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潤一郎・荷風

 この頁は、耽美派の巨匠、永井荷風・谷崎潤一郎研究サイトです。論文、エッセイなどがあります。

・遅々として作業が進まず、過去に書いた論文のアップが遅れていますが、徐々に充実させていくつもりです。申し訳ありません。 

  (小論)永井荷風と谷崎潤一郎の交友関係ー「断腸亭日乗」よりみた二人ー

永井荷風と谷崎潤一郎の交友関係 ー「断腸亭日乗」よりみた二人ー
                                                                    

 

一、はじめに
 
 永井荷風と谷崎潤一郎との交友関係は、永井荷風の推挽によって華々しく世にで、耽美主義を自己の文学観となしていたわりには、生涯、面会も恐らく十数回程度、水魚の交わりに終始した感が否めない。早稲田大の中島氏は、そこに、美しき神話を貫徹させるような心理的なメカニズムが働いたのではないかと推察する。稿者はこの説に賛同する。そこで、本稿は、二人の交友関係を「断腸亭日乗」に見える谷崎の記述をリストアップすることで具体的に確認したものである。

一、荷風と潤一郎の出会い

 初対面は、谷崎潤一郎「青春物語」(昭和7〜8年)に詳しい。大先輩格である永井荷風に対する谷崎の初々しい思いが描かれている。
 荷風は谷崎より歳年長であり、谷崎が東京帝国大学在学中、文壇の寵児であった。明治41年7月、荷風が仏蘭西より帰朝した時、谷崎は東京帝国大学入学したてであり、8月「あめりか物語」を発表したのを皮切りに、翌42年、「狐」「監獄署の裏」「新帰朝者日記」「すみだ川」など名作多数発表した時、谷崎は大学二年、最も多感な時期であった。翌年9月、第二次「新思潮」創刊に携わるのであり、11月には「刺青」が発表されるという搖籃期である。青年谷崎にとって三〇歳近い既に流行作家たる荷風は憧憬あたわざる人物である。
 初対面は、パンの会席上である。『青春物語』は後になって書かれた「思い出の記」であり、文壇中堅としての立場、自信などから、かなりはっきりと好悪を開示している中で、荷風については、実に初々しさを漂わせる描写に終始する。

 

  「痩躯長身に黒っぽい背広を着、長い頭髪を後ろの方へなでつけた、二十八、九の瀟洒たる紳士」が会場戸  口に入ってくる。「『永井さんだ』と、誰かが私の耳の端で言った。私も一と目ですぐそう悟った。そして一瞬間、息の詰まるような気がした」

  「最後に私は思い切って荷風先生の前へ行き、『先生! 僕は実に先生が好きなんです。僕は先生を崇拝しております! 先生のお書きになるものはみな読んでおります!』と言いながら、ピョコンと一つお辞儀をした。」 

 

 あたかも芸能人と話をしたミーハーの如くである。この時、荷風は「『有り難うございます。有り難うございます。』と、うるさそうに言われた」とあって、迷惑げな様子である。直ぐに自身が推賞する人物とは考えなかったような態度であったようである。

 

二、荷風の推賞

 

 「一躍、バイロンの如き」と形容した谷崎の文壇デビューは、周知のように、明治44年、荷風の「谷崎潤一郎氏の作品」(「三田文学」11月号)で、荷風が強力に彼を推賞したことによる。この時の互いの人生を、今度は、略譜で再度纏める。

 

        荷風30歳     明治41年  7月 仏蘭西より帰朝
                      8月 「あめりか物語」
                           42年        「狐」「監獄署の裏」 

                     「新帰朝                                      

                     者日記」「すみだ 

                     川」など名作多数発

                     表
                           43年  2月 慶応教授就任
                                   5月  「三田文学」創刊
                                   秋    大逆事件
    
        谷崎24歳    明治41年       東京帝国大学入学
                          43年  9月   第二次「新思潮」創刊
                                11月  「刺青」
                          44年  7月 大学退学
                                12月  単行本「刺青」発刊

 

