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 この頁は、耽美派の巨匠、永井荷風・谷崎潤一郎研究サイトです。論文、エッセイなどがあります。

・遅々として作業が進まず、過去に書いた論文のアップが遅れていますが、徐々に充実させていくつもりです。申し訳ありません。 

  (論文)谷崎潤一郎『台所太平記』ーその成立と意義について

(論文)谷崎潤一郎『台所太平記』ーその成立と意義について

 

 谷崎潤一郎に関する研究は、彼の名声に較べ未だしの感が強い。特に最晩年については『瘋癲老人日記』(昭37)を集大成として総括するを以って終っているものがほとんどである。確かに、ある意味で、この作品は、彼の文学の究極の主題を達成しているが、その後、谷崎は三年生きながらえ、最後の長編として『台所太平記』(昭37〜38)を完成させている。この小説は、週刊誌掲載の軽小説故、些か軽視される傾向にあることは否めない。しかし、稿者はこの作品が作者自ら自己の文学軌跡を締結させようと目論んだ重要な意義を持つものであると愚考している。そこで、本稿では成立過程を後付けながら、その意義について若干の考察をなし、今後の晩期谷崎潤一郎論進展の一助としたい。

 

 『台所太平記』は、週刊誌「サンデー毎日」に連載されている。谷崎と毎日新聞社との関係は古く、戦前から新聞小説等でつき合いがあり、当時の社長奥村信太郎とは交友もあった。戦後も『少将滋幹の母』(昭25)が連載されたり、昭和二十七年から二十八年にかけて断片的に発表した短随筆の類もある(註1)。こうした中で、野村尚吾が知遇を得たことは夙に知られている。晩年には、新聞学芸欄宛の用件まで当時週刊誌担当の彼に依頼されたという。いわば良好な関係であった。
 野村の証言(註2)によれば、最初の執筆依頼は、昭和三十年九月、『鍵』(昭31)執筆の頃で、脱稿後取りかかるという約束であったが、一社員との口約束にすぎぬこともあり、健康上の理由も加わって遅延したという。但し、これには作者自身、週刊誌というメディアにどのような作品が適当か判断に苦慮していた事情もある。「台所太平記掲載予告−週刊誌は三度目」(「サンデー毎日」昭37・10)には、「サンデー毎日には随分前から小説を書く約束をしてゐて、長い間果たさずにゐた。実は週刊誌にはどう云ふものが向いてゐるか、ちよつと見当がつかなかつたし、『鴨東綺譚』で失敗したこともあるので、簡単に書き出せなかつたのである。と率直に告白している。また、野村の証言にも、週刊誌に対して、「列車の座席などで、尻に敷いているのを見ると、いやでね。」と、自分の書いた場合を想像してか、不愉快そうにいわれた。と、余りよい感情を持っていなかった旨が述べられている。ここには、昭和三十一年「週刊新潮」の成功に端を発する爆発的な週刊誌の氾濫に対する旧文壇人の戸惑いと嫌悪の情が含まれていよう。
 本作は「予告」にあるごとく三度目の週刊誌連載である。一度目は、火付け役「週刊新潮」の創刊号を飾った『鴨東綺譚』で、モデル問題を起し中絶。二度目は、随筆で、長編小説は初めてといってよい。当初は『武州公秘話』(昭7)の続編を予定していた。この作品は、連載予定の一年で筋が半分しか進まず、一応、最終章を改稿し、完結とした未完の作で、いわば三十年来の懸案であった。「新青年」という発表の場からも窺われるように大衆小説を企図したもので、谷崎は当時の娯楽雑誌の延長上に週刊誌を考えたわけである。
 『武州公秘話』が持つ大衆性は、昭和二年の有名な芥川との論争で自覚された文学観の反映に他ならない。『饒舌録』における例の「構造的美観」説は、「詩的精神」を推奨し純粋小説を夢想する芥川を含め、自然主義的傾向が蔓延する文学界への反措定として提出されたものだが、それ以上に、論争によって彼自身の文学観の検証を強いられた点に注目したい。「筋の面白さ」を重視、「高級なる通俗小説」を主張する指向は、大衆文学隆盛の気運にも乗って、「過去何年かの自然主義時代、心境小説と云ふものを文学史的に見て、結局それは今日の大衆文学時代を生み出す準備期であつた」(註3)という、芸術派、プロレタリア文学など当時の有力派閥を無視した過度の思い入れに発展していく。彼としては珍しい理論先行の意識であった。実作として表紙に<大衆小説>と大書した『乱菊物語』(昭5)が草されるが、内容が空虚で奇抜な構想や文体的配慮に頼る小手先操作に終始し、不評の為中絶したのは周知の事実である。自らの文学観の若干の類似から大衆文学を一方的に理解し、大衆の要求嗜好に無頓着だったため、しっぺ返しを受けたのである。この理論が彼の文学世界を言い当てているものではないのはもちろんのことである。『武州公秘話』はその点かなり成功しているものの、『鴨東綺譚』の失敗もあり、彼は決定的にこの方面に関して臆病になっていたと推察される。七年近くも執筆が遅れたのは如上の理由による。
 結局、続編とならなかったのは、時代小説では難漢字が多出し、若い口述筆記者では無理と判断したからである。

