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 アイラブJAZZ

 

 1975年、本格的にJAZZを聞き始めて30年、LPがCDになったりしましたが、少しずつ増えてきて、住居のスペースを圧迫しています。(笑)

 これまでのジャズ遍歴をぼそぼそ語ります。

 

 

はじめてみたジャズのレコード

 子供の頃、二階に下宿人がいて、その人がジャズの長時間(33回転)EP盤を持っていた。「モリタート」という曲が入っていて、サックスの曲だった。後年、ジャズを聞くようになって、それが名盤「サキソフォン・コロッサス」(ソニー・ロリンズ)のダイジェスト盤だったということはすぐに判った。もちろん、子供である。「オバケのQ太郎」なんかに夢中の頃である。理解できる訳がない。

 

ブラスロック好き
 ビートルズ以後、ニューロック革命が起こった。今から考えると、ロックの多角化である。ラテンロック、プログレロックなどと名付けられていたが、つまりは、ロックンロールというある種のダンスリズムから聞く音楽へ広がりがはかられたということ。私は、シカゴの「クエッションズ67&68」、チェイス「黒い炎」(1971)などのブラスロックを愛聴した。特に「黒い炎」はLPを何度も聞いた。もともとビッグバンド出身のトランペッター、ビル・チェイス率いる4管のペットを中心としたグループで、特にLPのA面1曲目とB面はジャズ色が強い。これが、実は、ジャズへの耳を訓練してくれた恩人である。のち、フュージョンが出現するが、その嚆矢となった名盤。

 

デオダートの出現
 巷に「ツァラツゥストラはかく語りき」のインストものが大ヒットしていた(1973)。ショックを受け、レコード店に買いに走った。でも、どこにあるのか判らず、虚しく帰ったことを覚えている。CTIレーベル最大のヒット盤。ジャズの棚にあったのである。後、見つけて愛聴盤となる。私のボサノバ好きの端緒になった。だから、私は、ブルーノートなどの本流レーベルより、イージーリスニングジャズなどと悪口を叩かれたCTI盤を一番多く持っている。

 

本格的にクロスオーバーを聞き始める
 本格的に聞き始めたのは高校1年(1974)
。スイングジャーナルは1975年2月号からとりはじめた。以後、毎月欠かさず購読している。世はクロスオーバー台頭期、特に、売れていない頃のボブ・ジェームス(p)の編曲の才に注目していた私は「ボブ・ジェームス1」を発売と同時に買った。スイングジャーナルの評価は星3つ半と低かったが、名盤だと思った。以後、大活躍しはじめ、見る目があると自己満足したことを覚えている。昼食費切りつめて、レコードを買いあさった。渡辺貞夫、チック・コリアのRTFなど、手当たり次第聞いた。特にハンコックがヘッドハンターズを率いて、金沢公演をしたのを聴きに行ったのが、この種の音楽を生で聞いた最初である(1975)。(この時の東京公演は「洪水」というタイトルでレコードになっている。)

 

アコーステックジャズを聴くようになる
 クロスオーバーの連中は、純ジャズ出身が多い。エレクトリックな器楽演奏を聴くようになって、彼らのアコーステック演奏のよさに自然と耳がいくようななった。毎月取っていたスイングジャーナルの勉強もあって、アコ・ジャズのLPも買うようになる。時、VSOPクインテットが大ヒット。トニーのドラミングには昂奮した。こうして、純ジャズにもどっぷり漬かっていくようになるのだが、この流れでアコーステックに目覚めたフュージョンファンは数多い。
  高校時代に、金沢にきたザナドゥレーベルのオールスターズを聴きに行ったのが、渋いジャズの一流ミュージシャンを聴いた最初ではないかと思う(1976)。バリーハリス(p)、チャールス・マクファーソン(as)、ジミー・レイニー(g)、リロイ・ウイリアムス(ds)、サム・ジョーンズ(b)が出演していた。二千人収容のホールに観客が四十人、暖房も入ってなくて、ジミーは手がかじけてハアと息を吹きかけながら弾いていた。ジャズってマイナーだと実感した。

 

 

