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エッセイ・コラム・雑文

 

 ここでは、運営者が各種媒体に書いた随筆(エッセイ)・雑文を載せています。ちょっと文学的なエッセイ、昔の思い出話、高校生向けコラム、提言など、内容はさまざまです。

 

 

  (箒苔紀行U)極私的野田山墓地紀行(上)

(箒苔紀行2)極私的野田山墓地紀行(上) 

 

 以前、本誌に、東京雑司ヶ谷墓地の漱石墓について小文を草したことがある。思えば、特に意識的というほどのこともないが、あちらこちらの墓地を散策してきたことに気づく。ひとつ想い出話を書きつけて、老いの楽しみとしようというのが、この駄文の趣旨である。

 「紀行」と題したが、紀行というほどのことはない。私の生家からも見え、通った小学校の窓から、授業をよそにぼんやり眺めていた市内の山で、今、奉職している高校の窓からも眼前に見える。懸命に授業をしている時など気にもならないが、テスト監督のつれづれに、ぼんやりこの山を眺めていると、子供の時から何の進歩もなく眺めているような気になってくる。ぼんやりと自分が窓を見ていた小学校時代と区別つかなくなって、トロトロと……、そこにチャイムの音。ああ、いけない。仕事だった。そうして我に返る。
 そもそも、金沢の寺町台地に生を受けてこのかた、東京生活を送った六年間を除き、金沢南部の、ごく一部地域だけで生活を送ってきたことに今更ながら気づく。東京が一番遠く、次に若い頃勤めた金沢市北部の森本、次に南部の鶴来と感覚的には近くなっていき、今は母校の小学校のすぐ横にある職場。実家も、今住んでいるボロアパートも、車で三分のところにある。齢を重ねて、どんどん活動範囲が幼児期のそれに収斂していく。世の中、国際的になっているのに、私だけがどんどん逆行しているような変な感覚だ。まあ、外国語を専門にやっている者なら問題かもしれないが、単なる日本文学好きの中年にはそんなに問題はない、いや、むしろ似合っているかのように感じられて、自分のこうしたせせこましい経歴を、面白おかしく人に説明して、ひとり悦にいっている。
 ただ、何だか、この年齢にしては少々早すぎで、ご老体のような活動範囲の狭さに、あの世からの早死の思し召しなのではないかと、少々心配する気持ちがない訳でもないのだが……。
 昔に較べ、今の世の中、何かにつけて忙しくなっている。私と同業だった父は、あの頃、六時半の夕食時には、まず家にいたものだが、現状、私は通勤時間たった三分にも関わらず、その時間帯、ほとんど職場にいる。今のサラリーマンは皆そういうものなのかもしれないが、太陽を見る機会がめっきり減った。暖房がはいると、階段・廊下が寒いので温度くらいは多少気になるが、日中の天候や降雪の有無などはほとんど関係なくなる。夜に外に出て、初めて外の空気を知る。よく大人が時間のたつのが早いとこぼしていたが、自分が今こうした腰痛持ちの中年になって、仕事場と家との往復以外の、記憶に残る行動をしていないので、その年のめぼしい個人的なイベントを幾つか記憶でつなぐと、あっという間に一年になってしまうという理由なのだということに今になって気づく。
 そんなペースだから、野田山を詳しく散策しようと思い立っても、(それは多く先ほど触れたようにテスト監督の時だけなのだが)、前回、ゆっくり散策したのは、そういえば二年前だったというような体たらくなのである。
 金沢で野田山のことを書くのはありふれているかのしれない。詳しい方も多い。私にできることはごく私的に関わりを綴るのみである。
 では、始めようか。

 