 では、なぜ代替として<女中物語>を発想したのであろうか。谷崎は高齢と狭心症発病以来、臥床がちとなり、加えて視力低下で、書見、テレビ視聴も安易ではなく、唯一ラジオを友とし、「どうして時間を過ごしたらよいか、一日所在なさに苦し」む毎日であった。「ちよつとしたはずみにもすぐよろけさうになる」ため、余程の用件以外は自宅で安静にしている他なかった。こうした行動の制限があっては取材が思うに任せず、知り得る情報の多くは家庭内の事件が中心となる。家庭内で立ち働く女中を素材としたのはよい着想といえるだろう。また、家庭のことに取材している限り、モデル問題の心配も無用である。その上で、作品冒頭部分で小説故潤色がある旨の記述まで配して、くどい程釘をさしている。
 しかしこれら現象的な側面よりも重要なのは、作者の内的必然性の問題だろう。谷崎の創作が現実生活の芸術化という過程を経て形成されていったのは周知の事実だが、松子夫人に対する拝跪の仮態は、この時期、自らの老悖によって崩れ去り、新たな転回を余儀なくされていた。『夢の浮橋』(昭34)が、「松子夫人との世界を一応昭和初期のような形からは渡り終えたという表明」(秦恒平)(註4)と規定すれば、その後松子夫人は直接創作力を喚起する存在ではなくなったこととなる。相手側の責任ではなく自らの不可避な事態からであるところに彼の苦悩は深い。だが、いかに老残の身を晒そうと現状の範囲で新たな仮想対象が必要であった。それが『瘋癲老人日記』の時期の渡辺千万子であり、最晩年、もう一人対象が移行した気配がある。この点は、既に「倚松庵の夢」に、

 

夫との永劫の別れを告げる十日程前に、私は禁句を舌端に載せてしまった。それもいそいそと気に入られていた人を連れて行こうとする人の背に……是だけの気力を取り戻したことを喜びながら「長い間心配ばかりした私をおいて」と云いながら顔を掩い寝室のベッドに打ち伏した。

 

とあって、ある程度推量はされていた。ところが先年、稲沢秀夫氏が湘竹居を訪問、その際、長年谷崎家に勤めている女中に次のことを聞き出し、輪郭が把めてきた。

 

あれ(稿者注ー最後の気に入りの女人)は重子さんじゃありません、お手伝いさんです、三人いましたから。千万子さんは先生がお亡くなりになられる前の年から、もう完全にこなくなってらっしゃいましたね。お気に入りのお手伝いさんがいたんです、二人で出て行ってね、どこへ行っちゃったかわかんなくてね、映画とか、あちこち見にいらしたらしいですよ。トンチャンね。それで奥さまへ電話かけようと思うんだけども、かけてる暇がなかったって言うんですね、先生に付いて行かないとそれこそこわいしさ。先生のずいぶんお気に入りだったんですよ。(中略)どこへいらしったかわかんなくなって、あっちこっち電話して。それで、先生は「死んだっていいよ。」って言って出て行ってしまって。(註5)

 

