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書評・北陸の同人誌評

  この頁は、「書評」と「北陸の同人誌評」を掲載しています。
 「書評」は、文学誌「イミタチオ」誌に掲載された「北陸の本」、教育機関のパンフレットの掲載されたもの、ミニコミ誌に掲載されたものと初出はさまざまです。
  「北陸の同人誌評」は、同じく文学誌「イミタチオ」誌に掲載された「北陸の同人誌評」コーナーが初出です。

  (北陸の同人誌評)小説評 2003年前半

(北陸の同人誌評) 小説評(2003年前半)

 

 今回は、「大地」第四一号(二〇〇三・三)、「小松文芸」五一号(二〇〇三・三)、「雪嶺文学」二九号(二〇〇三・六)、「金澤文学」第一九号(二〇〇三・七)、「北陸文学」六七号(二〇〇三・八)を読んだ。こうして、北陸の同人批評を担当してかなりの年月になる。ここに挙げる同人誌は、すべてお馴染みのものばかりである。総合文芸誌「金澤文学」は、年一回のペースながら、三百頁、二千部もの発行部数を誇る。小松市立図書館内の発行委員会が出している「小松文芸」は、中学・高校生作品の掲載が特色、地域文化啓蒙の姿勢が顕著である。「学生諸君と社会人の投稿誌」と銘打つ「大地」は、写真やコピー印刷頁があったりして、手作り感覚が楽しく、「雪嶺文学」はレイアウト・デザインに工夫があり、イラストを含め、読んで貰う工夫が随所に見られる。「北陸文学」は、詩・小説など各ジャンルのバランスがよく、オーソドックスな紙面作り。各々特色があって、順調に発行号数をのばしている。
 ところで、五木寛之が「北陸中日新聞」のインタビュー(平一五・一・二六)で、金沢は「鏡花、秋声、犀星におぶさって、同人雑誌の活動など活発でない」と発言したことに、「金澤文学」が異議を唱えている(千葉龍「主宰の部屋」)。金沢には自誌以外にも総合文芸誌多くがあるではないか、地方都市として活発なほうではないかというのである。千葉の反論を読みながら、思い出したことがある。先日、北陸電力の一階ギャラリーで写真展があり、観に出かけた。その会場で、撮影者本人が来場者相手に議論していたのを聞くとはなしに聞いていた。写真家曰く「石川の写真愛好家は、相当数いるのだが、仲間内で固まっていて、地元で展覧会をするのが関の山だ。地元での写真展は、たしかに数多く開催されているが、全国規模のコンテストへの応募や、県外組織への参加は少なく、全国へうって出ようという気概に乏しい。全国レベルでの切磋琢磨が、地元のレベルを上げる近道なのに……」という嘆きの内容。「金沢の外野席応援団」を自認する五木氏の苦言は、地元同人誌関係者には納得できないものかもしれない。しかし、石川県のアマチュア写真界への不満が、県内同人誌界にも当てはまるとしたなら、あながち見当はずれとも言えまい。地元同人誌の安定的発行だけをもって「活発」とは言えないのではないか。ホームベースでの地道な活動を維持しつつ、プラスαを全国にどう発信していくか。各誌とも再検討が必要だろう。

 閑話休題。個々の作品評に入ろう。

  杉本利夫の「鋏と老人」(「金澤文学」)。元理髪師で、八十歳間近の老人の主観を通して物語は語られていく。口と足が不自由でだが、ぼけてなぞいないと自信をもっている主人公。跡をついで理髪業を営む息子夫婦のこと、隣で和菓子屋を営む弟夫婦ら親族のことを過去から掘り起こして、日がな脳裏に巡らす毎日。かつてハンチング・カットなる髪型を編み出し、流行したことが彼の生きる支えでもある。彼の個別の感想自体は支離滅裂ではないが、すべて過去の反芻であり、自分中心の都合のいい考えである。そして、それをつなげていくと、やはり常識を逸脱している。作者は老人特有の精神世界を、実に自然に描いている。読者は、年をとれば周囲がこう映るのだろうと、前半は、ある程度、同情的に読み進むことになるが、中盤に入ると、彼は娘人形相手に語りかけ、人形の髪を男のように刈り上げはじめる。この辺りで、読者は、その異常性をはっきり認識するようになる。終盤、息子夫婦の留守をいいことに、勝手に店を開け、やってきた若い客に五分刈りを強要、別の中年男には、頼まれもしないのに得意のハンチング・カットを施して、客を驚かす。仕舞には剃刀で自分の手を切って倒れ、救急車が駆けつける騒ぎとなってしまう。つまり、これまで、家族内で対応されていた痴呆が、ここに来て表面化、第三者にも迷惑が及ぶ事態となった訳で、振幅の度合いを増すのである。小説は、救急車の迎えと老人ホームの迎えとの区別のつかなくなり、「ホーム行きはご免だ、母さんと暮らしたここがいい」と駄々をこねるところで終わる。「幼児退行現象」が突発的に表出し、物語はここに頂点を迎えるのである。歪んだ主観からの叙述という手法は、たとえば、リアリティを増すために書く、くだくだしい老人特有の反復に、読者も付き合わねばならないというような冗漫さを引き起こしたり、どういう形で客観的事実を読者に明示していくかなど幾つかの課題が常につきまとう。作の巧拙もそこで決まることが多い。その点、この作品は、老人の主観の自然さも含め、うまく纏めてある。

