総計: 2522193  今日: 408  昨日: 924       Home Search SiteMap Admin Page
  日本近代文学論究
耽美派(潤一郎・荷風)
ベストセラー論
金沢・石川の文学
近現代文学
書評・同人誌評
劇評「私のかあてんこおる」
エッセイ・コラム
ものぐさ
パラサイト
 永井荷風
作者紹介 略年譜
リンク集
実用的荷風本紹介

永井荷風 


 当初、初期自然主義的作風であったが、アメリカおよびフランス留学より帰国後、清新な作風と文明批評で一躍流行作家となる。耽美派の巨匠。大逆事件目撃後は、江戸趣味に韜晦を深め、花柳小説を発表、偏奇者として独自のダンディズムを貫く。

 『断腸亭日乗』の作者として、また、近年の江戸東京再発見の流行により、東京散歩の達人として、根強い人気を誇っている作家である。

 

(略年譜)

 明治十二年(一八七九)十二月三日、東京市小石川金富町四十五番地(現文京区春日二丁目)に、高級官僚である永井久一郎と尾張の鷲津毅堂の次女つねの長男として生まれる。本名、壮吉。鷲津家に預けられ祖母美代に育てられる。

  五歳、東京女子師範学校附属幼稚園に通う。七歳の時に小石川の家に戻り、小日向の黒田小学校初等科に入学。十歳、黒田小学校尋常科第四学年を卒業、東京府尋常師範学校附属小学校高等科に入学。十二歳、神田一ツ橋の高等師範学校附属学校尋常中学校(六年制)第二学年に編入学。中学時代は、病気のため進級が遅れる。学校が嫌いで漢詩や尺八に親しんだ。一時、両親・弟らと父の赴任先である上海で生活をする。


 明治三十一年、十九歳の時、広津柳浪に入門。翌年、落語家朝採坊むらくの弟子となり、三遊亭夢之助の名で席亭に出入りするも、父の知るところとなり、落語家修業を断念する。


 明治三十三年、巌谷小波を知り、木曜会のメンバーとなる。歌舞伎座の立作者福地桜痴の門に入る。翌年、夜学でフランス語の初歩を学ぶ。英訳でゾラの作を読み感動する。

 明治三十五年、二十三歳で『野心』を処女出版。五月に家族とともに大久保余丁町に転居。翌年、父の勧めで米国に留学する。

 

 明治三十八年、ニューヨークに出、ワシントンの日本公使館で働く。この頃、イデスと交情を深める。正金銀行ニューヨーク支店に勤務。

 明治四十年、父の配慮で、正金銀行のリヨン支店に転勤することとなる。七月にパリを経てリヨン着。翌年三月、銀行を辞職。二か月ほどパリに遊び、芝居やオペラに通い、その後、帰国の途につく。八月に『あめりか物語』を出し、世に注目される。

 

 明治四十二年、『狐』『深川の唄』『監獄所の裏』『ふらんす物語』『歓楽』『すみだ川』などの代表作を次々に発表。この頃が荷風の絶頂期である。新橋の妓富松(吉野コウ)を知る。

 明治四十三年、三十一歳の時、慶応義塾大学部文学科教授に就任、「三田文学」を創刊する。大逆事件の被告を護送する車と遭遇したのもこの年。

 

 明治四十四年、『谷崎潤潤一郎氏の作品』を発表。これにより谷崎が彗星のごとくデビューすることとなる。雨声会に招待される。翌年、本郷湯島の材木商斎藤政吉次女ヨネと結婚。

 大正二年、父死去。ヨネと離別。『戯作者の死』、訳詩集『珊瑚集』。翌年、八重次と結婚。そのことで弟威三郎と不仲となる。『日和下駄』を連載。

 

 大正四年、八重次が家出し離婚。大学も休みがちとなる。翌年、職を辞任。井上唖々・籾山庭後らと雑誌「文明」創刊。『腕くらべ』連載。大正六年より、日記再開(「断腸亭日乗」の開始)。「文明」から手をひく。七年、井上唖々らと雑誌「花月」創刊。

 

 大正九年、三月、『江戸芸術論』、四月、『おかめ笹』。五月、麻布に洋館を新築し偏奇館と命名。大正十二年には、関東大震災に遭遇するがこの偏奇館は無事であった。

 大正十五年(昭和元年)、『下谷叢話』。銀座カフェー・タイガーに通い。

 

 昭和二年、三番町の妓関根歌を身受けする。

 昭和六年、『つゆのあとさき』。関根歌と縁を切る。八年、私娼黒沢きみと知り合う。 

 

 昭和九年、『ひかげの花』。翌年より、私娼街玉の井に通い始める。

 昭和十二年、母死去。葬儀には参列せず。浅草に親しみ始める。

 

 昭和十九年、杵屋五叟の次男永光を養子として入籍。戦時中は『踊子』などを発表のあてもなく書き続ける。 

 昭和二十年、三月、東京大空襲で偏奇館消失。六月、谷崎を頼り岡山におもむく。岡山で敗戦を迎える。

 

 昭和二十一年、『踊子』『勲章』『浮沈』を発表。荷風の健在を世間に印象づける。

 昭和二十三年、市川市菅野に売家を求めて転居。再び、浅草に通い始める。

 

 昭和二十七年、文化勲章を受章。翌々年には日本芸術院会員に選ばれる。

 昭和三十二年、市川市八幡町に転居。

 

 昭和三十四年、三月、浅草で昼食中体調を崩し、帰宅、病臥の生活となる。二十九日、大黒屋での食事が最後の外出となる。三十日朝、通いの手伝いの女性によって遺体が発見される。享年七十九歳。雑司ヶ谷の永井家の墓所に納骨。

      
(「新潮日本文学アルバム「永井荷風」」(新潮社)中島国彦「略年譜」

を中心に幾つかの年譜を参考に作成した。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(荷風墓)

Toshitatsu Tanabe Copyright(C)2004
EasyMagic Copyright (C) 2003 LantechSoftware Co.,Ltd.
All rights reserved.