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ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2007年12月01日
  オーディオ趣味復活
 レコードプレーヤーを買い直し、オーディオ趣味が復活したことが今年のトピックだった。休日は懐かしいLPを回す日が多かった。近年、アナログを聴いていなかったので、音質は期待していなかったが、存外、音が良いのに驚いた。時々入るスクラッチノイズさえ気にしなければ、CDの金属的な音より余程耳触りがいい。そこで、もっといい音で聴くには工夫が必要、大金をかけずにオーディオの改善を試みようと考えた。
 まずは情報収集。久しぶりにオーディオ雑誌を繙いた。昔からある「ステレオ」誌。そのものズバリ「アナログ」という雑誌も出ていることを知る。読むと、昔と変わらないなと思う部分と、へえ、今はこうなんだと思う部分がある。
 夏には秋葉原に赴き、大型店のハイエンドオーディオ・コーナーを覗いた。もちろん、高級機は買わず、ちまちまとレコードスプレーとクリーナーを買っただけだったが……。
 そのスプレー、昔に較べて性能が上がっているようで、しっかり埃が取れる。クリーナーも、受け皿のエッジに簡単な埃取り装置がついていて便利。これで、片面終わったら針は埃だらけということがなくなった。
 しかし、嫌ほど聴いたのに思ったよりノイズがないと思う盤がある一方、ほとんど聴いていないにもかかわらず、全編、バチバチいうものある。一時期、いい加減になっていたので、傷んだ針を通してしまったようだ。
 その後、レコードの重石、スタビライザーを購入した。手にとっての第一印象は思ったより重いこと。載せるとレコードの中央レーベル部分が微妙に沈む。これで盤自体の振動を押さえこもうという発想で、実によく判る振動対策である。使うと音は低音が締まった感じになった。変化など聴き分けられないだろうと思っていたので、判ったこと自体に驚いた。間違いなくアナログには振動対策が必要なようだ。
  次に、音量をあげて聴くようになったので、階下の住人の迷惑にならないようスピーカーを持ち上げることにした。調べると、既製品の専用インシュレーターは高くて、鋳鉄の小さな塊が何万円もする。そこで、ホームセンターに行って角材を切ってもらい、防振ゴムを挟んだ。二千円程度のお手軽対策である。床の振動はこれで減ったように思う。
 ただ、筐体がゴムの上に載ったので、音はソフト傾向に。少し低音がぼんやりしたような気がした。昔、挟み込むものはブチルゴムなどソフト系素材が主流だったが、今は音の締まりを求めて硬いものを使うことが多いようだ。考え方が変わってきたのだろう。どうやら、ご近所対策とオーディオ対策は両立しないようである。
 「音楽」を楽しみながら、「音」も工夫で楽しむ。音楽を流すという日常的な行為が、ちょっと新鮮に映っている今年。
 2007年11月23日
  今年も野々市町でジャズを聴く