 やはり、最初は、敬意を表して前田家墓地のことから書かねばならないだろう。なにせ、私の名前の俊建(としたつ)は、先代の御当主前田利建より親が勝手にあやかってつけたものなのだから……。明治時代、「薩長政府」という揶揄の通り、各県の知事は、薩摩と長州出身者が多くを占めていた。祖父は山口県の片田舎出身で建築家であった。それが時の知事赴任の際、呼ばれて金沢の地に移住したという話で、もちろん、祖父母の若かりしころの話である。時は日露戦争直後。
 それ故、一族は祖父の仕事柄、「建」の字がつく者が多い。私が生まれた時も、建がつく名前を捜した結果、燈台下暗し、前田のお殿様の名前を頂戴したという訳である。お亡くなりになられたのは知っていたが、先年、前田家墓地を散策していた時、古い墓が並んでいる横に、上につづく新しい道ができているのを、何気なく分け入っていくと、そこに真新しい利建氏の墓を見つけた。私は、一瞬、なんとも言われない気持ちになった。それは、私の名前のルーツの方と、ここに初めて対面したということもある。が、文化財としてしか見ていなかった前田家墓地が、いまだに前田家の墓所として<現役>であったということに対する驚きもあったように思う。
 かなり昔、小規模ながら駐車場が利家墓横にできているのを発見して以来、ここは、ある時は、夜のデートコースであり、ある時は、兼六園などの定番金沢観光を済ませた県外の友人に、隠れた観光名所だと言って連れて行く私の大事な観光ネタであった。
 私の小さい頃は、野田村の方から長い階段を上がってたどり着く正規の参道しかなかったはずで、墓所内の通路の整備など、いいとは言えないが、昔のつらさに比べれば、楽なもの。長雨の泥濘さえなければ、格好の新緑散策コースである。
 以前は、もう少し、整備して、観光コースにうまく組み入れればいいのに、市は観光PRが下手だと思っていたのだが、来年度、利家とまつがNHK大河ドラマになると聞き及び、それにちなんで大幅な整備があるのではないかと、今度は俗化を心配している自分を発見し、我ながら身勝手なものだと呆れる。

 

  前田家墓地の少し下左部に忠霊塔がある戦没者記念公園がある。正式にはこういうらしいが、地元の人には忠霊塔で充分。今は入り口に石のプレートがあるので、私もそういうのだとわかったにすぎない。何度も野田墓地には来ているが、ここに入るのは久しぶりだ。ここは、昔は子供の遊び場としてにぎわった。季節のいい時分の日曜日など、かなりの家族がここで子供を遊ばしていた。遠足よろしくシートを敷いて、お弁当を食べた記憶もある。おそくらく卯辰山記念公園とおなじような使い方がされていたのだろう。私が小学校のころ、卯辰山の方が開園し、人はそちらに流れた。今はロシア墓地の供養や、年に一度の戦没者供養の時に人が集まっているのをテレビのニュースで眺める程度にすぎない。トイレや管理事務所は立派に整備されたが、人気のない芝生の広場はやはり寂しい。今回、冬の夕方に行ったのがいけなかったのか、訪れていたのは私一人だった。昔の記憶で、どうしても子供の姿を捜してしまう。昔にぎわっていたところが、静まりかえっていると、時の移ろいを感じ、なんだか自分がえらく年をとった気がしてくる。
 そう言えば、ここに前回来たのは九年前だったと思い出す。あの時は今の職場に来て一年目、夏の一日、何も知らない演劇部の顧問となって、ここで、さし迫った高校演劇発表大会に向けての練習に付き合ったことが思い出された。たしか、教員採用試験のため、校舎が使えなくて、汗だくでここにやって来たのではなかったか。あのころの生徒は今はもう立派な社会人になっているはず。なぜか、他のことは忘れていていても、この日のことはよく覚えている。人間、意識には時間軸とは関係なく、場所の意識を伴った特別の経験の記憶は、妙に脳に留まるようだ。意外に近い記憶が昔のことのように思われたりする。人と記憶との関係は、まるで何十本もの棹をもち、遠いところ近いところに糸をたらしている釣り人に似て、時に人はその糸をたぐるのかもしれない。

 寂れたというなら、今は取り壊した、山頂にあった実践倫理記念会館も、一時期、イベントの会場としてよく使われた。当時の大物ロックグループサンタナなどもここでコンサートをしたはずである。大人数収容の施設が当時はなかったので、辺鄙で駐車場がない問題に目をつぶって使われたのだろう。これもおそらく石川県産業展示館あたりが、その代替となり、一般使用はほとんどなくなっていた。ここはいつの間にか壊され研修施設になっている。遠目から見ても山頂ということで、よく見えたあの建物がわずか二十数年かの年月で滅んでいったことを思うと、同じ無機物からできているが、江戸から続く苔むした墓石の年経りは永久に変わらないもののように思えてくる。

