ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。
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エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」 http://hiyorigeta.exblog.jp/
朝、飯台の上の弁当が入っている鞄がぱったりと倒れた。それを見た愚妻、「♪しっかりせよと抱き起こし〜」と口ずさみながら 鞄を起こしていた。 古いなあ。これって軍歌である。例の「♪ここはお国の何百里、離れて遠き満州の〜」の冒頭部が特に有名な「戦友」。軍歌といっても戦意高揚とは対極の、倒れた戦友を思う哀惜の歌詞。 もちろん、我々の文化ではない。なのに、どうして知っているのかと言えば、我々が小さかった頃は、まだ戦後十数年しか経っておらず、宴席などで大人たちがよくこうした軍歌を歌っていたからである。白黒テレビでも、この種の問題のない軍歌は流れていたから、そっちで覚えたのかもしれないが、やはり、「門前の小僧」状態で、大人が酒の席で歌っていたのを自然に覚えたのだろう。ネットで歌詞を見ると、十何番もあり、単発のフレーズで知っているものがいくつもあった。 あの頃、酔っ払って、こうした歌を高吟していた大人たちはもうこの世にいない。我々の世代が記憶として覚えているだけである。物もそう豊富にあった訳でなく、お膳も豪華とは言い難かったが、大人たちは未来を信じて、明るかったように思う。 急に、なんだか今は死んでしまった、ばあちゃん、父、叔母や従兄弟が集っているあの当時のワンシーンが思い出されて、ちょっと切なくなった。あの時、私は物心ついてそうたっていない子供。 今、弟に第二子が生まれ、産院で赤ん坊の顔を見ては、実家に立ち寄り軽く雑談して帰るということを数日続けている。何十年とたった時、今この時のことを私は覚えているだろうか。成長したその子に、「おまえの生まれた時、オジサンはね……。」と楽しく話ができるだろうか。また、物心ついたこの子が、大人の様子をしっかり脳裏に焼き付けて、この時はお父さんはこうだった、こんなオジサン・オバサンがいた、と懐かしがってくれるだろうか。 我々夫婦の人生もそろそろ後半。甥っ子に、健やかに育って、我が一族をしっかりつないでいっておくれと願わずにはいられない。
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愚妻に頼んでいた手編みセーターが出来上がり、先日の繁華街行きの時、初デビューした。愚妻の力作である。こちらの希望でシンプルな柄にしてもらった。毛糸自体は高級品ではないというが、目を小さくしてもらったので、手間がかかったらしい。その分、着ごちもよく暖かい。 勢いで、今度は茶色の帽子を編んでくれることになった。手伝ってと言われて、何をするのかと思ったら、毛糸玉をまず作るから、手に毛糸の輪っかを持って左右に振ってくれという。「かせ繰り」というらしい。 あら懐かしや。私が子供の頃、本当によくこれを手伝わされた。手を動かすだけだから、子供心につまらないなと思い、嫌々やっていた覚えがある。「あんたの着るものになるんだからね。」と言われたような気もする。以来、一体何十年ぶりなのかしらと思いながら、暇なので作業しながら愚妻と思い出話をした。愚妻もよくやらされたらしい。あの頃の主婦たちは毛糸ものは自分で編むのが当たり前だったのだろう。ジャージャーとうるさい長細い編み機も大抵の家にあった。 かせ繰りしながら、自分があの頃の子供になったような気がして、胸がしめつけられた。何十年たって時代が変わっても、人がやっていることはそんなに大きく変わりはしない。 編み物はベテランの愚妻。編み図も特になく、まったく見当でさっさとざっくり編みの帽子を作ってしまった。それを被って今日は繁華街へ買い物。 次は赤子の服だという。
