭には大きな違いがある。それは半世紀の差における「父権の失墜」。波平さんに較べ、あのお父さんやおじいちゃんのちゃらんぽらんさったら……。あれはホントになんともはや……。 ともあれ、連載を楽しみにしていよう。
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村上春樹と和田誠のコラボレーション本を読みながら、大橋歩の個人誌「アルネ(Arne)」に村上春樹のお宅訪問記があったはず、確か、時々行くカレー屋さんに置いてあって、パラパラめくったと思い出した。バックナンバーが置いてあった書店に電話をかけ、在庫していることを確認して、駅前まで買いに行った。二〇〇四年暮れ発行の「第十号」に所収。 村上は、大げさでない発表ならと私生活公開をOKしたとのこと。自然に囲まれた大磯の山の上にお住まいで、高級オーディオをドンと置いてある部屋が仕事場所。レコードと本が大きな顔をしている。さもありなんといったお宅のご様子であった。アナログ派だがCDもあって、でも、それは恥ずかしいから抽斗に隠してあるというのが面白い。変なところにこだわっている。 写真をよく見ると、壁には例の和田の絵が数枚掛けてあり、ジェリー・マリガン(bs)の原画は彼が所有していることが判る。 村上ついでに、小西慶太『「村上春樹」を聴くームラカミワールドの旋律ー』(阪急コミュニケーションズ)という本も買う。彼の小説に出てくる音楽や演奏家、レコードに、作品毎にコメントをつけた、いわば音楽限定注釈本である。彼の小説には本当に多く音楽が出てくる。すべてをカバーしている読者はほとんどいないはず。出るべくして出たといった印象。 何か、彼なりの傾向があるはずだと思って読んでいったけれど、古いポピュラー、ジャズ、R&B、クラシックと広汎なジャンルに及び、到底 傾向を掴むというようなことにはならなかった。思った以上にクラシックに造詣が深いことと、彼が多感だった一九六〇年前後のポピュラーミュージックの選曲が多いことに気づいたくらい。ただただ、村上春樹は稀代の数寄者だということを再確認しただけで終わってしまった。 この本には、村上本に出てくる曲のギターソロ演奏を収録したCDがついている。それを聴きながら彼の小説を読んで下さいという企画なのだが、どこを眺め回しても演奏者名が書かれていない。これだけのテクニック、有名な演奏家だと思うのだけれど……。 というわけで、肝心の村上の小説をほとんど読んでいない割に、ミーハー的興味だけは少し満たされた最近の読書。
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今年、第三十二回木村伊兵衛賞を受賞した二十歳半ばの梅佳代さんは、旧柳田村の出身。ローカル放送局の密着ドキュメントがあったりして、石川県では、今、時の人である。そのウメカヨさんの写真展が金沢21世紀美術館のミニ展示室「デザインギャラリー」で開催されていたので、晴天の昨日、出かけた。 この日はワークショップがあって、ちょうど本人が簡単な写真説明をしている最中に展示室に入った。雰囲気はどこにでもいそうなちょっとユニークな芸術専攻のお嬢さんといった感じの子である。 写真は、日常のくすっと笑える瞬間を上手く掴んだ、典型的「シャッターチャンス命」の作品。今回は石川県写真に限定しているので、家族や自宅での写真が多い。被写体とのコミュニケーションがないと撮れない写真ばかりで、世に多いオジサン素人写真家は、そのあたりを一番苦手としており、さっと被写体に入っていける「若さ」にため息しきりである。 普通の人も、「アハハハ。」の瞬間に出会うことはある。それを逃さないということは、いつもカメラを持ち歩いていて、すっとコンタクトをとり、さっとカメラを出して撮っているのだろうと推測できたが、案の定、彼女は、首から二台のカメラをぶら下げていて、ウエストバックはお尻側にまわしてカメラの邪魔にならないようにしていた。そんな常時臨戦態勢スタイルだったのには、「やはり、そうだろうな。」といった感じがした。 小一時間後、美術館の中で、再度、彼女と遭遇したが、その時は、ワークショップ参加者とおぼしき若い女性にレンズを向けていた。マスコミ攻勢も激しく、もみくちゃにされている時期なのに、創作意欲は旺盛のようで、微笑ましく思った。 処女写真集『うめめ』より前に撮った原点的写真を中心に、第二弾『男子』(リトルモア)というのが、もうすぐ出るそうである。おそらく、そこまでは順風満帆だろう。写真展をしながら合間に撮っているような、「今」の写真が、第三弾となる。その時が本当の勝負である。 私自身は、買って間もない単焦点パンケーキレンズ(DA40mm)の「お試し写」として、美術館を被写体にシャッターを切った。換算六十一ミリなので、部分を切り取る感じになる。撮したい中心物を少し隅によせて余白を出す。それで、それらしい写真にはなる。でも、みんな同じ構図。抽象画風構図主義の限界をすぐに悟った。 ミュージアム・ショップで、女の子がディスプレィーの反対側の四角い枠から顎を引っかけていたのを、ウメカヨ風に「あ、いい感じ。今だ。」と思ったけれど、人混みの中で肩に提げた一眼レフを構え直すことに躊躇している間に、その子はさっさとどこかに行ってしまった。 今日の幻のベストショットはこれ。 おじさんは「うめめ」にはなれそうもない。