長年連れ添った夫人を顧みず、死をも覚悟で「トンチャン」なる気に入り女中と外出していくーすぎましい生の裸形が語られている。事実がある程度公表された現在、最晩年の本作が女中物語として現われたことを想い合わせると、作品的には特定の女人として形象化させているわけではないが、彼の仮想がいかに創作の根幹となっていたかに思い到るのである。この場合、具体的氏名の詮索や、作中人物のいずれに当てはまるか等の推理は邪推であり無用であろう。

 谷崎晩年の作は、個人的な欲求を追及する余り、同時代としての社会性、今日性を喪失してしまっているのではないかという疑問が呈示されている(註6)。つまり、読者は作者の趣味を全面的に承認して物語世界に入っていくか、あるいは全否定するか、二者択一しかないという批判である。これは多く『瘋癲老人日記』の折にあったもので、首肯できる面もあるが、『台所太平記』に関して言えば、一見、大時代的に見えて実は逆説的なアクチュアリティが指摘できる。確かに、作風は激動の三十年代の時代性を無視した鷹揚な書きぶりであるし、一応、冒頭部で断り書きがあるとはいえ、当時、既に使用がはばかれつつあった「女中」という言葉を用いる等、家夫長制を容認した時代錯誤の懐古趣味に堕しているとの批判があって当然だろう。
 だが、はたして単純に裁断してよいものか。
 当時の社会状況を振り返ると、高度成長初期に当たり、戦前の家族制度が崩壊、空洞化した後、十年の遅れで核家族という型が形成され定着をみた時期である。郊外の公団住宅から都心に通勤する勤人層が均質で中間的な文化状況を体現している。彼等にとって「お手伝いさん」を「女中」と呼ぶ人種は旧時代人としか映らないが、現実問題として考えれば、自分達は今の生活で手一杯、望んでも得られない経済状態である。父の時代はよかった。この本音ではあるが民主主義の錦旗の下では禁句である心情が無意識に蓄積されていたのではなかったか。情報収集源として通勤の車中で読み飛ばされる週刊誌によって自分も社会参加をしているのだという安堵感をえる作用をしているという分析があるが(註7)、この論法を援用すれば、週刊誌で女中物語を読むことである種のカタルシスを感じたのではなかろうか。偶然性も多分にあるが、これが効果的に作用し、好評をもって受け入れられたと思われる。
 大衆を意識する以上、文体は平易を旨とせねばならない。文体に関しては、既に『当世鹿もどき』(昭36)で実験済である。この随筆は全編「〜でございますな」調で書かれ、「御退屈様」で終る<語り>を採用している。「はしがき」によると「落語家の口調を真似て書」いたという(但し、「時々地金を現して小説家口調とな」ったと反省しているように些か統一性に欠ける)。『台所太平記』もこの応用というべく、落語家口調といえる程崩していないが軽妙な<語り>が大きな魅力となっているのは論を待たない。
 谷崎文学の場合、<語り>は文体の問題を超え、本質に根ざしている。特に晩年の<語り>手法は口述筆記に負う所が多い。従来の懲った文体を口授でも続けようとすると一度脳裏に浮かんだ章句を頭の中で推敲の上、口述せねばならず難儀な作業となる。しかし『当世鹿もどき』のような文体は口調がそのまま文体となる分、楽な設定である。野村によれば、往時の毛筆書きに較べ枚数が進むようになったと語ったという。谷崎は、この利点を最大限に生かそうと試みている。『或る日の問答』(昭35)は、AとBとの問答形式の随筆で、Aが谷崎、Bが質問者にあたる。質問を作者が適宜設定すれば後はインタビューと大差なく、安易な活用法である。
 口述による<語り>の手法は年を追う毎に手慣れたものとなる。最晩年の『おゃべり口』(昭39)は若い有閑夫人が友人にアバンチュールを得意気に告白する文体で、七十八才の作とは思えぬ程、当世夫人の若々しい口調が表現されている。ただ、いずれも短編で、長編としての軽味の口調は、やはり『台所太平記』に止どめを刺すといえよう。