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白山比盗_社に新車の安全無事をお祈りに行く。スイフト以来約三年ぶり。今回は間がよく、受付をした途端に呼ばれ、昇殿して儀式が始まった。県外から来られた方、安産祈願の若夫婦、それに我々。祝詞の中に各々の祈願の内容が入っていて、軽く前屈みになりながら奏上を聞き、お祓いを受ける。 祝詞は「かしこみかしこみ申す」式の、まことに古めかしい大和言葉を装飾過多で並べたてた定型文の如きもの。私が生徒に教えているレベルの古典単語満載で、ちゃんと勉強した人ならほぼ意味が判る。ハンドルのことを「舵」と言っていたので、おそらくその昔は船舶用のが交通安全祈願の雛型だったのだろう。 あのゆったりとした抑揚で長々と語られると、意味が判るだけに、言霊の存在を信じ、それを通じて畏くも神様にお願いしてくださっているのだなと思い、有り難くも敬虔な気持ちになってくる。日本人はこうして、一生にどれだけ神様にお願いするのだろう。何百回? それが一億人分。 幸福へのお願いが渦巻いて、すごい力の塊になり、思いは確かに神様に繋がるような気持ちになった。 十数年前の時にはあった御神酒を頂く儀式がなく、そのかわり飴玉一個頂いた。飲酒運転防止ということだろう。同伴した義母は八十歳に近いが、昇殿しての交通安全祈願は生まれて初めてということだった。前回は私の母親同伴で、彼女もその時が初めてと言っていた。確かに免許のない人はまず経験しない祈願である。 帰宅後、愚妻はさっそく御札シールを車に貼った。廃車まで何事もなく全うできますように……。
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先日のこと。次の日から出張に行く若い同僚に他の同僚が「名刺持ったか?」と声をかけた。我々の仕事、名刺を作っていない人が多く、若い彼女もないということで、慌てて作ることになった。その後、名刺の出し方レクチャーが始まった。 私も知らない社会人のマナー。名刺入れを名刺の座布団のように下にして出したり受けとったりするのだそうだ。すぐにしまうのは失礼とのこと。名刺は名刺入れの上に置いて、会議の終わり頃にしまうといいらしい。確かに相手に失礼のないようにという根本から考えて理にかなっている。 ところが、彼女、名刺入れ自体がないということで、貸すことに……。 若い子が出張する。職場の名前を背負うんだからと、同僚たちは親切半分、からかい半分で、彼女にあれを持ったかこれを忘れるなとちょっかいを出す。 ちょっと職場が明るくなったひとときだった。
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七十年代から日本を代表するピアニストとして活躍している山本剛(p)のトリオを金沢柿木畠「もっきりや」で聞く。ベースは谷中秀治、ドラムスは山領明。前日は富山の北陸2DAYSツアー。 山本といえば、我々世代には、なんといっても一九七四年度スイングジャーナル誌ジャズ・ディスク大賞最優秀録音賞受賞の「ミスティ」(スリー・ブランド・マイス)の緑色のジャケットが印象に残っている。女性に大人気のピアニストだった。スインギーなピアノで観客を楽しませてくれること確実な人なので、ジャズのナマを聴いたことのない知人を誘った。行きはしんしんと降る雪。 曲は、お家芸の「ミスティ」。それに「レフトアローン」、客のリクエストに応えての「マイ・フーリッシュ・ハート」など大スタンダード大会。聞き知った甘いメロディが珠玉のフレーズ構成で奏でられると、場は一気にロマンチックな雰囲気になる。また、速い曲でのソロはオスカーピーターソンばりのノリのよいフレーズを連発。「マンテカ」のリフで「キャラバン」をするなんていう小細工も楽しい。 観客は山本の知人らしい男女、昔っからのファンらしい中年ご婦人三人組、仕事帰りらしきサラリーンなど、室内は多くもなく少なくもないちょうどいい密度。 メンバーの谷中秀治はワイルドでソウルフル、アルコも積極的に使って、ぐいぐい前面に出てくる。対して山領明はオーソドックスなハードバップドラムス。手堅い。 ライブハウス自体はじめての連れは、まず「どこから演奏者が入場するのですか?」と私に質問した。いやあ、よい質問です。ドアの外からだったり、もう中で飲んでいるかもしれないよと答えたが、案の定、すぐ横にいた。 楽器をやっている人なので、ピアノの中に手を入れて弦をはじく奏法やベースのフレッドを打楽器がわりに叩く奏法など、見たことのない多彩な奏法に驚いていたようで、地味な印象のベースがこんなにも大活躍するということもはじめて知ったようだった。曲の終わりは目配せで終わってしまうジャズ的な融通無碍加減や、ソロの途中、別の奏者がトイレに立つという、さすがの慣れた聴衆もちょっと苦笑の展開も、彼女にはびっくり仰天の出来事だったようだ。ちょっと悪の道(?)に引きずり込んだかも……。 終了後、山本に握手をしてもらい、外に出ると雪はやんで、夜の空気はピンと張りつめていた。いいライブだった。