 

 今、墓は変わらないと書いたが、しかし、実は、墓地を散策するごとに墓地も動いているという実感を持つ。墓地を歩くとかなりの数の墓石に「関係者は申し出るように」と促すプレートが掛けられている。墓石整理の通告書だ。その様子は、死んでも安住の地などはありえず、子孫の繁栄次第で安住の地も取り上げられる現実を示しているようで、死者を鞭打つこと、これに極まれりと思える。
  何年か前、野田の方の路を歩いていたら、立派な墓石にこれがかかっていた。ここには多くの立派な墓石があるが、墓石が大きいからといってなにも生前立派だったとは限らない。肩書きが軍人のものは往々にして偉そうである。碑文を読むと、結局、部下数人程度の、たいして偉くもない陸軍軍人だったりして、苦労して漢文を読んで、疲れただけということが多い。その時も、道の横だからというような軽い気持ちで碑文を読み始めたのだが、銘文の書者に目が留まった。三島中州の撰文とある。
 三島は、明治初期の有名な漢学者。陽明学の大家で、今の二松学舎大学の創始者でもある。内容を読むと三島の薫陶を受け、後、郷里金沢に帰り、後進を指導した教育者とある。おそらく、没後、家族が、老齢の師三島に揮毫を依頼したのだろう。大学関係者にでも知らせるとよいだろうとは思いながら、なにもせず、その場を離れた。どんなに立派な業績の人でも、よほど人口に膾炙した有名人以外は、時代がたつと知る人もなくなり、また、どんなに立派な墓碑も、面倒を見る子孫がいなくなると整理の対象となる、この原則からして、この傾いた墓石が生き残るとは思えなかったからである。今年、どうなったのか意識してそのあたりを捜してみたが、やはり撤去されて跡形もなくなっていた。
 今年、私は一眼レフカメラで、例の札のかかった観音像を一枚、写真におさめた。体に紐が掛かって、なにやら噂に聞く縛られ地蔵とやらを思い出して微苦笑する。ふと、その下の記名された台座をみると、寺町とある。私の生まれ育った町である。よく見ると、実家のご近所の聞き覚えのある姓が何人も並んでいた。下の名前の方には聞き覚えがない。おそらく各家の先代の方が寄り合って、観音石像を寄進したのだろう。ご存じの方も多いと思うが、野田墓地には路地の角々に小さな観音像が建っている。これもその一つで、同じ頃、おそらく明治頃に言い出す者があって、角々に石像を安置したのだろう。実家のご近所を尋ねて古老に聞くとなにかわかるかもしれないという思いがよぎる。それよりも、まず、こいういう札がかかっていることをご近所に告げ、管理事務所に連絡をいれるように手配するといいかもしれない……。
 しかし、そうしたところで詮無いこと。連絡を受けた御近所さんの御当主も困るだけだろう。個人の墓でもない共同で寄進した小さい石像までにこの札をかける行政を、<愚>として諦めるほかないと、これも静かにその場を離れることにした。
 私は物事に面倒臭くなっているだけなのかもしれない。ああ、こうするといいなとはすぐ思う。しかし、それを実行することを考えると、もうどうでもよくなるのである。仏様に向き合うと自分が見えてくるとはよく聞く話ではあるけれど、えらく現代的なかたちで自分の性格を見せられような気もする。
 こうして撤去された墓の一部は、野田山上部の最近整備された無縁仏の集積場に集められている。多くの石塔が固まり、中央に地蔵が安置されている。これは二面あり、互いに反対の方向を向いている。山側の集積場には中央に地蔵二体が、谷側の集積場の前面には赤い涎掛けがついた彫り地蔵が数体置かれ、色合いのアクセントになって印象的である。ここの工事をしているのを知っているので、出来たのはつい最近のはずだが、意外に早く古色を帯びて、好ましい。                                      (つづく)
                      (二〇〇一・四・八)

                    (文学誌「イミタチオ」第37号 所収)
                                          (2001・12)

    [1] 
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 (卯辰山から金沢浅野川界隈を望む)
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