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ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2005年03月31日
  試験外泊(入院話題1)

 試験外泊(練習で自宅へ戻って生活してみる日)は、ようやく座ることが許可された次の日のことであった。それまで、体の汚れは寝たまま看護師さんが拭いてくれていた。風呂は不可だがシャワーは可ということで、家でシャワーを浴びるのが楽しみであった。自宅で、自力で立って自分で自分の体を洗うことだけでも大進歩、大感激。回復の実感をもって風呂場から出た途端、「あんた風呂場使ったのなら洗っておいてね。」と配偶者の声。その後も、なんだか入院中の試験外泊ということを忘れたかのような、通常の(?)要求が続いて、私はこき使われた。これはたまらんと、翌日、予定時間より早く病院に戻った。
 病室に戻り、パジャマに着替え、ベットに横になって一息つく。ああ、水筒にお湯を入れるのを忘れたと言ったら、なんと、ついてきていた妻は、甲斐甲斐しくお湯を汲みに行くではないか。どうなっているのか。なんだか態度が一変している。
 どうも、家にいると、元気だろうが病人だろうが、これまで家にいた通りの対応をし、病院という環境で、病人のシンボルであるパジャマという名の制服を着ると、私は病人と認知されて、介護しなきゃと思うらしいのだ。
 私にとっては、連続した術後8日目9日目でしかないのだが……。
 本人の回復経過ではなく、環境のほうに合わせてしまうところが、なんとも考えなしで、旦那思いでないというか、微笑ましというか……。
  ところで、この外泊。入院中ということで、許可書に必要事項を記入しなければいけなかった。外泊理由の欄、どう書けばいいのでしょうと若い看護師聞いたところ、シケン外泊と書いてくださいと言われた、「シケン?」、試みに外泊するのだから、シは「試」だろうな、では、ケンは「うまく生活できるか検査のために」だから「検」かしらなどと、書きよどんでいると、彼女は、「シケンのシは、言偏に入学式の式と書きます、ケンは馬偏に……」と丁寧に説明してくれた。
 なーんだ、こっちがいつも生徒さんにやっているペーパーの、あの試験という字なのであった。
  それにしても、学校出たばかりの子に漢字を教えてもらうなんて……。

 後で、彼女は私のカルテの職業欄を観て、どう思うかしら?

 2005年03月30日
  職場へ顔出し
 4月1日の仕事復帰に向け、午後、職場へ行く。下駄箱で内履きに履き替えようとしたら、黒いビルケンストックのサンダルにうっすらと白く埃が被っていて、はっとする。その瞬間、1ヶ月の時の長さを実感したのである。(どんな理屈より、こういう小説的なディテールに真実があると、わざわざ、こうして日記に書きとめる態度こそ、まさに文系人間の証し?)
 管理職、各課に顔を出し復帰の挨拶。その時、今回異動される方がわざわざ私にお別れの挨拶をされたのだが、一瞬、本当なのか冗談なのか分からず、どう返せばいいか暫く無言状態、なんだかトンチンカンになってしまった。もうひとかたには、「来年度もご迷惑をおかけしますが宜しくご配慮ください」なんて言ってしまったり。離任式、送別会を欠席しているので、実感的把握が全然できていない。所謂「浮き世離れ」というやつである。その後、事務方と、年休の処理についての打ち合わせ、担当箱の溜まった書類を回収するなどして、そそくさと退散。やっぱりピリッとせんなあ。
 2005年03月29日
  入院中の経過記録

  3月いっぱいの診断書が出ているので、仕事はお休みして、リハビリを続けている。ここのところ、午前も夜もジムへ通っている。午前ウォーキングマシンほか機械体操、夜はプールでせっせと歩いている。空いた午後の時間は、意識的に買い物へ行ったりして日常生活に馴染むようにしている。ちょっと運動に頑張った休日が毎日続いているといったらわかりやすいかもしれない。

 