  先週の十八日、「ビッグ・アップル・イン・野々市2007」に行ってきた。近年は恒例行事のように聴きに来ていて、一年のたつ早さを痛感する。ついこの前、クレイトン兄弟のバンドを聴いて、この日誌に感想を書き留めたと思っていたのに……。
 ロビーでのミニライブ、コンサート冒頭に金沢大学のビッグバンドで一曲演奏があるのも去年と同じ。日本勢のゲストも井上智(g)・石崎忍(as)といつものメンバーである。ゲストをフューチャーする形で、第一部、ムーンライト・ジャズオーケストラの演奏が続く。
 先だって、同じ地元のアマチュア・ビッグバンド「ピラミッド」を聴いたばかりだったので、両者のバンドカラーの違いが判って面白かった。ムーンライト・オーケストラは、場慣れていて各人のソロに優れていたが、アンサンブルの力強さではピラミッドに軍配が上がった。今回、少々、アンサンブルが雑で、長いフレーズでトランペットの息が続かなかった場面があった。私が学生さんの頃、「犀川祭り」の会場で、まだ若かった彼らの演奏を聴いて、その巧さに驚いてから、指折り数えると、既に四半世紀たつ。今後、老齢化に抗して、サウンドの鮮度を保つことが課題となるよう思った。
 第二部、今年のプロのセッションは、ベニー・グリーン(p)がリーダー。昨年はサイドメンとして来ていたし、その前は「富士通コンコード」で来沢したのを聴いているので、ここのところ毎年のように彼のピアノを聴いていることになる。
 フロントには、フランク・フォスターのビッグバンドにいるという若手黒人奏者二人、ケニヤッタ・ビーズリー(tp)・キース・ロフティス(ts)を置き、全体としては、アート・ブレーキー&ジャズメッセンジャーズばりの判りやすいハードバップ調の曲が多かった。グリーンは早いパーセージを力強く流麗に奏で、さすがの実力を見せつけていたが、欲を言えば、以前、ラッセル・マローン(g)とのデュオでみせたような繊細なバラード演奏もたっぷり聴きたかったような気もする。
 それにしても、ベニー以外はそうも有名な奏者ではないが、皆、上手い。ペットはリー・モーガンばりのよく鳴る明朗なタイプ、サックスは早いフィンガリングが得意ではないようだったが、真面目で可能性を秘めたタイプ、ドラム(ジョー・ストラッサー)は、ビッグバンドでもなんでもOKのオールマイティな堅実派、そして、ベース(ウゴナ・オケグオ)は、手数が多く響きのいいバップ・コンセプトにぴったりなタイプであった。
 特に注目はこのベース奏者で、しっかりとボトムを支えて極上のスイング感を提供していた。大熱演であった。
 午後二時のアマチュアから始まって夕六時すぎまで、四時間以上もジャスの生音(なまおと)にどっぷり漬かって、「堪能した」という表現がぴったりの音楽三昧な一日だった。

                  

 

 

 

 

 

 

 

 

(ロビーに軽食を食べに来てファンに囲まれるベニーと親密な仲(?)の同行女性ボーカリスト)

 2007年11月18日
   メリハリなく、そして唖然

 先日、平日休みがあった。折しも愚妻の誕生日間近ということで、ホテルで食事ということになった。といっても、ディナーではなくランチ。勤め人はイレギュラー勤務がなければ、世の奥様御用達の「平日ランチ」にありつけない。
 最上階のレストラン、金沢の街が一望できる窓際の席。確かに女性客が圧倒的に多い。航空会社系ホテルだからだろう、団体旅行の外人さんがどこの国か判らない言葉を話している。
 こんなところに夫婦揃ってくるのは久しぶりだねという話をしながら、メニューを眺めていると、愚妻が急に「噂には聞いていたけど……。」と言って、自分のメニューを差し出してきた。見ると、私の手元にあるのと同じだが、一カ所だけ決定的に違う。彼女のには値段が書いてないのである。
 なるほど。なんだか、今のご時世では「男女不平等」の悪慣習のような気もするが、ここは男の見栄の張り場所という位置づけなのだろう。
 うちの場合、財布を握っているのは愚妻だから、全然、意味のない心遣いである。実際、レジに向かったのも彼女。会計が終わるのをウエイティング・ゾファで待ちながら、あれ、ここは、一応、形ばかりでも私が払っておけばよかったかもしれないとちょっぴり反省した。会計がゴチャゴチャの夫婦もんは、どうもそのあたりのメリハリがない。
 誕生日プレゼントも同様。その場で手渡すのが常識だが、直前に決めたため時間がなく、食事の後に、量販文具店に赴いて買うという後先が逆となった。どうせ帰宅したらすぐに封を開ける、包装紙に包まなくてもいいと、これもいつものようにレジ袋に入れて貰ったため、「贈る」という行為が省略されてしまった。これではいつもの買い物と変わらない。これもメリハリが……。
 ホテルの食事の最後、デザートは、ワゴンが横付けされ、お好きなのをお好きなだけどうぞというシステムだった。焼き菓子、ムース、果物などがカラフルに並ぶ。どれにしようかと悩んで数品選んだ。ふと、「目移りしますね。これじゃあ、全部欲しいなんていう困ったお客さんがいるのではないですか?」と給仕さんに水を向けると、「女性のお客さんのほとんどは、そう御注文されますよ。」という答え。取り分けの時、薄目にスライスするのだろうけど、大変な量、半端なカロリーではない。溢れかえらんばかりのスイーツの皿を想像して、男の私はただただ絶句するだけであった。これまでのお上品に皿の中央に小さく盛られた肉・魚料理はなんだったんだろう。
 女の人って……。