 畔地里美の作品はいつも安定している。今回の「投影」(「金澤文学」)も舌を巻く巧さだ。父が昔働いていた鉱山の坑道が観光コースとなり、両親、主人公久子、その息子の四人で再訪する。父が急に鉱山の仕事を辞め、都会に出稼ぎにいったことで、思春期には父を怨んだ娘だったが、今回、母から、故意の事故を仕掛けた犯人を道連れにして退職したということを知らされる。だが、父自身は、暗闇が怖かった。暗黒の中で死にたくなかったというのが本心で、事故はきっかけに過ぎないと語る。坑道の闇とは人生の闇であり、坑道を進み、途中で引き返してくる彼ら観光の足どりは、父が決断した家族の行路の象徴であろう。主人公久子は、家族の反対にも関わらず結婚、離婚し、一人で息子を育てるために「気を張り詰めて」生きてきた。化学薬品会社の研究助手として長年勤めを変えないのは「結婚から逃げた負い目」があるからで、「気の赴くままに生きていくのはよそうと決めていた」からという。つまり、彼女も離婚を分節点として闇に落ち込まないよう坑道を戻ってこようとした人といえないだろか。現実の坑道の闇や金気臭い匂いと、馴染めない会社の地下室での溶剤の匂いや遮電の暗闇が、彼女の心の中でクロスする。それは自分の行路が父と重なることを感じたということであり、父の心情を実感的に理解したということである。夕日を背にした父の影をラストに描く作者は、娘としての絆と自己の生き方を確認した物語として、未来に希望を託したといえるだろう。

 柴田みひろ「くろゆり」(「金澤文学」)も、ぐいぐい読ませる佳品。育児ノイローゼに陥った美沙は娘の百合を海で死なせてしまう。その心の傷を癒しに訪れた温泉場で、娘と同い年の少女ゆかと出会う。育児が上手くいかず、子供との修羅場の毎日だったにも関わらす、なぜか、この子といると亡き娘のよい思い出だけが思い出されることに彼女は気づくのである。美沙は「他人との比較でしか自分を評価できない人間」と説明されており、彼女自身の生き方自身はもちろん、ノイローゼや子供への折檻も、他の子との比較において引き起こされている。この人物造型ははっきりしていて物語の大事な縦糸になっている。最後、ゆかに秘密の場所として連れていかれた黒百合群生地を観て、彼女は、わが子への誇らしさや、他人の評価に囚われる自分の愚かさを知る。冒頭部で黒百合に否定的な感情を提示し、娘の百合は大輪の白百合であるべきと思っていたのだが、最後、黒百合の大自然のと調和した強さを知るという流れも小道具として実に効果的。申し分のない秀作だが、瑕瑾を指摘するとすれば、次の二点であろうか。ゆかは義父の幼児虐待による衰弱死によって黒百合群生地で死体となって発見される。ところが、死亡推定時刻以後に、美沙は彼女と会っているのである。おそらくミステリーというよりファンタジーをねらった設定なのであろう。しかし、あくまでも美沙の再生の物語という文脈の中に置いてみてると、こうした工夫はむしろ小細工のようで、不要だったのではないかと思われた。また、夫は、今は彼女に対してかなり神経をつかって対処しており、やさしい旦那の扱いに終始しているが、事件が起こる前は、家庭を顧みない典型的なタイプで、その辺りは責められてしかるべきだ。しかし、この夫婦間の葛藤やドラマは殆ど語られていない。そこが少々物足りなかった。