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夫婦二台とも代車生活を余儀なくされてだいぶたつが、先日、納車間近と連絡があった。まだ発売されてそうたっていない新型車(昨年十一月発売)のN-ONE。ほぼ一ヶ月半待ちであった。初めてのホンダ社製。 CVT警告灯が出て、修理に出していたスイフトのほうは、原因不明ということで、ながらくメーカーに留め置かれていたが、雨漏りによるコンピューター部の漏電が原因と特定できたようで、昨日の甥っ子誕生の日、フロントガラス部の目止めとコンピュータを交換して戻ってきた。 そして今夜、愚妻が新車を受け取って、ようやく我が家は代車生活から解放されることとなった。甥っ子のお誕生日の次の日が登録日ということで、当分、乗って何年目の車というのは数え間違える心配がない。
愛称をつけむと思ひ考ふもそも男(をのこ)かとマスクを眺む
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午後、弟夫妻に第二子が誕生した。男児。最近はとっくに判っている。実家に顔を出す度に義妹の腹は順調に大きくなっていて、ここのところ、もうはちきれんばかりだった。先月は愚妻の姪っ子の子、今回は私のほうの甥っ子。世代は次に次にと移っていく。 仕事帰りに産婦人科に寄って、新生児室のガラス越しに赤子と対面。すでに皮膚は真っ赤から落ち着きをみせて、普通の肌の色をしていた。ただただ小さくスヤスヤ眠っている。 実家に寄って、病院から戻っていた弟から誕生の様子を聞く。遠距離通勤の愚妻は今日は対面できず。 この病院はずっと以前、愚妻が入院したことがあり、十何年ぶりに中に入ったが、リフォームされて少しは小綺麗になっていた。帰り一階の待合室を通ると、二十人以上の女性たちが診察を待っていた。そこを突っ切る形になったので、ちょっと恥ずかしかった。このあたりでは、遅くまで外来をしている数少ない婦人科らしく、勤め帰りとおぼしき女性たちが、この時間帯にどっとやってきている感じだった。 話を聞くと、市内で産科を止めている病院が多く、義妹が第一子出産に使った病院もやめたのだという。リスクが多く訴えられることがあって、産科医は敬遠されているというニュースが世間に流れて数年、ここ金沢でもそれは例外ではないようだ。 いつも入ったことがないところへ入って、ちょっと違う世界を垣間見たここ数日。
赤子らはいずれも同じ顔なれど青き札にておのこ主張す
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愚妻がある宴会に出席して、お久しぶりの方に会ってきた。帰宅後、あの方はうちの親戚の誰々さんにそっくりではないかと言い出したのだが、その方をよく知っている私は、そんなこと、もうとっくに気がついていたよと返事をした。 この齢になると、お会いした人の数がつみかさなって、「あの方はあの方とそっくり」というような事態に出くわす。 ある集まりで、私の知人とそっくりな方がいて、こんなに似ていてはみんな間違うだろうなとすぐに思ったのだけれど、よく考えると、石川県に住まいしていることが同じくらいで、住んでいる世界も地区も違うので、間違えるのは偶然二人を知っている私くらい。現実にはそれほど心配はいらないのであった。 それに、今回お会いした方は二十歳代の女性。知人は私と同世代なので、もう五十歳代半ばのはず。何年か前にお会いした段階で、髪に白いものが混じる、もう立派(?)なおばさんになっていたので、今もし、二人が並んでも似ているとは思わない人がほとんどに違いない。私には知人の二十歳代の時の姿が一番印象に残っているので、そのイメージで較べてそっくりだと思っただけ。 「確かに似ているね。」と、ちょっと人に同意してもらいたい気持ちもあるけれど、言っても判らないだろうから黙っているということも多い。今回のがまさにそう。