 前述のような曲折を経て、谷崎が実際に執筆に取り掛ったのは新聞記事に従えば(註8)、『瘋癲老人日記』脱稿の昭和三十七年春頃で、この作品の成功によって口授に増々自信を深めつつあった時期である。五月下旬に最初の稿が成ったが、谷崎側が全巻脱稿後の連載を主張、出版社側の要請に折れて、順次手渡す段取りに決まった。六月七日付野村宛書簡に、気候の不順と狭心症の発作のため、完結が遅れるかもしれないとの文面が見えるが、七月二十六日付には「唯今原稿(五)から(八)までお送り致します」とあって、比較的順調に進行している。脱稿は、十一月下旬頃と推定できる。
 執筆に大きく関わったのは渡辺千万子である。『瘋癲老人日記』では生活の芸術化のための仮想対象としての存在だったが、この時期の二人の交渉は、手紙のやりとりが中心で、よき批評家、相談者としての役割に比重が移ってきている。

 

近頃人にホメラレルことが多いので却てウヌボレていけません遠慮のない批判や非難をして下さるのはアナタだけですそのつもりでどしどし教えて下さい。(註9)

 

と厳しい批評を乞うているのは、その昔、佐藤春夫の酷評を好んだ挿話を想起せずにはおかない。また、別の手紙では、

 

この間或る人から「君には誰かブレインが附いてゐるんぢやないか、でなければ近頃の作品のようなものは書けさうもない」と云はれました、そのブレインが一人の若き美女であることを知ったら驚くでせう。(註10)

 

と実に茶目っ気たっぷりに書いている。もちろん、これもーつの谷崎らしい仮態であり額面通り受け取ることはできないが、例えば、次の文面等を見ると、実際に助言者として千万子に大きな信用と期待をかけていることが知られる。

 

本日別便で「台所太平記」(一)から(八)までのゲラを送ります(中略)このゲラは御返送には及びません、あと又印刷出来たら送ります、それから文章上の注意を与へて下さい、何かヲカシイところがあつたら訂正するから指摘して下さい。(註11)

 

晩年の谷崎における千万子の位置は、壮年期の松子夫人のそれとは同じ仮態といっても少しく異なっている。特にこうしたブレインとしての役割は松子夫人に対して求めなかったものである。千万子との関係についての分析は後日を期すことにして、ここでは千万子が、ブレインとして本作に目を通し意見を述べた点を確認するに止どめ、以下、その意見が完成に多大な影響を及ぼしたことについて、二人のやりとりを見ながら考察していきたい。

 

 『台所太平記』は冒頭に「幾分の潤色」を加えていると断ってはいるが、基本的には、「実際にあつた人たちのことを、その通り記載する」方法で書かれた。作者の実生活に詳しい野村尚吾も「概して事実に則して措かれていて、虚構はほとんど見られない」(註12)と証言している。転居経過も年譜と一致する。豪放磊落の意を込めた命名の磊吉は、無論、作者の分身で、自己規定でもある。しかし、主人公は彼ではない。「女中がいろいろ出て来るけれども皆ポッくと?断片的に出て来るだけで中心人物と云ふものがありません」(註13)と千万子に私信で述べているように、<女中群像>とでもいうべきものの抽出が主眼である。
 登場の女中は二十名を超え、特に大きく扱われている者だけでも十名近くに及ぶ。その中で、ほぼ全編を通じて登場するのは、初という女性である。不器量で「風と共に去りぬ」の黒人召使いに似ているという彼女のことは、第一章で詳しく紹介されている。磊吉夫婦が、結婚、所帯を持った時から居り、以後、登場する女中の多くを呼び寄せるという設定からみても一応彼女が中心的な役割を占めている。

 作品は、昭和十年より始まる。初に続いて、第二章に初の従妹えつが登場、第四章の戦争終結まで、この二人を中心に展開していく。第五章に梅が登場、彼女の療病発作の様子が詳しく措かれ、第六章では昭和二十五年熱海大火の折の女中連の奮闘ぶりが描かれている。ここまで、ストリィーは直接的な時間軸にのって進行しており、今後もこのオーソドックスな方法で運ばれていくかに見える。ところが、作品は中間部から時間軸が崩れ話が前後するようになっていくのである。
 何故、こうした展開になったのであろうか。
 この疑問に有力な示唆をあたえるのは、次の千万子宛書簡である。

 