 

 2007年11月17日
  (つづき)
 おまけで、ちょっと子犬の遠吠え(?)みたいな噛みつきを……。
 マイケル・ジャクソンを売り出し、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いを続けていたクインシー・ジョーンズをプロデューサーに迎えた晩年作『LA・イズ・マイ・レディ』(キューウエスト)。三具氏の評価は「今後風雪に耐えてシナトラの代表たり得るか疑問」とかなり低い。しかし、ジョージ・ベンソン(g)やブレッカーブラザーズ(tp・ts)など有名音楽家をバックにつけたゴージャス盤である。あのフュージョン混じりのコンテンポラリーな音作りによって、昔ながらのビッグバンドアレンジで歌っている古い人というイメージを払拭できた意味は大きいと思う。当時の若いフュージョン・ファンは、あれで、シナトラは今も現役の大物歌手だなあという実感を持った。彼の人生の時間軸で並べると、この作品、ちょっと分が悪いのかもしれないが、時代性へのリンクという観点からは重要作である。この本の著者は、お詳しいゆえに、そこのところが逆に重要事と思えなかったのではないか。私自身、よくトレイに載る音盤なので、ちょっと、そこのところを擁護しておきたい。
 2007年11月15日
   三具保夫『シナトラ』(駒草出版)を読む
 フランク・シナトラ(vo)の声のトーンが好きで、独身時代、キャピトルのベストLP盤を持っていた。その後、新婚旅行の帰り、現地紙幣消化の目的で、免税店に並んでいた数少ないジャズCDの中から彼のライブ盤を買って帰った。まだ新居の荷を解いていなかったので、手元にあるのはこれ一枚状態。当座、ラジカセでこればかり聞いていた覚えがある。声がきれいに伸びていて絶好調である。タイトルは『ライブ・アット・ザ・サンズ』(リプリーズ)。後に、多くの人が傑作と評する名盤であることを知る。
 現在の私は、コロンビア時代の音盤はなく、キャピトル時代は三枚組のベストCDで済ませ、リプリーズ時代をオリジナルCDでゆるゆると買い足しているというスタンス。全部で十数枚、DVDは一枚持っている典型的な「半可通」である。
 この本の著者は、シナトラ・ソサエティ・オブ・ジャパンの主宰者。日本で一番彼に詳しい人で、シナトラのライナーノートといえば大抵この人である。書店の新刊で見つけ、まず間違いない内容だろうと安心して買った。
 生きて活躍していた時代を知っているし、CDを持っているので、親しみの湧くリプリーズ時代から読み始め、最後まで読んでから冒頭に戻るという変則的な読み方をした。だから、後半は三具がどう書いているのかに興味があったし、前半は、知らなかったことを知ったという気持ちである。
 帯に「光りと影に迫る、真実のストーリー」とあった。だから、もっと生々しい実像に迫ったものかと思ったが、違った。一言で言えば、ライナーノートの一生拡大版といった内容であった。例えば、引退の時など大きな動きをした時でも、シナトラの心の分析などにほとんど筆を費やしていない。その代わり、オリジナルレコードの評価はしっかり下しているし、いつの映像はどのDVDに入っているかなども詳しく言及している。極東の異国で、作品中心で触れてきた、いわば「外人さん」としての限界もあるし、日本の公認ファンクラブ代表という立場柄、ジャーナリステックに取材攻勢をかけるという訳にもいかなかったのだろう。プロの音楽ライターでもなし、仕方がないところかもしれない。
 ベスト盤くらいは持っている。今度、オリジナル盤で揃えたいのだけれど、詳しいガイドがあったらいいのにというような要求には非常にマッチする。ということで、特に前半などはまったく私レベルで、CD購入の参考になった。
 でも、正直、ちょっと食い足りない。親しい関係者に取材した「現地人」の本格的評伝の出現に期待したい。(つづく)
 2007年11月11日
   通過ライン
  この週末は新人大会。弓道は10位以内を予選通過とする。今年、男女とも予選敗退で選手ともども悔しい思いをした。
 通過ラインは、40射中、男子14中・女子15中。女子が男子を上回った。普通、体格に勝る男子のほうが記録がよいはずなので、これは例外に属する。見知った役員に聞いても、こんなことは覚えがないという。
 そもそも、通過ライン自体が近年低くなっている。相手のいない数字勝負のスポーツなので、そのあたりははっきりしている。能登など過疎化によって部員数の減少著しいこと、大人が教育を弄りすぎた結果、平生の活動時間が充分に取れなくなったこと、教員の多忙、あれやれこれやれで生徒自身も忙しくなっていることなど、理由はいくつも出てくる。だが、それでも強いところは強い。条件はほとんど同じ。言い訳はきかない。好成績の顧問の方にお聞きしたところ、「量より質の転換」を強調されていた。
 好調が続くと、上位大会のすごさを実感した選手が部を引っ張り、また、それに刺激を受けて意欲的な選手が次々に育ってくる。逆に、ベクトルがいったん下を向くと、我々の実力はそんなものという気分が蔓延してだらだらとし、いつまでたっても上に向かなくなる。正顧問とその悪循環に陥るのが恐いねという会話を交わした。
 いつの時代も子供たちは部活動なくて何の学生生活かと思っている。多くの大人にとっても懐かしい思い出。この仕事、その、思い出づくりのサポートという面も大きい。
 部員諸君、いい思い出になるためにも、まず、クセを直そう。弓手(ゆんで)をしっかり押し切ってぶらさないように。矢をもっと引きつけて口割りから発射する感覚を意識して……。
 2007年11月07日
  オリンピック選手の講演を聴く