(女の子を撮影中のウメカヨさん)
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読んでいて、エリック・ドルフィー(cl)に対して「いささかの胡散臭さ(良くも悪くも)を含んだ芸風」と評したり、ハービー・ハンコック(p)に対して「自らが先になって、光源としての役割を果たす人ではな」く、マイルス時代以降は「手癖ばかりが気になる」などと、白黒はっきりさせるタイプでない人にしては、自身の評価をそれなりに出してきているところに、ジャズ好きのジャズ好きたる所以があるように感じた。だから、まるで自分が演奏家を選んで自由に書いて、最後にイラストを依頼したかのような自然さがある。 和田は、自身の音楽の趣味とイラストレーターとして絵になるという両方を満足させる人を選んだと「あとがき」(『2』)で語っている。正直、あまり似ていないのもあるにはあるが、うまく特徴を掴んでいるなと感心するもののほうが多い。 中で特に傑作だと思ったのは、キャノンボール・アダレイ(as)。先日買ったばかりのミルト・ジャクソン(vib)との共演盤『シングス・アー・ゲティング・ベター』(リバーサイド)のジャケット写真が元ネタである。頸がなくてそのまま肩に続いているデフォルメが楽しい。ふくぶくとしている感じがよく出ている。こうしたネタ詮索もお楽しみの一つかもしれない。 絵はカラー刷りだが普通紙印刷なのでちょっと白っぽいのが残念だった。そこで、お気に入りのジャズマンをスキャナーで取り込んで、濃い目にレタッチし、ハガキ光沢紙に小さく印刷して、ステレオの上の写真スタンドに飾った。(個人的に楽しむかぎりは違法ではないはず……。) 今、スタン・ゲッツ(ts)の顔を見ながら、『スイート・レイン』(ヴァーヴ)を聴いている。 村上は、そのジャズマンの音楽を流しながら絵を眺め、どんな文章にしようか考えたという。私も、今、同じようになことをやっているけれど、さてはて、文章の出来は如何。
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和田誠が描いたジャズマンの絵に、村上春樹が文をつけ、村上所蔵のレコードを一枚紹介するマニア向けのお楽しみ本、正編(一九九七年)、続編(二〇〇一年)。 まず和田誠の「JAZZ」と題する個展があった。だから、演奏家のチョイスは和田の管轄。マイルスらモダンジャズの巨人ももちろん多く入っているが、キャブ・キャロウェイやビックス・バインダーベック、ファッツ・ワーラーあたりが入っているのが和田らしい。 彼は映画からジャズに入ったので、まずスイングを押さえ、それから遡って古いところを聞き、時代はビバップの幕開きだったので新しいものも聞くという形でジャズを聴いていったという(「まえがき」)。 私は、若い頃、和田の『いつか聴いた歌』『お楽しみはこれからだ』などを愛読した。あれで、スタンダードと映画との関係を勉強した。和田はそうした本当に古いところからしっかり判っている方である。 対して、村上もモダン派オンリーの人ではない。遡って古いところをかなり聴き込んでいる人で、キャブなど今のジャズファンではまず聴いていないようなあたりでも平然と付き合っていける。このあたりは完全にお二人の造詣の深さに脱帽といったところである。 村上の文章が、凡百の「アーチスト紹介とこの一枚」にならにようにということをかなり意識して書かれているのは明白で、ちょっと肩肘張った熟語的な言い回しを使ったり、比喩を使ったりと、文学的表現(?)になるよう心掛けたフシがある。一部の読者には、それがさすがだという評価になっているようだが、私にはちょっと大げさなような気がした。ただ、続編はそのあたりの力が抜けて、思いのまま書いた感じになっている。(つづく)
