3月いっぱいの診断書が出ているので、仕事はお休みして、リハビリを続けている。ここのところ、午前も夜もジムへ通っている。午前ウォーキングマシンほか機械体操、夜はプールでせっせと歩いている。空いた午後の時間は、意識的に買い物へ行ったりして日常生活に馴染むようにしている。ちょっと運動に頑張った休日が毎日続いているといったらわかりやすいかもしれない。
以下、覚えとして、病院での経過をまとめる。入院から退院まで、業務としてルーティーン化されており、手術経験者の方には、ああ、同じパターンだなということになってしまうのだが、何分、本人は初めての経験で物珍しさいっぱいなので、お許し願いたい。
1日 朝、病院へ、外来で簡単な検査、麻酔科医の問診の後、病棟へ。大部屋を希望していたが、当分、個室となる。午後、ベットごとガラガラと運ばれ、ミエロ撮影。(「ミエロ」って何? 体の中がよく「見えろ!!」ってこと? なんて思ってしまう。)その時の造影剤注射が、踏ん張って何とか我慢できるくらいに痛くて、今後もこんなに痛いのかと、少し不安になる。
2日 術後のトイレや立ち方についての指導と、イラスト入りの入院スケジュール表を渡され、今後の予定のレクチャーを看護師から受ける。インフォームドコンセント的にも、患者への意欲付け的にも便利な書類である。見やすいように枕元にぶら下げられる。それ以外は何もない1日。
3日 手術前日。隣接のリハビリテーションセンターで、リハビリ医の問診、午後、理学療法士が来室し、簡単な検査。夜、医師による明日の手術の説明を受ける。4番5番の椎間板は左右ともにヘルニアがあり、2番3番は中央部であまり悪さはしないはずである。今回は4番5番の左が一番の痛みの原因と思われるので、そこを手術するという。私は腰骨自体が痛いので、その旨訴える。ボトルシップ工作(瓶の中に帆船模型をピンセットなどを使って作る、よく客間になんか飾ってあるあれ)のような手術だという説明が印象的だった。
4日 手術当日。午後1時半時より手術室へ移動。病室での事前の注射で既に意識がなくなり、手術室までのガラガラ移動からして覚えていない。次に気がついたときには、ナースセンター横の集中治療室で何本もの管につながれていた。全行程約2時間半の手術だったという。術後、医師の問いにちゃんと反応していたというが、まったく記憶にない。変なことを口走らなかったか聞くと、なにやらピースサインをしたらしく、看護師に笑われたとか。次に3本指をだしたそうで、本人は2時間かかったのか3時間かかったのかを聞いたつもりだったらしい。その程度のボロでよかった。酸素マスクをし、頭上で心電計がピコピコとなっている。テレビドラマの通りだ。自分がその当事者になるなんて……という思いがよぎったが、後で入院患者に聞くとみんな病院ドラマを思い浮かべるらしい。やっぱり。1時間ごとに計る血圧が、110、100、90、80と10ずつ下がっていったので、当直の若い看護師さんは少し焦ったらしく、「大丈夫ですか。」と何度も聞かれた。「大丈夫。」とその都度答えていたが、確かに80の時は、今考えるとすこし茫洋としていた気がする。それと、どうも、私は体を動かすとき、一度息を止めてアクションを開始するようで、そのたびに、こいつは息をしていない、死にそうだと思うのか、機械がぴーぴー異常を知らせる。そのたびに看護師さんが飛んできた。こっちも、またぴーぴーなったら困ると、息を無理矢理ゼイゼイとやってしまい、気になってそっちのほうがくたびれた。何度目かのぴーぴーの後、どうも私はそんな癖のようなので、気にせんといてください、と説明して、以後、聞き流してくれるようになった。お互いのためである。それで、ゆっくり眠りにつくことができた。
5日 集中治療室で、通常の朝食がでる。消化器系の病気ではないので、食事は通常食であるが、当分、横臥したままなので、パンやおにぎり、おかずも巻物にしてある。昼、個室に戻る。数本の管はつながったまま。
6日 体の管が全部抜ける。腰を当分曲げられないので、練習の通り、鉛筆を立てるように、横臥から一気に立ってみる。普段はしない奇妙な動きである。痛み止めの管がなくなったことで、夜、結構痛くなってなかなか眠られず。
7日 朝食から立ったまま食事をとるようになる。「立って食べるなんて、なんてお行儀が悪い」と、子供の頃、親に叱られたことが脳裏に浮かんだ。理学療法士が付き添って、歩行器を使って廊下を歩く。「這えば立て、立てば歩めの親心」ではないが、最近は安静よりどんどん動けの方針で、「本当にもういいの?」という感じである。
8日 昼食までで術後11食目だが、大便がでない。さすがに腹部の膨満感が激しい。寝ていることが多くて、引力の助けが足りないためであろう。午後、便座に座り、初めての大便。これが大仕事であった。リハセンターまではじめて歩行器で行き、本格的リハビリを開始する。ベッドでストレッチされたあと、自力で足の保持の運動。左足に力がないのが自分でもはっきりわかる。この恢復が目標となる。毎夜仕事帰りにやってくる配偶者が、見舞いの度に新しいことができるようになっていると驚く。
9日 リハビリメニューにウォーキングマシンが追加される。毎日、徐々に距離とスピードを伸ばしていくように指示される。リハビリ以外はやるべきことがなく、病院の時間はゆっくり進んでいく。1、洗面・朝食に立ち、2、午前中、点滴の合間に、売店まで散歩、3、昼食で立つ、4、リハセンター行き、5、夕食、6、歯磨きなど寝る前にすること諸々、の1日計6回立つだけの生活。しかし、その割にはあっという間に一日が終わるのがなんだが不思議でしかたがない。職場の、あのあくせくした時間はいったい何だったんだろう。