 中野貞治「真知子・風の盆」(「北陸文学」)は、越中おわら風の盆と男女の恋愛を絡める。高橋治のベストセラーを髣髴とさせる設定だ。「風の盆恋歌」より、二人の別れの理由が、男(私)の海外転勤と、真知子の八尾にいる母親看護のためと現実的なのが特色。その分、身近な話で読みやすい。八尾の上流の宿で、女は踊りを披露し、結ばれ、そして別れとなる。三年後、帰日した男が風の盆を訪れると、そこに半身不随の夫の演奏にあわせ見覚えのある踊りを披露している編笠被りの女を見つける。失意で帰京した男を待っていたのは、真知子だったという展開。実は踊っていたのは姉。別れの日、姉に踊りを代わって貰ったのだったというハッピーエンドとなる。風の盆の女は深被りで顔が見えないという事実を使った細工で、意外性という意味では面白かったが、理由が単に踊りに自信がなかったからというのはいただけない。二人の心理にからんだ納得できる動機づけが必要だ。中盤、真知子が男に出す「長崎被爆見聞録」風の手紙も流れからは浮いている。この二点は気になったが、短編恋愛小説として楽しく読んだ。

  荒川義清「バトン・タッチの腕時計」(「北陸文学」)は、縁遠くなっていた八歳上の兄が余命幾ばくもないと連絡を受け、見舞いにいくと、父が買い、すぐ上の兄の遺品でもある腕時計をしていた兄がこれを譲るという。まさに時計のバトンタッチの話で、題材的にはしみじみする話のはずだ。ところが、末弟である主人公は、兄を批評したり、病気体質の遺伝を心配したりと、雑味が多い上に、ラストの受け取る場面でも、年の差があるので兄という気がしないと本人に直接告げたり、病人の方も病人の方で、死病も儂と同じかもしれぬと脅かしたり、しっとりとした場面にならない。人生の終局で笑えるとは凄いと感心しており、こうしたやりとりを描くことで、涙を見せる別れの場面にしたくなかった作者の意図は理解できる。しかし、歳をとってしまった兄弟の別れは、おそらくこうしたものなのだろうかと妙にさばさばしたものに感じられ、味気ない想いが読者に残ってしまうのは、作者の計算外の事態ではないか。このため、末文に締めとした書かれた「それは重い匂いのする重量感のある物」だと読んでいて感じられないのが残念であった。

 他に、印象に残った作品としては、原政子「あるがままに」(「北陸文学」)。介護福祉士がボケ具合の調査にきた老女を主人公にした短編で、今日的テーマが面白かった。「アドレス」(「雪嶺文学」)は、死んだ夫の住所録から浮気の疑念の湧く女性名を見つけ、それらの女性に会いに行く話。妻の気持ちの動きの描写が手慣れている。半面、波風立たず終わるのが、それもありとは言え、少々物足りなかった。逆に、宮地八衣「胡蝶」(「雪嶺文学」)は、劇的な展開をみせるのに、するすると進行し、掘り下げ不足。中編に仕立てたいところだ。小杉明海「歪んだ破局」(「大地」)。これは中盤あたりを刈り込んだ方がいいかも知れない。猫を偏愛する女と、交際の破局を巡りやりとりしていく中で、女は異常性を帯びる。後半、怪奇話になっていくが、稿者は、前半の、彼より猫を優先する女の自己中心ぶりが現代風で面白かった。ケイタイが二人を結ぶ連絡回路として効果的に使われているのも印象的。

 最後に、提案をしたい。例えば、前述の「真知子・風の盆」。終盤、夫の伴奏で踊りを踊る女を見て「失望していく自分」とある。しかし、これでは、彼女との結婚だけが目的だったかのような印象を受ける。つまり、作品世界は底の浅いものになってしまっている。こうした表現上の不注意や一面的なまとめ方は、多くの作品に見られる傷で、いちいちここで取り上げるとかなりの量になるが、逆に言うと、こうした傷が少ない作品が読んでいてスムーズでイメージが沸きやすい、ひいては、よい作品ということになるはず。各誌では、毎号発行後、合評会がなされているようである。多くは作品全体の印象を話し合っているだけではないだろうか。その席で、芝居の台本読み合わせよろしく、一字一句検討し、皆で添削しては如何だろう。この言い方は適切か、底が浅いまとめ方をしていないか等。その上で、書き直しをし、次号に再掲するのである。創作人としては一見不名誉なことかもしれないが、作品の品位は上がり、作者の技量は向上する。学生の小論文模試には、チャート式項目別五段階評定がついてくる。文章力をつけるということでは「添削」と「評定」が最も有効な手段だ。テーマ、構成力、表現力、表記などの、小説評価用の項目を考え、評定するというシステムも存外面白いのではないだろうか。 
      (文学誌「イミタチオ」第41号 平成16年2月)

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