「磊吉」は私がモデルなので、なるべく中心人物にしないやうにするつもりでしたが御指示にしたがひ彼を狂言まはしにするやうに今(九)の初めから書き直してゐますコンナコトも君でなければ思ひつきません。(註14)

 

これより、谷崎が千万子の助言を入れて、磊吉を狂言まわしの役にするため、改稿した事実が明らかになっている。助言を受け入れた背景には、前掲ゲラ送付の手紙の続倍の中で、「文章上のことも是非注意して下さい、もう少し滑稽味を加へて書いてはいけないでせうか如何」(註15)と助言を乞うていることから、既に「滑椿味」を加える腹案を持っていたことが挙げられよう。その手段として千万子の意見を採用した、あるいは既に決めていたことをあたかも意見に従ったかのように粧ったといえる。事実、第九章には、この作品の中で最も印象的な事件の一つである女中小夜と節との同性愛現場の発覚の場面がある。自分のベッドで行われていたことを知った蒲生夫人の行動、

 

窓から首を出してペツペツと唾を吐いて、ベッドの掛け布団をさも不潔さうに指の先で摘み上げて、庭へ放り出しました。(中略)クションだの、シーツだの、マトレスだの、いろいろなものが二階から外の芝生へ降つて来ました。

 

等の描写には、明らかに喜劇的なデフォルメが感じられる。そして、これ以降、滑稽味を加えた描写やエピソードが多く現われる。第十章では、「駒はさまざまな奇癖に富んでいましたので、突飛なエピソードが沢山あります。」として、肉を菜箸で持って切る話、男性の精液は何処の薬局で売っているかと真顔で尋ねた話、ゴリラの物真似が上手という話等々、女中の楽しい挿話を列挙していくようになる。第十一章では、割り込むような形で鈴を紹介、彼女の逸話を中心に、第十二章では銀が登場、同章後半では再び初を登場させて、その後の人生を説明している。そして、第十三章は定の話が中心となって進行していく。つまり、「滑稽味」を追求していった結果、女中別のエピソード集成のごとき態を示し始め、そのために磊吉夫妻の生活史という直線的な時間軸を失ない、読み手は順序だてて理解しにくくなっていったのである。磊吉を「狂言まはし」とした結果とはいえ、思わぬ弊害となった。
 こうした事態を収拾する策として、作者は、第十四章冒頭に到って、

 

話は大変ややこしくなりますが、ここでちよつと、終戦以来何回となく場所を変へました千倉家の居住地のことにつきまして、説明を加へておきます。

 

と、エピソードの羅列を止め、転居経過を簡単に説明、各々の挿話がどこで起ったものであるかに触れている。これによって、ようやく事情が掴め、物語展開上の混乱を一応解消させているのである。この章以降、筋の中心は百合と銀と光雄の三角関係の話で、数章に及び、大きな比重を占めている。この部分は喜劇的要素が影をひそめ、現代若者同士の恋の鞘当てという比較的シリアスな問題を描いており、中間部のユーモア溢れる華やかさに較べて地味な印象である。これは混乱の収拾をはかった後、再度、時間軸を戻し、三角関係というまとまった題材を詳叙することで作品の散漫化を防ごうとした処置ではなかったかと推察される。
 このように、作品を詳細に検討すると、途中方針の変更や改稿等があったこともあり、構成面や展開に多少の不統一が見られる。このままで完結していたならば確かに不備として目立っていたかもしれない。しかし、作品は結末部に磊吉の喜寿祝賀の会を置き、登場した主要な女中達が一堂に会する設定となっている(註16)。それによって、滑稽味を加えるため幾分デフォルメされていた人物や、ある程度シリアスに描かれていた人物に、各々相関ができ、不統一のまま投げ出されるのを救う作用をしている。この結末部は、文字通りストーリィーに結着をつける大団円ではあるが、不備解決の手段としても実に有効であった。
 全般的に谷崎の結末のつけ方は『蘆刈』(昭7)の例をひくまでもなく秀逸なものが多い。ただ、この作品に限っていえば、余りに大団円然としていて、戦前の娯楽小説のごとき古風な印象を受ける。そして、この結末さえも、

 