それにしても、よく似ていた。 今回のことで、以前、気になっていた疑問をネットで調べてみた。一時期、NHKのお天気お姉さんとして人気があった半井小絵嬢のこと。 「なからい」という姓ですぐピンとくるのが、樋口一葉の師で彼女が恋心を抱いた半井桃水。文学アルバムに大抵載っているので、桃水の顔はよく知っているが、目元から頬の輪郭にかけてが本当によく似ている。勝手に子孫か親戚だろうと思っていた。 そこで、二人の名を連名にして検索をかけてみたところ、多くの人がそう思っていたようで、結構、ネット上で話題になっていたようだ。 彼女のブログによると、少なくとも半井小絵家の親戚付き合い範囲では関係がないらしい。また、半井桃水家の菩提寺では、墓は既に無縁仏になっているので、子孫は絶えたはずだということで、どうやら無関係というのが一応の結論になっているらしいが、どこかで分家したその子孫筋で、係累・血縁が遠くなって関係がなくなったということも考えられる。私は未だにこの二人が遠い親戚ではないかと疑っている。 実は同様のことを経験している。中学の同級生のK君と、古い付き合いの同業者が同じ姓。面影もよく似ている。それだけなら空似ということもあるかもしれないが、優しい性格や立ち振る舞いまでそっくりなのである。初めて仕事でお会いした時、その方に同級生K君と親戚かと問うたくらい。違うという返事だったが、今でもどうも合点がいかない。同じ地元民。絶対、さかのぼっていくとどこかで姻戚関係があるはず。 こういう経験の一つや二つ、多くの人が持っているのではないかしら。
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昨夜、遅い時間に夫婦で大型スーパーに行き、そこで夕食をとった後に買い物をした。雪の平日の夕飯時が過ぎた時間帯なので、客は本当に少なく、広い売り場は閑散としている。既に冬物は片隅に追いやられ、春物にシフトしていた。食品売り場も、商品を片付けはじめている。 今日。土曜で仕事がないひさしぶりの午前。でも、ちゃんと予定が入っていて、マンションの理事会。 我がマンションは運営的にも積み立て的にも順調な部類だが、それでも二十年近くたっているので、経年劣化による機器の取り替えなどが重なっていて、それなりに決めることがある。三月、総会に出席し、二年間の役員からようやくお役ご免となる。 会場の図書館は雪のため、土・日にしてはがらんとしていて、静かな時間が流れていた。しばらく書架を冷やかして、雪の中、ぶらぶら帰る。 雪が降って温度的にも冷えていると雪国は人の動きが少なくなって静かな街になる。
綿雪を帽子にのせし寒椿
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1月も中旬にはスーパーでは節分お菓子が並んでいた。豆菓子以外に、今や何でも巻いてあると節分ものになっていて、ロールケーキや春巻き皮でまいたロールサラダなんていうものまであった。今はバレンタインデーのチョコレートが山積み。それも今日まで。明日からは、ひな祭りコーナーに模様替えのはず。 今日、当日。少しもらった(母親・愚妻・義妹と、鉄壁の身内路線+α)ので、手帳のツウ・ドゥー・リストに「お返しを買っておくこと」とメモった。
義理チョコも人恋しくて受けにけり 大安と暦にはありバレンタイン 義理チョコを頬張りて観る恋物語
全国でスイーツにかける金額ランキング、金沢市は一位だそうである。珈琲の類も一位。商売は他県に敗れっぱなしだが、こういうことだけは感心するくらい熱心。
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愚妻はそもそも化粧っ気ゼロで、塗ったら落とさなければならないのが面倒臭いというタイプ。そもそも化粧の仕方自体をよく知らない。リップを塗ったのは人生数回らしい。基本ズボンで、スカートもほとんどはかない。 冬ということもあるけれど、外出中、向こうから近づいてくる愚妻を眺めるにつけ、アノラックに黒ズボンと、どこをどう見ても全面的に北陸のおばさんである。それなりのお出かけ着でそれなりにお洒落しているおばさんも街にはそれなりに闊歩しているので、中身のおばさん加減はともかく、それなりの格好くらいしてはどうかと言った。 「せめてフワッとしたスカートくらい履け。」 