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親の代からスバルに乗っていた愚妻の影響で、私も富士重工業の車に乗っている。 今年十三年目になる我が家のインプレッサ(HX-S)、先日、ガソリンスタンドでタイヤの交換を勧められた。距離乗っているわけではないので、エンジン自体は快調なのだが、経年劣化でボディに錆は浮き、修理代も徐々にかさみつつある。車検も今秋に迫っている。タイヤを買って当分乗りつづけるか、諦めるか、見極めどころである。 そんな折り、新型が出た。これで愛車は旧々型になった。どうするにしろ、一度見に行こうと、先の休日、スバルのショールームに行って来た。 ここに来るのは久しぶりである。前回は今もう一台の我が家の愛車として活躍中の軽自動車を買った時、その前はこの車に決めた時、その前は愚妻の前車リッターカー購入時。ぽつんぽつんとここにきて早や四半世紀になる。中の様子は全然変わっていない。置かれた車が毎回新しいだけ。 今年大学出たての営業マンが対応してくれ、ベーシックモデルの1.5リットルタイプ(15S)に試乗することとなった。巡るルートを聞くと、これも以前とまったく変わらず、大通り一周コース。肝心の新車の感想も、良くも悪くも同じメーカーの同じ車種だということ。色々よくなっているところはあるけれど、根本のフィーリングは今の車と同じなのであった。 建物・ルート・フィーリング、みんな一緒。ただ、行く毎に相手をしてくれる人だけが違っている。 私は車を大事に乗る。もし今回買ったとすると、事故さえなければ、もう一回車選びをすれば、それで人生は終わりである。また、十数年後、ここに来て、違うセールスマンさんとお話をし、おそらくもっと小さい車を選ぶ。その車がくたびれた頃、もう運転は危ないと判断し、車人生からリタイアする。そろそろ老後を見据えた車選びをしなくてはというのは、同い年の同僚と車談義をした時に出てきた言葉。この歳になると皆考えることは一緒のようである。 昔を懐かしむ際、あそこに行ったのはあの車の時代だったねという思い出し方をする時がある。人生の区分として、車は結構大事な目印なのかもしれない。たかだか鉄の塊だが、人と一緒に動く。車とは不思議なものだ。 (写真はカタログより切り抜き)
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今年五年目の家のパソコン。購入時には結構高性能なCPUを選び、途中でメモリも増設したので、画像を保存するハードディスクの容量不足の問題はあったが、それ以外は大きな不満もなく使ってきた。 ところが、今年になって急に動作が重くなった。操作中、フリーズしたかように画面がとまる。ウイルス対策ソフトの今年度版をインストールしたあたりから顕著になってきたので、どうやら、そのソフトがなんやかやと調べてくれているらしい。最近モデルの性能を基本に置いてセキュリティ強化を図っているのだろう。調べると、ソフト自体の大きさも結構大きなものになってきている。新型OSの「ウインドウズ・ビスタ」も、かなりのハイパワーが必要らしい。 そこで、いらぬソフトの削除、デフラグや履歴の削除など知っているかぎりの軽量策を講じたが、残念ながら焼け石に水であった。 コンピューターの性能が落ちたのではない。本体自体は前と何ら変わっていないのだが、時を経て、どんどん周りのほうが本来持つ能力を超えて過度の要求をしてくる。それが「今」の当然のレベルなのだと言わんばかりに。 なんだか、中年オヤジの置かれた状況のようではないか。
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軟弱路線のCTIレーベルを一番持っているというJAZZ脇道派が、今頃になって王道大名盤をまとめて聴いているの図。当初は、JAZZ好きを標榜している関係上、安いので少しは揃えておきますかといった感覚で買っていたのだが、途中からだんだん面白くなってきた。 『サキソフォン・コロッサス』(一九五六年)も、これまで有名なカリプソのテーマ部ばかり耳に馴染んでいたが、じっくりオーディオの前で聴きなおすと、ロリンズ(ts)のアドリブが恐ろしくスムーズで新鮮なのに驚く。テナーをまるでアルトのように軽々と吹き切っている。主旋律をうまく利用しながらフェイクしていくアドリブの構築性にも感心しきり。 ウエス・モンゴメリー(g)『フルハウス』(一九六二年)も、最初のタイトル曲が流れた瞬間、ああ、これか、何度も聴いた演奏だという感想が先行したが、ステレオ音量で聴くメンバー全員の火の出るようなアドリブの連続に、これはバップの最も良質な部分が具現されている、なるほど名盤のはずだと一気に納得した。当時、みんな、この冒頭曲で完全にノックアウトされたはずである。 