  以下、覚えとして、病院での経過をまとめる。入院から退院まで、業務としてルーティーン化されており、手術経験者の方には、ああ、同じパターンだなということになってしまうのだが、何分、本人は初めての経験で物珍しさいっぱいなので、お許し願いたい。

 

 1日 朝、病院へ、外来で簡単な検査、麻酔科医の問診の後、病棟へ。大部屋を希望していたが、当分、個室となる。午後、ベットごとガラガラと運ばれ、ミエロ撮影。(「ミエロ」って何? 体の中がよく「見えろ!!」ってこと? なんて思ってしまう。)その時の造影剤注射が、踏ん張って何とか我慢できるくらいに痛くて、今後もこんなに痛いのかと、少し不安になる。

 

  2日 術後のトイレや立ち方についての指導と、イラスト入りの入院スケジュール表を渡され、今後の予定のレクチャーを看護師から受ける。インフォームドコンセント的にも、患者への意欲付け的にも便利な書類である。見やすいように枕元にぶら下げられる。それ以外は何もない1日。

 3日 手術前日。隣接のリハビリテーションセンターで、リハビリ医の問診、午後、理学療法士が来室し、簡単な検査。夜、医師による明日の手術の説明を受ける。4番5番の椎間板は左右ともにヘルニアがあり、2番3番は中央部であまり悪さはしないはずである。今回は4番5番の左が一番の痛みの原因と思われるので、そこを手術するという。私は腰骨自体が痛いので、その旨訴える。ボトルシップ工作(瓶の中に帆船模型をピンセットなどを使って作る、よく客間になんか飾ってあるあれ)のような手術だという説明が印象的だった。

 

 4日  手術当日。午後1時半時より手術室へ移動。病室での事前の注射で既に意識がなくなり、手術室までのガラガラ移動からして覚えていない。次に気がついたときには、ナースセンター横の集中治療室で何本もの管につながれていた。全行程約2時間半の手術だったという。術後、医師の問いにちゃんと反応していたというが、まったく記憶にない。変なことを口走らなかったか聞くと、なにやらピースサインをしたらしく、看護師に笑われたとか。次に3本指をだしたそうで、本人は2時間かかったのか3時間かかったのかを聞いたつもりだったらしい。その程度のボロでよかった。酸素マスクをし、頭上で心電計がピコピコとなっている。テレビドラマの通りだ。自分がその当事者になるなんて……という思いがよぎったが、後で入院患者に聞くとみんな病院ドラマを思い浮かべるらしい。やっぱり。1時間ごとに計る血圧が、110、100、90、80と10ずつ下がっていったので、当直の若い看護師さんは少し焦ったらしく、「大丈夫ですか。」と何度も聞かれた。「大丈夫。」とその都度答えていたが、確かに80の時は、今考えるとすこし茫洋としていた気がする。それと、どうも、私は体を動かすとき、一度息を止めてアクションを開始するようで、そのたびに、こいつは息をしていない、死にそうだと思うのか、機械がぴーぴー異常を知らせる。そのたびに看護師さんが飛んできた。こっちも、またぴーぴーなったら困ると、息を無理矢理ゼイゼイとやってしまい、気になってそっちのほうがくたびれた。何度目かのぴーぴーの後、どうも私はそんな癖のようなので、気にせんといてください、と説明して、以後、聞き流してくれるようになった。お互いのためである。それで、ゆっくり眠りにつくことができた。

 

 5日 集中治療室で、通常の朝食がでる。消化器系の病気ではないので、食事は通常食であるが、当分、横臥したままなので、パンやおにぎり、おかずも巻物にしてある。昼、個室に戻る。数本の管はつながったまま。

 

 6日 体の管が全部抜ける。腰を当分曲げられないので、練習の通り、鉛筆を立てるように、横臥から一気に立ってみる。普段はしない奇妙な動きである。痛み止めの管がなくなったことで、夜、結構痛くなってなかなか眠られず。