『台所太平記』の末尾のところ、女中たちの喜寿の会にしてよかったと思ひました。家内があそこを大変いい思ひつきだと云ひましたのでアナタの思ひつきだと云つたらひどく感心してゐました。(註17)

 

という書簡から千万子が関与していたことが知れるのである。
 谷崎の晩期作品全体の傾向として、前半に比して後半部が生彩を欠く龍頭蛇尾の弊を指摘されることが多い。『鍵』のプロットの変更については拙稿(註18)を参看されたいが、その他の作品をみても、例えば『幼少時代』(昭30)は、前半項目別に年を追って語られているにも拘らず、途中、歌舞伎や茶番劇の思い出等で脱線し、『青春物語』(昭7)との間に語られぬ空白の年を作っている。『三つの場合』(昭36)も、狭心症の発作のため、中心をなすべき「三、明さんの場合(細雪後日譚)」が日記の抜粋のごとき未整理なままの文章に終っている。また、冒頭部で松子夫人との関係を大胆に告白する『雪後庵夜話』(昭38)も、後半は些か尻切れ蜻蛉で、「老人らしいだらしなさを露呈」(稲沢秀夫)(註19)させている。いずれの作も高齢と病気による持続力の低下が作品の完成度をおとしている。もちろん、谷崎も重々承知しており、「老人はややもすると気力がゆるみ気味になります。今後もどうかドシドシ活を入れて下さい。」(註20)と千万子に懇願している。『台所太平記』の不統一も、単に予定変更をしたためばかりではなく、こうした作家の持続力、集中力低下の面からも考えねばならないであろう。後半部の三角関係の詳しい記述は、悪く言えばダラダラとしてしまりに欠け、テンポのある前半とのバランスを崩している。
 この末尾の部分について、脱稿後、千万子に宛てた書簡の中に次の一節がある。 

 

台所太平記の末尾、早速アナタの御指摘に会ひギクリとしました。本日家内宛のお手紙にもそのことが書いてあるのを見、恐くなりました。ああ書いてしまつたものを書き直すことはなかなか困難ですが単刊本の時に何とかするつもりです。しかし今となつてはお気に入るやうに直せるかどうか疑問です。(註21)

 

はたして、千万子がどのような指摘をしたのであろうか。この点、渡辺たをりが、近年、母千万子に聞いた所によると、「従来の彼の作品と違う、軽いタッチの作品創りに書き手があきてしまったのではないか、といったようなことを手紙に書いたらしい」(註22)。何分当時より二十年の歳月が経過しており正確とはいえないが、この証言が正しいとすれば、おそらく後半部テンポが落ちていることに対する指摘はではなかったろうか。ただし、文面ではもう少し限定された部分についての指摘のように受け取れるが、千万子の手紙が現在公にされていない以上、詳細は不明という他はない。

 老人が死に直面し人生の終着点が予想され始めた時、彼の<生>はこれまで歩んできた人生の中から、求めることとなる。その遡行は普通の老人の場合、記憶頼りのおぼつかないものとなりがちであるが、作家の場合には「作品」という道標がある。谷崎も安静の消閑として「自分の旧作を読み返す」ことで「自分の足跡を繰り返して辿って」いる。好都合なことに、昭和三十二年に新書版谷崎全集が刊行(昭和三十四年完結)され、補訂かたがた自らの作品を再読、過去を反芻する機会を得た。

 

私は繰り返し繰り返し飽くことを知らずに読む。作品とともに、それを書いた当時のさまざまの記憶も蘇って来る。あの当時の若さでよくもこんなものが書けたなあと、我ながら感心することもある。(註23)

 

そして、長年の創作生活を振り返り、

 

山の頂辺から遥かな麓を見下すのに似た眩暈を覚え、自分は図らずもこんな所まで来てしまつたのかと、眼がクラクラすることがある。

 

との感懐をいだく。「手が利かなくなり、眼が鈍くなり、耳が遠くなり、体の節々の何処が始終故障してゐる」状態において、「消閑の方法は、創作をしやべつて人に筆記して貰ふことと、五十九年間の旧作の山をほじくり返して、彼方此方を読み散らして遠い昔を偲ぶこと、この二つに尽きる」という。単に懐旧ばかりで無為に日を送っていないのは流石だが、その創作活動にしても、「創作力が旺盛である故ではなく、仕事をしてゐる間だけは肉体の苦痛を忘れることが出来るから」執筆しているのだと告白している。つまり、当時の谷崎にとっての創作活動は、純粋に仕事として行なっているというより、肉体の苦痛や、押し寄せる死への恐怖等から一時的でも解放される手段として行っている訳である。だから、