こんな風に聞き込んでいくと、大名盤は、どこか、その時代、新譜として聴いた衆人を驚かさずにはおかない部分を必ず持っているということに気づく。当たり前のことだが、それを今更ながら実感した。 ただ、買うもの買うもの古い音源ばかりで、演奏者のほとんどが故人である。三十年以上前、初心者だった時でさえ既に大名盤として世に知られていたものばかりだから無理もないが、そんな黴臭いモノラルやステレオ初期の音を長々と聴いていると、愚妻から、あんた、最近、新しいのを買ったことあるの? と突っ込まれる仕儀に立ち至った。 「そんなことはない、この前、マリーン(Vo)の新譜『ジャズン・アウト』も買ったよ。」 と小声で反論したが、その冒頭曲が「シング・シング・シング」では、説得力皆無というものである。 モノラル盤をとくとくして聴いている姿は、端から見ると、もしかしたら、お爺ちゃんがラッパ型蓄音機で常磐津のSPかけているとの同じに見えるのだろうか。だとしたら、ちょっと気分的に萎えるのだが……。(喩えが古すぎ?) 絶対、そうじゃないですよね、皆さん。モニター画面の前で、大丈夫ですよと首をタテに振って下さい。うんうん。
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年寄りをターゲットに人気のNHKラジオの深夜番組「ラジオ深夜便」。手術の翌日の夜、痛みと体を動かせないのが辛くて寝られず、ラジオをつけたら、深夜の音楽コーナーで、ジャズの巨人ジョン・コルトレーン(ts)の特集をやっていて、まんじりともせず聞いたことを覚えている。あの時の一時間は、なぜか、初めての手術体験の記憶と共に、妙にはっきり記憶にある。どうせ春日八郎とか藤山一郎あたりをやっているのだろうと思っていたので、軽く驚いたが、注意して、その後、毎日、午後十一時過ぎにアナウンスされるメニューを聞いてみると、ジミ・ヘンドリックス(g)やらサンタナ(g)などの名を挙げている。あのジミの、反体制的で破壊的なロックが、懐かしのメロディ扱いになっていることに、これはかなり衝撃を受けたが、よく考えてみると、もう四十年昔の音楽、無理からぬことなのであった。 時代は変わる。 十年ほど前、NHKの懐メロ番組「思い出のメロディ」に、西条秀樹が出てきた時にもある種の感慨があったが、この伝でいくと、もうしばらくたつと、西条秀樹も春日八郎みたいに見えてくるようになるのだろうか。 ここ数年、ボサノバを聴いている。ボサノバの全盛は六十年代。だから、買ってくるCDもその頃のものばかり。モダンジャズも、六十年代後半のフリージャズは御免こうむっているので、五十年代後半から六十年代中盤のものが多い。 例えば、ここのところ買ったのは、マイルス・デイビス(tp)のマラソン・セッション『スティーミン』『クッキン』(一九五六年)、キャノンボール・アダレイ(as)『シングス・アー・ゲティング・ベター』(一九五八年)など。今更ながらの名盤ばかりだが、実は、今春、ジャズのメジャーレーベルの多くを抱えるユニバーサルミュージックが期間限定の超廉価シリーズ(一一〇〇円)を出したので、それに乗せられて、大量「お買い上げ」中なのであった。(つづく)
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出来るだけ旧に復した生活をしようとすると、必然的に慌ただしくなってきた。前は就業時間が終わるや帰宅して夜のジムに備えていたが、今はそれなりに仕事場に残っている。宴会や夜の行事にも参加するようになり、車で移動しながら携帯食を囓るというようなことも増えてきた。 先週、またお通夜があって七尾まで出かけた。続く時には続く。次の夜の観劇は仕事が長引き大遅刻。次の夜は新聞社主催のイベントで古美術鑑定士中島誠之助氏の話を聴く。翌日からは総体県予選で武道館に日参した。 好きで入れた行事もあるので何とも言えないのだが、平日の時間的余裕がなくなった。ジムもサボりがちになり、その結果、また太ってきた。 そこで、万歩計を買った。わざわざ腰に装着しなくてもカウントされる優れもの。一見、今流行のデジタルオーディオ機器よく似ていて、これなら爺ちゃん臭くない。 以前、「てくてくエンジェル」なる万歩計で愉しんだ時期がある。毎日歩くと可愛いキャラクターが育ち、サボると家出する。私は何度何度も家出されて、リセットボタンを押し続けた(笑)。ファニーな恰好をしていて大柄、クリップ部がプラスチックだったので、腰の力ですぐに折れてダメになった。それが嫌で、今回は売り場で一番高いものにした。 新しいのは実用本位。愚妻から「どう、使ってみて楽しい?」と聞かれたが、全然である。一週間も歩けば、だいたいの傾向が判ってしまい、見事に飽きてくる。優秀な基本性能はそのままに、楽しい意欲づけ機能が充実したものがいいのだが、なかなかドンピシャの製品はない。物のあり余る時代ではあるが、隙間はまだまだ沢山ありそうだ。