すると、それなら、あれも買わねば、これも買わねばという。ひとつところだけ変えるとそこが浮く、変えるなら全面的に変えねばならないという。まあ、一理ある。それでもいいから暖かくなった頃から努力して下さいということになった。 話はそこで終わらない。じゃあ、あんたもそのおっさん加減を何とかしてほしいという。こっちが言った手前、聞き耳持たぬではまずいので、その次の言葉を待ったら、「まず、その猫背を何とかして。それで十年は若く見えるはず。」ときた。 うーん、お金で解決できるものならともかく、小学生の頃から言われ続けた姿勢の悪さ。こっちのハードルのほうが断然高そう。
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昨日、上位大会のない県内大会があって、我が弓道部は女子団体Aチームが優勝した。予選を通過した後は決勝トーナメント。三回勝てば優勝するのだが、いずれも素晴らしい射で、ほとんどを命中させ、相手を撃破した。 大前の選手は調子がよかった時の射がしっかりできていて、落ちの選手もいつもの癖が出ず、押し手がきれいに効いて、安定していた。ナカの選手は一年生にもかかわらず、これも練習の時以上の正確さで、三人とも見違えた。特に優勝戦は相手に先行されていたが、淡々と正射を続け、後半、気がついたら逆転していたという理想的な展開。 弓道はその日その日で出来が大きく違う。三人ともまるでバイオリズムが一致しているかのようにベスト以上の力が集結して、後ろから見ていて感動的ですらあった。 勝ち抜く度に緊張は増しただろうに、そのあたりをよく耐えた。優勝が決まって、射場を出た彼女らは、全然喜んだ様子がなかった。終始無言で、通路を渡り、そこで毎回やっているように、我々顧問らの指導を受けた。我々が祝辞を述べ終わってから、やっと彼女らは喜びの表情を見せた。おそらく彼女たちのこころは、極度の緊張の中、仕事をしっかりと成し終えた安堵感の方が先にきて、感情空白時間がしばしあるのだろう。自分のした仕事が、結果として「優勝」という祝うべきものになったという感情は後からやってくる。一流の世界は常にこういうものなのかもしれない。この感情の流れを味わった彼女たちは本当にグレードの高い体験をしたように思う。 「神様が降りてくる」ということがある。今日はそんなイメージが湧くほど。解散前の訓話で、選手には、なんだあの日だけだったのかと言われないよう、さらなる精進が必要であること、また、選手以外の部員には、もう俺の射はこんなものだと見切ったら最後、こんな感動は絶対味わうことができないよと話をした。 雪も交じる真冬の大会で寒かったが、これで疲れも吹き飛んだ。
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朝晩は粉雪が舞って冷え込むが、日中は晴れ間も見え、春の予感も感じられる今日この頃。冬もすでに後半に入っている。 スイフトに再度CVT警告灯がついてまた点検に。今度は愚妻の通勤帰り中で、そのまま車屋さんに直行。夫婦共々、代車生活を続けている。慣れぬ車でお互いちょっと心配。 「メンテナンスの冬」ということで、毎夜、ちまちまと持ち物の保守をしている。職場で履きっぱなしにしている履き物を自宅に持ち帰りワックスを塗る程度のことを一夜にひとつほど。 お気に入りで、持っているマフラーの中で一番肌触りがよくて暖かなものの毛玉を取っていたら、虫食いだらけなのを発見して驚いた。愚妻によると、カシミアは毛糸の中でも抜群に美味しいらしい。仕方なく控えにまわして、先日、冬物半額セールでもう一本購入した。巻くとちょっと軽く、歩く風に靡(なび)く。もう少し重たいほうがよかったか。 夕飯は鍋物が多い。材料を多種類買うと始末に困る。何種類かを限定で。だから、鍋と言っても水炊きと湯豆腐の中間のような中途半端なものになる。その話を、子育てが終わって夫婦暮らしに戻ったあるご婦人に言うと、うちもまったく一緒だわとのこと。どこでも二人暮らしは同じようなものらしい。 かく、冬の夜長は過ぎていく。 春寒と言い聞かせてや氷点下