東京でのLP買い
 東京に住むようになって、何が嬉しかったって、JAZZ輸入レコード屋に入り浸れることだった。田舎にはそんな専門店がない。国内盤より安価に入手できるのが魅力。この頃は、名盤を買うので精一杯、日本未発売の穴盤を買うなんて利用のしかたではなかった。当時、ウインドデイスプレーにビル・エバンス(p)の名盤「ポートレート・オブ・ジャズ」(1961)
のジャケットがよく飾ってあったものだ。今も昔も永遠の売れ筋盤。眼鏡の知的なオッサンがこっちを睨んでいて、いつか買わなきゃと思っていた。後、ビルはマイフェイバリットアーティストになる。たしかCD30枚くらいはあるはず。

 

日本のジャズマンの生を聴く
 お金がなかったので、コンサートにしばしば行ける訳でもない。TBSラジオがやっていたビッグバンド生演奏の公開放送に応募して、よく聴きに出かけた。故本多俊夫氏の名司会が印象的。これで原信夫とシャープス&フラッツなど当時のプロバンドを全部聴けた。 ある年、田舎に帰らず、大晦日のオールナイト年越しジャズコンサートを夜通し観たのも、いい思い出。ジョージ川口の生もここで観て、もう大ベテランなのに、すごいパワーで驚いたことを覚えている。

 

外国ジャズマンの演奏を聴く
 お金がないので、コンサートには、ほどんどいけなかったが、シェリーマンのグループ(ハリー・エディソン(tp)、エディ・
ロックジョウ・デイビス(ts)ら)を芝の郵便貯金会館に聴きにいったり(1981)、少しは行った。この公演はレコードになっていて、私の拍手も入っている(「ビル・エヴァンスに捧ぐ」)。フュージョンでは、リー・リトナー、ボブ・ジェームスあたり。ロックでは、サンタナ、ボストンあたり。
  カウント・ベイシーが何度か来日していて、もう高齢なので、今のうちにと思っていたけど、チケットが高額で、行きそびれた。あれは今でも心残り。

 

社会人になってから
 郷里に帰り、社会人となった以後、月に数枚のLP買いは続けていた。それが、CDに変わったけれど、今も変わらず、買い続けている。
 コンサートに行けるようになったのも、昔と違うところ。チック・コリア、ソニー・ロリンズ、ハリー・アレン、ジョン・ファディスなどなど。
 私らの世代は、ジャズ喫茶に入り浸っていた世代ではない。それは少し上の世代。同級生の一部は、高校時代、さぼって片町のロック喫茶でハードロックなんかを聴いていた。高校生がジャズ喫茶は、ちょっと早い。あそこは紫煙が似合う。
 大学時代、ジャズクラブなんて行けるお金なかったし、「ブルーノート東京」なんて有名外国人ジャズマンが出入りするライブスポットなんて、田舎に帰ってから出来た文化である。ということで、私は、ジャズに付き物の、煙草、酒、薄暗い部屋とまったく無縁なまま、ジャズに接していたのである。

 

はじめてのジャズクラブ
 5年ほど前、愚妻と私とで、東京のジャズクラブで生演奏聴きながら酒を飲んだ。ラウンジでピアノ演奏聴きながらというのはあったが、本格的なのは、はじめて。
 青山の閑静な住宅地の一画にある有名なママのいるクラブ。出演、辛島文雄グループ、一流どころである。洋酒を飲みながら、演奏を楽しんだ。非日常の世界、大人の世界である。
 でも、なんだか違和感がある。それがなんだか最初は判らなかったが、途中で気がついた。隣に日常の権化であるカミさんがいるのが浮いて感じるのである。そこだけいつもの世界。
 「なんでお前がここにいるのだろう。」
思わず言ってしまった。ここには、タイトスカートなんかが似合うスレンダーな女性がいなければならない。
 途端、返事が返ってきた。
「あたしもそう思っていたの。なんでここにあなたがいるのかしらって。……ま、お互い様ね。」
「………。」 

「実録鬼嫁日記」の作者なら、_| ̄|○ と表現するところです。
                                                             (終わり)                                              2005/8/21

 

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