(随筆)「春の小川はさらさらいくの?」
数年前、小学教育の世界で、「春の小川」論争なるものがあった。詳細はよくは知らないが、大概、次のような経過であったと記憶する。 小学二年の国語の教科書に、児童の作った小川の詩が掲載されており、水の音を、「ちゃぽん」などと、児童の感じた通りの率直な表現がされていた。ところが、一部の教員から、犬は「ワンワン」、猫は「ニャンニャン」といった、日本人として常識的な表現を教えた上で、特殊な表現を教えるベきで、小学校三年の音楽の時間に「春の小川」を習ってはじめて「小川=さらさら」と教えるのは、順序が逆転しているのではないかとの疑問が出たのだった。これに対して、いや、それこそ児童の感受性を摘みとるものだとの反論が出で、論争となっていっのだった。 結局、この論争は、教育学でいう「本質主義」と「進歩主義」との代理戦争とでも言うべく、いずれが正しいといった問題ではないだけに、結論が出なかったのは当然である。
ところで、私はこの論争を読んで、思い出したことがある。小学生の頃、音楽室で「春の小川」を歌いながら、私は何か釈然としないものがあった。 「本当に小川って、さらさらと流れるのかしら?」 先程の論争でも、犬はワンワンというのはわかる。しかし、小川が「さらさら」というのも「日本の常識」なのだろうか。 試みに、手元の「広辞苑」(岩波書店)を引いてみた。
「さらさら」
@物の軽く触れ合う音、
A物事のはかどり進むさま、
B水のよどみなく流れるさま、
C乾き、またねばりけのないさま、
Dさっぱりとしたさま」
もちろん、Bの意味で使われている訳だが、どうも私には「さらさらした粉」といったCのイメージの方が強い。大体、BとCでは、意味が正反対ではないか。 私は、もしかしたら「春の小川」の「さらさら」は、常識的表現をしたのではなく、当時はきわめて新鮮な表現だったのではないかと考えた。とすると、小川がさらさらと流れるというのは、この唱歌の普及によって常識になったのではなかったか。
「さらさら」の古い用例として、「万葉集」の有名な東歌がすぐに想起されよう。
多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだ愛しき
一瞬、何だ「万葉集」の時代から、川はさらさらと流れるのかと思ったが、これは手織り布をさらす形容で、「ますます」の意も掛っていて、余り参考とはならない。但し、語感としては、何だか確かに川の擬音語のようにもとれる。私の仮説は余りあてにはならないようだ。 まあ、この愚説の当否などは、どうでもよい。大切なのは、たかが擬音語一語でも、その言葉の変遷を見極めようとすると、大変な勉強が必要だということだ。上代以降の用例を調査、或いは、唱歌の歴史まで調べないといけない。生来の怠け者で、調査してはいないが、学問というものは、子供の時のこうした疑問のように、素朴なところから発展していくものだというということだけは、このことで実感できたように思う。 (「梅の香り」京華女子高等学校 29号 昭和59・3 改)
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