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冷え込みが懸念されたが、今日も青空が見えた比較的温暖な日。夕方愚妻が帰るコールをしてきて携帯がブルブルなったので、ふと窓外を見ると、まだ空は青みが残っていた。「春遠からじ」である。 前々回の「河西池」を口ずさんでいると、何だか、どこかで以前、聞いたことがあると気づいた。もしやと携帯のアドレスを調べると、この詩の章句をアレンジしてアドレスにしている知人を見つけた。 なんと風流な……。 マネされないよう乱数表のようなものにした私のアドレスとは大違い。もうちょっと工夫すればよかった。
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「第三の新人」といえばいつもトップに名前が出ていた安岡章太郎が、先月、九十二歳で死去した。死因は老衰による。他のメンバーより少し年上だったこと、一九五一年『ガラスの靴』が芥川賞の候補に選ばれ、他のメンバーより早く世に出たこと、彼の資質がこの派の定義に実によく合致していたことなどが、最初に名を呼ばれる所以。彼は、自分の体験を書く「私小説作家」の流れを汲んでいて、情けない自分、劣等生の自分をことさら書くので、なおさら、第三の新人は泡のように消えていくと思われていたふしがある。 我々の世代は、中学の国語の教科書に「幸福」という短編が掲載されていたので、それで彼を知った人も多いはず。私もこの時期に、北杜夫のユーモア小説などと共に「なまけものの思想」他のエッセイを読んだ。 「幸福」は子どもながらに印象深い小説で、結局、切符を買うために最初に親にもらったお金の額を勘違していたというオチで終わる小説。主人公にとっては何とも情けない終わり方だが、駅員の笑顔が見られたことは「幸福」だったと、後書き風の文末でタイトルにひっかけている。昭和四十二年あたりから十数年間教科書に採用されたようだ。ただ、おそらく「サーカスの馬」のほうが小説教材としては有名である。 古い記憶で書くので違っているかもしれないが、教科書では「ズルくて、意地汚く、そのくせ時どきヘンな空想癖を発揮して、常識では考えられないマヌケなことをしでかす少年だった。それはいまでも変わりないように思う。しかし、この空想癖がなかったとしたら、僕はいまよりいっそうどうしようもなく取り柄のない人間になっていたかもしれない」と、空想癖が今の小説家の自分を作ったといったようなニュアンスの後感想がしっかり載っているものと、カットされたものがあった。載っていないものは、この作品の心臓部を省略しているかのようで、違和感を感じたものだ。ただ、それは、もしかしたら「道徳」の教科書に載っていたほうかもしれない。その指導書は、まるでこの主人公が善行をしたかのような解説がされていて、それは違うぞと感じたことを覚えている。この話のどこに主人公の道徳的倫理観を読み取ればいいというのか。 このあたりのことは、私が教員になって間もない頃に、この作品について調べ、中学校国語科の研修会に参加したりしたので、それでうろ覚えに覚えている。 彼の作品では、服部達のことを書いた「舌出し天使」、自己のルーツを調べた「流離譚」、実感的に昭和を語った「僕の昭和史」などが印象に残る。いよいよ第三の新人およびその周辺では阿川弘之さんが唯一の生き残りとなったのではないかしら。 そういえば、先日「巨人・大鵬・卵焼き」の大鵬も亡くなった。もちろん、巨人も大鵬も卵焼きも大好きで、巨人も大鵬も永遠に勝つものとばかり思っていた。戸田との一戦での誤審による連勝ストップは今でもはっきり覚えている。そもそも対戦相手が戸田という名前だったということを今はっきり言えるだけでも、いかに印象的だったかという証拠。 亡くなったお二人のことを、古い記憶を引っ張り出して書いた今日の記事。
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昨日の節分。同僚が、今や巻ものに席巻されて、豆は肩身の狭い思いをしているのじゃないかねえと呟いていた。スーパーは勿論二刀流だが、夕刻、巻きもの売り場は大変な人だかりであった。 今日は立春。今年、春来たる詩として、以下の詩を紹介したい。
府西池 白楽天 柳無気力枝先動 柳気力無くして枝先ず動き 池有波紋氷尽開 池波紋有りて氷尽く開く 今日不知誰計会 今日知らず誰か計会するを 春風春水一時来 春風春水一時に来る
[拙訳]
