ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
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エイコーン公演「令嬢ジュリー」を観る
1888年、ストリンドベリ作の古典的作品。私は1991年、無名塾の仲代達矢で観ているので、二十年ぶりの再会。あの時は仲代の個性が表立っていて、男性のほうのジャン中心の印象が強かったが、エイコーン主宰の今回の芝居は栗原小巻主演で、こっちは芝居のタイトル通り女性中心の印象。その意味で、こちらの方が正統なのかもしれない。 彼女がこの役をしはじめてからも結構長い。彼女の芝居は、どうしても彼女一人がしゃかりきとなって、逆に全体が沈んでしまう印象のものばかりであったが、今回は、判りやすい筋立てなので、それが悪い方向に出ることはなかった。 しかし、それでもやはり彼女中心主義であることには変わりなく、演出もそうなっている。おそらく台本を真摯に読めば、ジャンの貴族に対する屈折した心情もかなり対等に扱われているはずで、そうした意味で、やはりこの芝居も「まず栗原小巻ありき」の芝居であることには変わりない。 仕方がないことなのかもしれないのだが、全部そういう印象では、金太郎飴的な単調さが感じられてしまい、「ああ、いつもの栗原の芝居ね。」といった感じで、飽きられてしまうのではないかと思う。 それでも、無名塾に較べれば、今回のほうが、令嬢の奔放な性格やプライド。母親は低い身分だったことへの屈折した心情など、シンプルに理解できて、よかったのではないかとは思う。ジャン役の清水紘治も熱演。 クラシックな芝居。こうした身分の差がもたらす悲劇は、今の若い人には今一歩実感的に理解できないかもしれない。我々世代だって、もうそんな時代ではないが、人生経験上、読書や勉強によって、昔の雰囲気を架空実感的に身につけているのでなんとかなるといった程度である。 最後に話は脱線。今回、この文章を書くのに、無名塾公演がいつだったか市民劇場のHPで調べた。そのあたりに観た芝居は皆はっきり覚えていて、もう二十年が経過していることに驚いた。逆に最近のがおもいだせなかったりする。 入会して、ということは、自分のお金で芝居を見始めて、もう四半世紀をゆうに超える。上演演目表をみながら、ちょっとくらくらした。いったい自分はこれまでいくつの芝居を観てきたのだろう。熱心な芝居ファンという訳でもないのに、「観客のベテラン」(変な言葉!)になっている自分を発見する。 (2010・6・6)
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