(後で調べると、「てくてくエンジェル」は、ニンテンドーのゲーム機と連動した進化型となって現在も発売中とのこと。) 今の生活、少しは元気も戻ってきたが、間違いなく「不健康」も付随して戻ってきているようで、健康で且つ無理のない生活というラインを維持するのはなかなか難しい。 大橋歩さんのような「生活を豊かに楽しむ」なんて遠い先である。
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この前読んだ『村上ラヂオ』の挿絵を担当していたというつながりで彼女の本を選んだ。 月刊女性誌に連載した「イラストと文」の中から、食にまつわるものを選んで編集したもの。レシピ、キッチンについての話、食にまつわる道具や小物、美味しいお店の紹介などが章立てされている。最終章の旅行記のタイトルが「北欧でみつけた暮らしの楽しみ」となっているように、彼女が発信しているのは、ふだんの生活の中で見つける「暮らしの愉しみ」である。夜遅く帰り朝早く出かける有職婦人にとっては、ここに紹介されている食の時間を大事にするような生活は望むべくもない。彼女の描く独特のイラストと文を読むと、ああ、日々の生活を豊かに楽しいものにしていかねばと反省させられるし、読むだけでカタルシスを得ることができる。だから、書いて(描いて)あることが、大定番のきんぴらのレシピだったり、今更の超有名店だったりしても、なんだが新鮮にみえてしまうのである。 料理本でもなく、リビング本でもなく、グルメ本でもなく、生活小物紹介本でもない。大橋さんの絵の世界を一つのしっかりした結束として、大橋式生活スタイルを売っている本であると思った。 彼女、その昔「平凡パンチ」の表紙絵で有名になった人だという。ネットで調べたところ、確かに、グラビア女性ではなくイラストが表紙だった時期があったことを思い出した。愚妻が言うように、今とは絵の雰囲気がかなり違っている。 彼女、我々夫婦より世代が一つ上の、それなりのお歳の方(一九四〇年生まれ)なので、どこかしっかりとオーソドックスな反面、さすが美術の方だけあって、新しい感覚をお持ちの好奇心に溢れた方でもある。そのあたりが中年のリラックス読書にぴったりであった。 自分の生活を報告している本なので、何冊も彼女の本を読んでいる愚妻にとっては、知っている話も混じり、流して読んでいたようだが、女性ターゲットのイラスト付きライフスタイル本を頭から最後までしっかりと読んだことがなかった私は、今回、ちょっと新鮮な読書であった。
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著者の瀬戸内氏、中年の頃までは愛欲の世界を描く作家という印象だった。それが、寂聴となられてイメージが変わった。 二十年近く昔、住まいなさっている京都嵯峨野の寂庵前を通ったことがある。当初、ご自由にお声がけ下さい、僧侶としてご相談のお相手致しますということだったが、人気が出て今は中止しているという話だった。その志の続きが、あのDVDが出るほど人気の辻説法になったのだろう。今や彼女も八十五歳の御高齢だが、女性の指南役として絶大な人気を誇る。なんだか晩年の宇野千代みたいな存在になってきた感じだが、清濁併せ呑み、愛欲の世界を熟知した上で、今はご聖職のお立場、且つ御長寿で精力的。今日の新聞にも世阿弥の晩年を描いた新作『秘花』(新潮社)の広告が出ている。女性は女人生の大先達として、親しみと尊敬を抱くのだろう。いい晩年を過ごされていると思う。 話は飛ぶ。先日、阿川弘之氏のお姿が新聞に大きく出ていた。何事かと思って読んでみると、女性の申告で犯人となる痴漢犯は濡れ衣も多く問題だ、早く列車に男性専用車両を作れという記事だった。インタビューながら、俗なことにも全力で怒っているいつもの勇猛果敢ぶりが伝わってきて微笑ましかった。好きな作家でも、単行本で随筆を読んでいる限り、それは数年前の感慨にすぎない。今、この瞬間、何をなさっているのかはよく判らない。ひょんな話題で氏のご健在を知る。 阿川さんもよい晩年を過ごされている、お元気で何よりである。
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お願い
この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。
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