柳は力無さそうにだらんとしているが、枝がすこし風に揺れている 池の水面には波紋が広がって 氷がすべてとけていく 今日のこの様子はいったい誰が計算したというのか (立春の今日)、春の風と春の水が一度にやって来たなんて…… (上平声十灰、起句踏み落とし)
中唐の詩人白居易の立春の詩。柳は都会的な木、街路や旅館の庭に植えられた。この池も大自然の中というより整備された風景のはずであると、ちょっと調べてみると、「府西池」とは、河南府の役所の西にある池のことだという。とすると、彼の勤め先から見えた風景で、何気なく外を見た時の景色でもあろうか。特に心情は書かれていないが、一気に春になって心波立つ様子を明るくまとめていて、結句は結構有名なフレーズである。 昨日はこの詩のように春めいて、このまま春に向かうのではないかという温暖な日和であった。今日はしとしと早春の雨の如し。ここ数日で、除雪で積み重なった雪の塊がだいぶ低くなった。 今年の冬は大雪が降らず、落ち着いた推移をしている。
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今の人が聞いたら驚くだろうが、私の学生時代、国漢の中で近代文学専攻は肩身の狭い分野だった。メインはあくまでも古典。近代文学なんぞ読めば判る、学問たり得ないという風潮が未だに少し残っていた。 では、古典こそ最上なのかというと、これにはまだ上があって、当時、私が習った先生が語ったところによると、私が学生だった頃(ということは戦後すぐ)、漢学の先生は、日本文学は中国の物真似。認めるのは「源氏物語」くらいで、あとは大したことがないと言っていたそうだ。日本の書き物自体が漢文に較べるとひよっこのようなものだと思っていたらしい。 近代文学を大学で講義しはじめたのは戦前の片岡良一あたりから。学問的伝統は確かに浅い。吉田精一あたりの作家論的論考で基本路線が出来上がり、三好行雄が作品論を提唱したあたりで、ようやく認められてきたといった流れであった。 我々学生は、まず、その作品の作品論を幾つか読んで、問題点を整理し、その上で自力で論を構築して研究発表する。質疑応答の後に、先行作品論の長所・短所を指摘して、作品論からどう脱却すればいいのかを模索するというような流れでゼミの指導を受けた覚えがある。 ある時、東大教授三好行雄本人を神田神保町古本屋街で見かけたこともある。あまり顔色のよくない方という印象で、実際、長生きされなかったはずである。時、構造主義の興隆があって、都市論的考察なんかが魅力的な時代、結構、私自身影響された。そのあたりで就職、仕事をしはじめた。以後の学界動向には全然詳しくない。小森陽一あたりは就職してからの人。 昨年 免許更新で大学教授の講義を受け、あれから長い歳月がたったことを実感した。中島敦「山月記」の学説に簡単に触れるということだったので、佐々木充や鷺只雄の名が出てくるものと思っていたら、ここ二十年ほどの意見を列記して、二人の名はなかった。どうも私の認識は遠い昔の話らしい。 また、夏目漱石「こころ」の講義では、教材として適切とは到底言い難いと若手の部類の先生はさかんに疑問を投げかけていた。特に教科書の扱い方が古いという。教科書は昔の通り、第三部にあたる「下 先生と遺書」の自殺までを載せており、多少、切るところが違ってはいるが、ほぼ、どの教科書も同じところが載っている。第一部「中 先生と私」・第二部「中 両親と私」はあらすじが載っているだけ。これを「先生と遺書」至上主義を今も墨守した載せ方で、昔の三好行雄作品論的誘導がある、既に学問的に古いと批判していた。 そもそも、教科書に載り、シラバスで自由度がない近年の教育システムでは、まず定番教材は実施するので、古いと投げかけられても現場としてはどうにもならない。それに、勿論、他の部分も重視してするのに越したことはないけれど、事実上不可能。だとしたら、現行採用部分がやっぱりドラマチックで適切のように思える。(と考えること自体、三好行雄路線から出ていないと批判されるだろうけれど……。) 近年の学説の中には、屋上屋を重ねるようなものだったり、細に入り微に入りこね回した挙げ句に出てきた虚論のようなものも交じっているように感じられて、古い人種は微かな違和感を感ずることがある。今回のように、学問的にはそうなのかもしれないけど、そのまま現場にあてはめられて批判されても……という思いもある。 最近の動向を聞くにつけて思う。抽象論がまかり通っているのではないかしら。本文校訂など地道な作業はまだまだだと当時から思っていたが、あれから進んでいるのかしら。