 すなわち、この時期は、「師匠と師匠によって推された新人」の関係であり、これが、二人の関係のコアになったといえる。この時期の六歳違いは、決定的な人間関係の上下である。
(なお、この推賞文の分析については、別に、稿者に論文があり、それを参照されたい。ここでは省略する。)

 

三、「断腸亭日乗」にみえる荷風と潤一郎

 

    荷風日記に谷崎の名が見える回数は以下の通り。
                                             
    大正年間  (大正6〜15)    5
    昭和(戦前)(昭和元〜11)      19
    昭和(戦中)(昭和12〜20)    33
    昭和(戦後)(昭和21〜33)    13
                     計               70

    それを、便宜的に、用件別に分類すると以下の通り。

 

                           大正 戦前 戦中 戦後    計
   
    1、谷崎との面会       1   3    7    7     18
    2、谷崎来書             1  2  8   2   13
    3、谷崎本の贈呈         0  5  3  0        8
    4、荷風返書・贈呈       2  1  6  0        9
    5、谷崎の消息           1  3  4  1        9
    6、住所録中             0  0  2  2    4
    7、その他               1  4  2  2    9
   
         計                  6    18   32  14    70

 

 大正期から昭和6年まで、荷風日記にみえる谷崎の記述のあらましは以下の通り。

 

1   大正8  8・ 4  谷崎潤一郎氏が来訪。其著近代情痴集

              の序を求められる
2            8・ 8    序を草して返送
3     11    6・29    東都六阿弥陀仏縁起を谷崎に贈る
4     15    1・30    山本有三のかわりに谷崎旧作「信西」

              が舞台にかかるという消息記事
5           12・28    文士にマージャン流行。善くする文士

              の一人として
6   昭和5    5・ 8    来書
7          8・20  離婚葉書来書「余りに可笑しければ次

              に記す」
8       6    5・ 8    「卍」贈呈

 

  年譜的な概説をする。谷崎は、大正前期ごろまで悪魔主義作家として活躍。多くの耽美作品を発表して、若手としての名声を得るが、徐々に通俗の弊に陥り、大正6年、母が死亡。9年、映画に手を染めるなど、一時期低調となる。10年、佐藤春夫と絶交。13年には、関西に移住する。以後、「痴人の愛」「卍」「蓼食う虫」「武州公秘話」と名作を発表しはじめ、中堅として足場を固めていく。そうした時期である。これに対して、荷風は、大正5年、教授を退職。「腕くらべ」発表。6年「日乗」開始。9年「おかめ笹」と中期の佳品を発表していくが、芸妓と男の趣味的な世界を描く作品は、世間の大向こうを唸らせるものではなく、文壇第一線からは後退していく。
  ここに見る二人の関係は、来書や贈答を中心とした、傾向を同じくする作家仲間としての、淡々とした大人の交友関係であるといえる。

 

四、「つゆのあとさき」の前後(批評の季節)

 

 昭和6年から11年まで、荷風日記にみえる谷崎の記述のあらましは以下の通り。

9           10・21    谷崎が改造紙上に「つゆのあとさき」

              の批評を載せたことを記し、返書を                 

              したためる
10         10・27    谷崎より返書
11     7    3・ 8    盲目物語献本
              (谷崎「「つゆのあとさき」を読む」

              を発表。)
12           3・28    「昨秋谷崎君が改造誌上に掲げたる余

              についての批評をも思い出して筆を                  

              とりはじめたる」
13           4・  3    「正宗谷崎両氏の批評に答ふ」を雑誌

              「古東多万」に寄稿

14         11・26    「往年谷崎君の刺青を読みし時」
                             山田一夫「夢をはむ女」の読後感。
15   8  5・15    夕方、歌舞伎座楽屋(杏花子の部