 「ニッポン、頑張れ!」と応援した、シンクロナイズド・スイミングのメダリスト、武田美保氏(三十一歳)の講演を聴いた。
 競技を始めた子供時代から話を起こし、五輪に狙いを定めて頑張った学生時代、選手に選ばれ強化練習に明け暮れた日々、三回(アトランタ・シドニー・アテネ)のオリンピック出場など、その折々の気持ちを、正直に且つ力強く話された。途中で、その時その時に得た教訓が、小まとめのように語られるので、実にメリハリが効いている。曰く、

 

1、大きな目標と日々の小さな目標の組み合わせが重要。
2、人間関係は、くよくよ悩むのではなく、突き抜けて結果を出せば まわりの方が自然に認めてくれる。そうすると、今度は自分の至らない面も見えてくるものだ。
3、指導者の厳しい言葉は、人格を貶しているのではなく、そこに意図がある。その意図を考えると見えてくるものある。
4、やらせられていると感じている時は不安だらけでいい結果が出せない。日々苦手を克服しつつあると感じる充実感の中で本番を迎えると、晴れ晴れと演技が出来、成功につながる。他。

 

  話を聞いていると、どのスポーツにも当てはまることばかりで、似非運動部顧問として、何度、そうそうと頷いたことか。
 また、栄光の過去を振り返るだけでなく、選手生活を引退した現在の自分の課題と希望までも明確に話して、常に前向き上昇的であった。そこも素晴らしい。
  息抜きなしに現在まで直球一直線だったが、まったく飽きさせない。その道の達人が感じた実感なので、説得力があり、聴衆のレベル・ニーズもよく見えていた話だった。
 こちらも「お話」が商売なので、いつも話術まで含めて辛く通信簿をつけてしまいがちになる。しかし、今回は文句なしであった。そこにいた全員、いいお話を聴けたと思ったはずである。