 7日 朝食から立ったまま食事をとるようになる。「立って食べるなんて、なんてお行儀が悪い」と、子供の頃、親に叱られたことが脳裏に浮かんだ。理学療法士が付き添って、歩行器を使って廊下を歩く。「這えば立て、立てば歩めの親心」ではないが、最近は安静よりどんどん動けの方針で、「本当にもういいの?」という感じである。

 

 8日 昼食までで術後11食目だが、大便がでない。さすがに腹部の膨満感が激しい。寝ていることが多くて、引力の助けが足りないためであろう。午後、便座に座り、初めての大便。これが大仕事であった。リハセンターまではじめて歩行器で行き、本格的リハビリを開始する。ベッドでストレッチされたあと、自力で足の保持の運動。左足に力がないのが自分でもはっきりわかる。この恢復が目標となる。毎夜仕事帰りにやってくる配偶者が、見舞いの度に新しいことができるようになっていると驚く。

 9日 リハビリメニューにウォーキングマシンが追加される。毎日、徐々に距離とスピードを伸ばしていくように指示される。リハビリ以外はやるべきことがなく、病院の時間はゆっくり進んでいく。1、洗面・朝食に立ち、2、午前中、点滴の合間に、売店まで散歩、3、昼食で立つ、4、リハセンター行き、5、夕食、6、歯磨きなど寝る前にすること諸々、の1日計6回立つだけの生活。しかし、その割にはあっという間に一日が終わるのがなんだが不思議でしかたがない。職場の、あのあくせくした時間はいったい何だったんだろう。

 

 10日 大部屋に移る。術後痛み止めの管が入っていた時は痛みを感じなかったが、管がとれると腰の痛みが戻ってきた。手術の傷の痛みもあるからと、自分の痛みを観察していたが、傷の痛み自体は日々軽減されていき、でも、以前と同じ場所に同じ痛みがはっきりとあって、手術しても、全然すっきりしていないことを知る。

 

  11日  昨夜は生まれて初めての大部屋のため、人の鼾などが気になってよく眠られずに困った。泊まりがけ宴会などで大部屋寝の経験はあるが、まあ、そういう時はアルコールが入っている。入院生活は色々な「初めて」を経験する。短時間の座りが許可され、朝食より座食となる。

 12日 試験外泊ということで、夕方、いったん家に帰る。回転寿司でささやかな外食。病院の食事は煮物中心で単調になりがちなので、生魚が嬉しい。今後の読書用の本を数冊買う。

 

 13日 朝、帰院。日曜ということで、団体(?)を含め計15名の見舞客あり、座って対応していたら、最後の方で腰が辛くなる。一回に20分程度なら問題なかったのだが、合計時間にすると、かなりの時間になり、一昨日、座りが許可になったばかりの腰には負担だった。横になって応対すればよかったと反省。

 14日、15日 昨日ちょっと無理したなあと後悔しながら、リハと読書の日々。あとはどんどん運動だとのお達し。

 

 16日 リハ強化され、午前中にストレッチ・機械、午後にプールがはいる。体力が落ちているので、疲れはて、午前も午後も、運動後1時間ほどのお昼寝タイムが自然に必要となる。何だが幼稚園の子供と一緒である。ワーと動いてパタッと眠る。

 17日 付設のプールは3m四方の浴槽程度のもの。歩くというより、くるくる回るというのが正しい。何だが、自分が粉ひき臼の周りを回る農耕牛のような気になる。プールでお会いするお歳を召した女性にこの比喩を言って、ええ、昔あったわねと、すぐにピンとくるのは結構な歳の方だけでしょうねと笑い合ったが、もちろん、私は実地で見たことはなく、プロレタリア文学の名短編『二銭銅貨』からの連想である。彼女は実地?