              屋)にて歓談。九時頃別れる
16           8・ 3     芦刈献本
17           9・13     昼、喫茶店で待っていた谷崎に行き

              違い
18         11・ 1     仏蘭西語訳谷崎本「愛すればこそ」

              読む
19         12・ 3     谷崎離縁の新聞記事ありとの伝聞
20   9  5・  9    春琴抄献本
21         11・11     谷崎潤著文章読本好評なり  
22    10   1・26     沢田教授谷崎氏の消息を伝ふ
23           6・ 4     攝陽随筆献本
24    11   1・  5     中央公論で流行の座談記事をつくる

              ため。「営業のため招かれ子なれば                  

              興のらず」

 

  昭和6年、荷風は「つゆのあとさき」(中央公論10月号)を発表。谷崎が批評を載せ、それに荷風が答えて、「正宗谷崎両氏の批評に答ふ」を発表したことは、淡々とした付き合いだった二人の関係を、少々、濃密なものにした。その後も、歓談や献本などの行き来があり、荷風も気にかけていることがわかる。文壇的評価が逆転しかかっていたこの時期、谷崎側からいえば、師匠の作品を褒めることで、師匠の評価の引き上げをはかったともいえる。(各々の作品の本文分析は、省略。)

 

五、戦争激化まで

 

 戦争激化まで、荷風日記にみえる谷崎の記述のあらましは以下の通り。

 

25  15  7・13    「谷崎佐藤の両氏には既に出入りを禁

              止せられるる由」
                           (冨山房版権詐欺関連)
26    16   3・  5    来書
27         12・ 1    谷崎、印を贈呈
28    17  2・26    嶋中氏より電話。鴬谷の塩原にて谷崎

              と共に招飲の依頼。
29           3・ 1   「塩原に至るに谷崎君既に在り」
30         12・31  住所録
31    18  4・25    中央公論の谷崎の連載見合わせるとい

              う伝聞
32           7・30    初昔きのふけふ献本

 

 11年より15年まで、交友が飛ぶが、しかし、その後も、戦時逼迫の中、これまでと同様の付き合いを続けているように見える。

 

六、荷風との再会

 

 戦争激化から終戦直後まで、荷風日記にみえる谷崎の記述のあらましは以下の通り。

 

33         11・ 3    熱海を去り再び関西に移住の伝聞
34         12・ 7    嶋中主催の酒宴に招かれる
35    19   3・ 2    来書明後日来訪という内容
36      3・ 4  谷崎来訪(娘を熱海に疎開させる途中

              という。昨冬鴬谷の宴会で荷風全集                  

              と遺稿の始末についての依頼をした

              ことの打ち合わせ)  
37           5・28    熱海より来書
38      6・30   住所録
39           7・28  谷崎に送書
40      8・ 1  細雪上巻献本 添書中に荷風廃業の噂

              あれど書ありて安心すという文あり
41        12・23    谷崎に送書
42    20   1・ 6    来書 細雪続稿執筆中
43           3・11    かつて谷崎より贈られた印灰の中より

              でてきた
44           6・10   谷崎津山に避難の由
45               24    送書
46           7・ 9    送書
47               15    勝山より来書(住所斡旋の内容)  直

              ちに送書
48           7・27    小包来書。生活品あり感激
                          (31日 小包受領の手紙受け取った

              という谷崎手紙あり)
                           (8月6日付 荷風宛谷崎の手紙あ

              り)
49           8・10     勝山行き切符手には入らず 谷崎に

              送書
50           8・13     谷崎の寓居を訪ふ。長文。谷崎斡旋

              の住居の話。松子の印象など。
51               14     「朝七時谷崎君来たり」以下長文。

              勝山での一日の様子。食事切符の件
52               15     長文。勝山を立つ記事
52               16     礼状を贈る
54         10・ 6   来書。来年正月まで勝山に滞在する

              のがよいという内容
55        11・20     来書。内容の紹介。旧年12月にも

              らった手紙を発表したいというもの
                            (谷崎全集23巻193頁にあり 

              「人間」昭和21年1月号)
56         12・ 1     手紙掲載料として500円が送られ

              てきた
57               10     「谷崎君所贈の硯‥‥」 岡山にお

              いてあった荷物が届いた

 