10日 大部屋に移る。術後痛み止めの管が入っていた時は痛みを感じなかったが、管がとれると腰の痛みが戻ってきた。手術の傷の痛みもあるからと、自分の痛みを観察していたが、傷の痛み自体は日々軽減されていき、でも、以前と同じ場所に同じ痛みがはっきりとあって、手術しても、全然すっきりしていないことを知る。
11日 昨夜は生まれて初めての大部屋のため、人の鼾などが気になってよく眠られずに困った。泊まりがけ宴会などで大部屋寝の経験はあるが、まあ、そういう時はアルコールが入っている。入院生活は色々な「初めて」を経験する。短時間の座りが許可され、朝食より座食となる。
12日 試験外泊ということで、夕方、いったん家に帰る。回転寿司でささやかな外食。病院の食事は煮物中心で単調になりがちなので、生魚が嬉しい。今後の読書用の本を数冊買う。
13日 朝、帰院。日曜ということで、団体(?)を含め計15名の見舞客あり、座って対応していたら、最後の方で腰が辛くなる。一回に20分程度なら問題なかったのだが、合計時間にすると、かなりの時間になり、一昨日、座りが許可になったばかりの腰には負担だった。横になって応対すればよかったと反省。
14日、15日 昨日ちょっと無理したなあと後悔しながら、リハと読書の日々。あとはどんどん運動だとのお達し。
16日 リハ強化され、午前中にストレッチ・機械、午後にプールがはいる。体力が落ちているので、疲れはて、午前も午後も、運動後1時間ほどのお昼寝タイムが自然に必要となる。何だが幼稚園の子供と一緒である。ワーと動いてパタッと眠る。
17日 付設のプールは3m四方の浴槽程度のもの。歩くというより、くるくる回るというのが正しい。何だが、自分が粉ひき臼の周りを回る農耕牛のような気になる。プールでお会いするお歳を召した女性にこの比喩を言って、ええ、昔あったわねと、すぐにピンとくるのは結構な歳の方だけでしょうねと笑い合ったが、もちろん、私は実地で見たことはなく、プロレタリア文学の名短編『二銭銅貨』からの連想である。彼女は実地?
18日 今日は、予定表によると目標退院日であった。回診でよくなっていない旨、担当医に訴える。リハで自転車もせよ、外泊もせよと「仰せらる」。今度の外泊は、日常生活に戻るために目標を持ってせよということで、何をするか看護師に聞かれる。運転、買い物、ジムでトレーニングなどを挙げる。医師より、同年齢の男性に比べ、骨密度が腰など部分的に弱い可能性があり、骨自体がクシャと傷んだことによる痛みではないか。今後、骨粗鬆症の経口薬を飲むように言われる。だから、最初から、私の痛みは左右の別なく背骨自体が痛いのだとあれほど言っていたではないかとちょっと情けなくなる。医者は、まあ、手術で可能性をつぶしていった訳ですからという言い方した。
19日・20日・21日 2度目の外泊(2泊3日)。予定通り、CDショップや本屋など行こうと思ったところにはいった。毎日、リハセンターのかわりにジムにも通った。帰院後、どうだったかを口で言うと散漫になるので、以下の簡単な文章を打ち出して看護師に提出した。 「手術前の痛みを100とすると、術後、手術自体の痛みがとれた段階で110ほどで、半年前の痛み程度に後退した。このため、以前より長く座れなくなった。悪固まりに固まりつつあった痛みが、手術や寝ていて筋肉が落ちたためか、少し暴れている感じで、以前より腰に違和感がある。手術後のリハビリメニュー自体は順調にこなしており、歩行などは足取りがしっかりしてきた。今回の外泊は、直前にブロック注射をうったため、痛みが80位になり、予定していた、運転、買い物や、ジムでのウオーキングマシンなど日常行動について、問題なくできた。ただ、これまでの経験から、注射の次の日が一番楽ではあるが、効き目は約一週間ほどである。標準退院日はすぎている。入院中はリハビリセンターが隣故、リハビリには便利だが、今後どうすればいいか。」
22日 傷自体は直っているので、退院を25日に決めた。退院は、多少の病院側からの誘導はあるが、自分で決めるものらしい。「明日と言われれば明日でもいいのだが、家人の都合では25日がいいようだ、そんな決め方でいいのでしょうか」と恐る恐る看護師に尋ねると、「ほとんどの人は家族の都合で決めていますよ」とのこと。なーんだ。本日、異動の内示の日だったので連絡を待っていたが、何もなし。どうなったのだろう。
23日 今日も職場から連絡なく、どうやら異動はないと知る。この腰で知らぬ新しい職場に行くことに不安を持っていたので、安堵する。しかし、私だけ突出して長く居ることになり、特別に置かせてもらっている感が強くて、来年度、居心地が悪かろうとも思う。
24日 リハビリが続く。ウォーキングマシンが目標の距離1,5Km、スピード4,5km/hに到達する。狭いプールでは、いつも何人かとご一緒なので、おばちゃん連中と雑談しながら回る。途中で病棟がかわったある方は、病棟によって看護の手厚さが全然違うなどという病院裏情報を話してくれて、それで1時間の長さを紛らわす。
25日 午前、外来で再度の問診。骨の痛みは骨粗鬆症の薬で軽減されるはず。私の様子を見ていると、腰痛を気に病んで気分が沈むタイプのようなので、気分を積極的にする薬を処方しようかと言われる。その後、会計を終え退院。昼、夫婦でささやかな外食。午後から、即、ジム通いを始める。計22日間、支払い約36万円也の入院であった。
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