 

 18日 今日は、予定表によると目標退院日であった。回診でよくなっていない旨、担当医に訴える。リハで自転車もせよ、外泊もせよと「仰せらる」。今度の外泊は、日常生活に戻るために目標を持ってせよということで、何をするか看護師に聞かれる。運転、買い物、ジムでトレーニングなどを挙げる。医師より、同年齢の男性に比べ、骨密度が腰など部分的に弱い可能性があり、骨自体がクシャと傷んだことによる痛みではないか。今後、骨粗鬆症の経口薬を飲むように言われる。だから、最初から、私の痛みは左右の別なく背骨自体が痛いのだとあれほど言っていたではないかとちょっと情けなくなる。医者は、まあ、手術で可能性をつぶしていった訳ですからという言い方した。

 19日・20日・21日 2度目の外泊(2泊3日)。予定通り、CDショップや本屋など行こうと思ったところにはいった。毎日、リハセンターのかわりにジムにも通った。帰院後、どうだったかを口で言うと散漫になるので、以下の簡単な文章を打ち出して看護師に提出した。
「手術前の痛みを100とすると、術後、手術自体の痛みがとれた段階で110ほどで、半年前の痛み程度に後退した。このため、以前より長く座れなくなった。悪固まりに固まりつつあった痛みが、手術や寝ていて筋肉が落ちたためか、少し暴れている感じで、以前より腰に違和感がある。手術後のリハビリメニュー自体は順調にこなしており、歩行などは足取りがしっかりしてきた。今回の外泊は、直前にブロック注射をうったため、痛みが80位になり、予定していた、運転、買い物や、ジムでのウオーキングマシンなど日常行動について、問題なくできた。ただ、これまでの経験から、注射の次の日が一番楽ではあるが、効き目は約一週間ほどである。標準退院日はすぎている。入院中はリハビリセンターが隣故、リハビリには便利だが、今後どうすればいいか。」

 

 22日  傷自体は直っているので、退院を25日に決めた。退院は、多少の病院側からの誘導はあるが、自分で決めるものらしい。「明日と言われれば明日でもいいのだが、家人の都合では25日がいいようだ、そんな決め方でいいのでしょうか」と恐る恐る看護師に尋ねると、「ほとんどの人は家族の都合で決めていますよ」とのこと。なーんだ。本日、異動の内示の日だったので連絡を待っていたが、何もなし。どうなったのだろう。

 23日  今日も職場から連絡なく、どうやら異動はないと知る。この腰で知らぬ新しい職場に行くことに不安を持っていたので、安堵する。しかし、私だけ突出して長く居ることになり、特別に置かせてもらっている感が強くて、来年度、居心地が悪かろうとも思う。

 

 24日 リハビリが続く。ウォーキングマシンが目標の距離1,5Km、スピード4,5km/hに到達する。狭いプールでは、いつも何人かとご一緒なので、おばちゃん連中と雑談しながら回る。途中で病棟がかわったある方は、病棟によって看護の手厚さが全然違うなどという病院裏情報を話してくれて、それで1時間の長さを紛らわす。

 25日 午前、外来で再度の問診。骨の痛みは骨粗鬆症の薬で軽減されるはず。私の様子を見ていると、腰痛を気に病んで気分が沈むタイプのようなので、気分を積極的にする薬を処方しようかと言われる。その後、会計を終え退院。昼、夫婦でささやかな外食。午後から、即、ジム通いを始める。計22日間、支払い約36万円也の入院であった。

 2005年03月26日
  退院。自宅療養へ
  昨日、退院し、約1ヶ月ぶりに自宅に戻った。標準退院日より1週間遅れた。腰は相変わらず痛く、全然すっきりしていない。「とほほほほ。」の気分。もちろん、芸能界通にもなっていない。
 入院中、雑感を時にメモしていたが、パソコンに打ち込んで文章化する精神的余裕がない。追い追い形にしていきたいが、今日は、ひとまず、退院の報告まで。
 当分、生活を慣らしていくこと、ジムでリハビリ運動の日々である。
 
[1] 

お願い

 この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。

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