 谷崎を頼って、荷風が関西にくるこの時期は、二人の関係のもっとも接近した時期である。独身の偏屈者と、家族を持つ家長としての谷崎と資質的に対照的な二人であるが、二人の出会いの初期規定は、ここでも有効のようである。「日乗」や谷崎の文章を照らし合わせてみると、あくまでも「礼を尽くして対応している」谷崎の姿が浮き上がる。荷風側にも、これまでの寄寓や同居の人間関係が悉く破綻している「自己」をよく認識し、谷崎に迷惑にならないように、他の人物より配慮のある対応をしているように見える。「麗しき師弟関係」であるとも言えるが、谷崎にとっては、大事な師匠であるという意味で、荷風にとっては、自分の文学と派を同じくする大事な伴走者であり、大御所になりつつある偉大な弟子であるとい意味で、お互い自分にとって大切な人であり、人間関係を、こうした「非常時の生活」といった非芸術的なレベルで壊したくなかったという心理的なメカニズムが働いていたと見るべきだろう。

 

七、戦後の荷風と潤一郎

 

 終後から荷風の死亡まで、荷風日記にみえる谷崎の記述のあらましは以下の通り。

 

58    21   4・ 4     新生社、谷崎上京の折りに一席設け

              たいとの話があったが、電信にて辞           

              意を伝える。
59    22   6・11     谷崎吉井の二氏御前講演せしという
60           8・ 8     細雪中巻を読む
61         11・10     不在中、嶋中谷崎山本三氏来訪
62               11     嶋中氏、料理店にて辰野博士谷崎氏

              らと饗応うける
63  23  5・30   小瀧氏 谷崎銀座にてきたるを待つ

              という
64  24  8・ 1     住所録
65  25  3・31    谷崎、佐藤観氏と谷崎の宿泊せし旅

              館にて「快談十時に至る」
66           5・25     来書(谷崎全集410)
67  28 10・ 3     住所録
68                4     来書(谷崎全集489)
69    30  6・22     嶋中谷崎来話
70    33   9・ 9     嶋中氏来話車で永田町へ。谷崎ら来る。

 

  互いに居住場所も離れており、老齢化などによって、戦後の関係は希薄になる。戦後、書きためた作品発表などで、二人は大家の復活として読書界に迎えられたが、荷風にかつての長編の筆力なく、その後は、奇行がジャーナリズムに喧伝されることとなる。長年の交友を考えると、晩年の二人の付き合いは少々寂しいものがあるが、長生きした谷崎は、荷風を忘却した訳ではなかった。晩年のエッセイにも、時折、荷風の名が見えるし、自己の老廃を、師荷風に比して考えているところもある。その作品化が「瘋癲老人日記」である。掛け軸の挿話に荷風の名が出てきたり、主人公に荷風のイメージが重ねられている部分などからそれが知られる。

 

八、まとめ

 

 淡々とした付き合いではあったが、同じ考えを持つ芸術家同士、2人は、「師弟関係」を一つの核として、生涯、美しい関係を保ったといえよう。ただ、そこには、痩身気質と肥満気質の違い、武家町育ちと下町育ちなど、生活観の違いなどがはっきりあり、お互い密着すれば破綻するということも重々わかっていた。それが、いわば、つかず離れずの関係となり、交友を長く存続できた理由なのであろう。
 谷崎は、晩年の随筆の中で、先生も私には遠慮されている風があり、私も気の置けない風にはできない気持ちがあったという内容のことを正直に述べている。文学史上、二人には、世の誰でも知っている一つのエポックな出来事があり、それが自己の原点になっている。生涯、谷崎にとっては荷風は先生でいてほしいのであり、いてくれなくては困る。崩したくない関係である。この、交友がお互いの自我に関わるような深いものになって壊れることを恐れる気持ちは、確かに人間としてよくわかる自然なものであろう。冒頭指摘したように、お互いの出自を固定化し、美しき神話を貫徹させるような心理的なメカニズムが働いたという所以である。

 

(平成十一年一月十六日(土)金沢近代文芸研究会例会発表要旨)

    [1] 
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