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チラシに閉店セールとあるのでお店をやめるのかと思えば、単に改装するだけ、それも模様替え程度で、休みは一日だけということらしい。このように、「閉店」という言葉の意味がぼやけしまってからもうだいぶたつ。 私は、カード入れを膨らすタイプで、チラシにちょっとした割引券などを見つけるとジョキジョキ切って、カード入れに入れておく。数ヶ月に一度、中のカードを整理をし、日付けの切れたものを捨てるということをやっている。 先日、某店で「期限はありません」と書いてあった割引券を差し出して買い物をしようとしたら、「これ、だいぶ前の券ですねえ。もうこの売り出しはしていませんから使えません。」ときっぱり言われた。お店としては、一年以上前の券を今頃出されても、という立場なのだろうけれど、それでは「有効期限なし」の表示の意味がない。ちょっと変だと思ったが、文句は言わなかった。「閉店」という言葉と同じで、意味がぼけ、当座は使えますという程度の意味しか持たせていなかったのであろう。 こちらはその券を大事に持っていた。「ずっと持っていて下さって、有り難うございます。お店として有り難いことです。」と言われるお店も当然あるはず。そんな店で買い物をしたいものである。(でも、ここは田舎だから専門店はその店だけだったりする。えり好みはできない。) ということで、この文章は、言葉が大げさに使われ、中身が多少違ってもそんなものという風潮がこの頃ある、嘆かわしいことだという話です。
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冤罪で服役中の主人公がおけらに餌を与え続けたところ豚の如く大きくなり、死刑直前、大穴を掘ってくれて脱走できたという漢文の解説をした。例の「みみずだって おけらだってあめんぼだって、みんなみんな 生きているんだ友達なんだ」の、あのオケラである。ここに出てくる三つの生き物はどれも小さく、そんな弱小な生き物でも……という生命賛歌で、おけらというと、まずこの歌を思いだす人が多いのではないだろうか。しかし、実際どういう生き物なのか、実は知る人が少ないように思う。私自身も、人に説明する手前、ネットで調べて、ああこいつだったかと納得した。ちょっと頭部が大きなずんぐりとしたコオロギだと思っていたやつである。説明にもコオロギの親戚とあるので、私のイメージはあながち間違いでなく、言うなればコオロギの地中生活特化版みたいな生き物であるらしい。 この小生物を使った諺に「螻蛄の五能」というのがある。おけらは「飛ぶ・登る・潜る・掘る・走る」の五つの才能があるが、どれもたいしたことがなく、役に立たないことをいうと辞書にあった。「虫けら」の「けら」も「螻」と書く。どうにもこうにも、取るに足りない全然さえないイメージの虫である。 さて、その日の夕方、スーパーに買い物に行って、かなりの食材をカゴに入れ、レジ待ちに至って財布を覗いたら、お札が皆無だった。そういえば、観劇の会費を払って、紙幣は全部出払っていたのだ。むなしく、またひとつひとつ売り場に返してまわった。小銭があったので、今夜の夕飯の最低限の食材、竹輪と葱1本だけを買って一四六円支払い、財布には二円だけが残った。財布にアルミ貨幣二枚だけがころんと入っているのはなんとも情けなく、財布を忘れたのならともかく、持っていての中身の最低記録ではなかろうかと思いながら帰宅した。今や二円ではなにも買えない。 さて、こんな状態のことを日本語で何というのだったかと思った途端、思い出しました。 「おけら」。 どうも今日はこいつにつきまとわれている。
(みえみえのオチで申し訳ありません)
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お願い
この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。
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