 2007年11月04日
  ラジオ体操の今
 ずっと書きそこねていた八月の小さな出来事。
 今夏、一度だけ近くの公園でやっているラジオ体操に出た。小さくラジオを鳴らしているのに驚いた。道理で、家まで聞こえてこないはずである。後で同僚に聞いたら、騒音の苦情がくるそうで、市内は今やどこでもこんな感じなのだという。これでは、朝の威勢がつかない。
 よっこらしょと体を曲げながら見ると、子供がかなりの数、サボっている。手抜きどころか、一切体操していない子も。それなのに、終わりもせぬうちに、ワッとハンコの列を作る。それを大人は誰も怒らない。
 初めてやってきたオジサンが急に怒鳴りはじめるのも何だと思い、黙っていたのだけれど、なんとも珍妙な光景だった。
 そんな態度でも世の中いいのだと思い込んだ子供たちが、いずれ大人になる。
 これでいいのかなあ、ニッポン。
 2007年11月01日
  新井満『千の風になって』(講談社)を読む
 昨年の紅白歌合戦で歌われて多くの人の知るところとなり、大ヒットとなった「千の風になって」。世代間の細分化現象の激しい流行歌界で、年寄りでも耳に馴染む判りやすい曲として、今年最大の話題作となった。クラシックの歌唱法で歌われる壮大でゆったりとした曲調が、癒しの気分をもたらす。いいメロディだとは思っていたが、歌詞のほうはしっかり聴いていなかった。先日、ラジオで流れていたのを通して聴いて、あれあれ、少し違和感のある詞だぞと気がついた。
 そこで、遅まきながらこの話題本を読んでみた。元の英詩と新井氏の作った歌詞、その経緯を述べた短い文章からなる写真詩集風の体裁。原詩は作者未詳だが、何度も世界の注目を浴びるところで紹介され、それなりに有名らしい。
  内容は簡単、いくつか単語を辞書でひくだけで判る。較べてみると、新井氏の歌詞は、本人も言うように「意訳」で、情報量は半分ぐらいしかないが、原詩の雰囲気をうまく伝えている。英語の歌の情報をすべて訳して日本語の曲に載せるのは、そもそも至難の業で、そういった意味で、うまく取捨選択されていると思う。特に、「I am in a thousand winds that blow」の「blow」を「吹く」ではなく「吹きわたる」としたところなど、いい感じである。
 ただ、私が気になったのは、「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。死んでなんかいません(Do not stand at my grave and cry I am not there I do not die)」という箇所。魂は生きて大空を飛翔しているようなので、仏教でもキリスト教でもない、非常にプリミティブな死生観であることが判る。新井氏は「いのちの大きな循環」「いのちは永遠に不滅」をいう詩で、「死と再生の詩」なのだと解釈しているようだ。
 確かに、この歌は、身近な人の死にうちひしがれている、生きてある「生」の側の人間には、安らぎと癒しをもたらす。死者がそう言ってくれると、生きとし生ける我々の心の負担は軽くなるというものである。
 しかし、厳然たる事実としての「死」を、「死んでなんかいません」と否定したところから出発する死生観はどうなのだろうと思う。おそらく、死を自己のものと受け止め、日々の営みを輝かそうとしている本当の当事者である人々にとっては、何の慰めにもならない。
 唯物論で死を考えている我々現代人にとって、死は恐怖以外のなにものでもない。死と生の境界を曖昧にするこの詩の依って立つ思想は、ある意味、媚薬である。しかし、そこに我々が降り立って安穏としていてはいけないのではないか。引き裂く境界があるから、「メメントモリ(死を忘れるな)」の厳しさがある。私は、この歌詞が、死生観の後退した甘ったるい歌詞に思えて仕方なかった。
 この本を読んだというと、愚妻は、「なんだか自殺者の背中を押しているような歌だと思う。私は好きではないわ。」と、ぼそっと感覚的な感想を述べていた。
 いや、それ、なかなかに穿っていると思うよ。
[1] 

お願い

 この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。

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