どんな作品になるか自分にはわからないし、自信もない。ただ 原稿を買つてくれる人があるので、それが励みにはなつてゐるけれども、多分買ひ手がなくなつても私は話すことを止めない。

という、彼の<生>と切り離すことのできぬ主体的欲求から発せられた要請なのである。語られる内容は、「遠い昔を偲ぶ」ー懐旧の情が中心で、これは何も谷崎に限らず老人に普遍的に見られる感情である。ただ、それを主題として、老残の苦しみを逆手にとって、創造力を活性化させ創作に昇華していく、その芸術家としての執念には非凡なものがある。多くの大家が、晩年、筆力を失ない、名声のみですごすことを考えれば、彼の良い意味での<あがき>は特筆に値する。作品の完成度は壮年の作に較べ落ちると言わざるを得ないが、この点を評価してしすぎることはなかろう。彼の<生>のアイデンティティは、まさしく、この創作の原動力となった自己解放と懐旧という両輪にしがみつくことでかろうじて保たれていたと推察される。
 このため、晩期作品は、思い出話や自作自解が多くなる。例えば、『雪後庵夜話』は、前述の冒頭以外は、「源氏物語」訳に際しての、山田孝雄、岡崎義恵との思い出、『お艶殺し』についての森鴎外の評価、『顔世』等脚本についての評価、『蘆刈』秘話等が述べられている。その他の短文も、序文、紹介文を除くと故人を偲ぶものが多い。こういう見方をすれば『台所太平記』も「多少風変わりな長編随筆」(野村)(註24)として、松子夫人と所帯を持った頃から現在までの日常の家庭生活の歴史を反芻していってできた作という見方も可能であろう。 
 特に、この作品には、旧作と関連した話題が配置されている点、既に指摘がある。糺の森横の自宅の「合歓亭」で、女中に按摩や手習いをさせているが、この場所は、『夢の浮橋』では、文字通り母子相姦の「合歓」の場となった所である。また銀の子武の名は茅渟似の弟として出てくる等々。『台所太平記』が、より私生活を写しているので、こうした手法は、創作の舞台裏の紹介のごとき意味合いがあるのであろう。谷崎文学愛好者であれば、思い当るふしがあるように書かれており『雪後庵夜話』等の随筆のごとく直接書かれているわけではないが、読者にそういう楽しみもあたえるよう配慮されている。
 森安理文もこの点について、

『台所太平記』を読む楽しみは、そういう風に自在に勘ぐりを 働かせることにあって、作者自身もまた、そういう読者の心理を十分に見透した上での工夫を綿密にはりめぐらしている。(註25)

と述べている。本来ならば、邪道な読者の<読み>を逆に利用したあざやかな手腕といえよう。これは旧作との関連に限ったことではない。例えば、もっと低俗な勘ぐりもできる仕掛けになっている。夏の晩、女中が大福餅のごとく重なって寝入っているのをゴルフ教師新田が写真にとり、妻讃子に取り上げられたという話には「磊吉も見せてもらへませんでした」とわざと断りまでしてあって、本当は谷崎の体験ではないかと勘ぐれるし、無知な駒に枕絵を見せて解説するのは讃子ということになっているが、これも谷崎ではと邪推できる。無論、根拠はないが、こういう書き方自体、「作者のフィクションの工夫、犯罪でいえばアリバイの手口」であって、「作品の読みどころの一つ」(阿部昭)(註26)として容認されてしかるべきなのである。
 この手口が最も有効に発揮されているものに、磊吉のフットフェティシズムがある。初は「いつでも雑巾で拭いたばかりのやうな、サラリとした、真つ白な足の裏」が魅力的だったとし、「磊吉は足の裏の汚れている女が嫌ひでした」と述べている。作者の足への執着は周知のことで『富美子の足』(大8)などに代表される長年のモチーフだが、これが『瘋癲老人日記』で集大成された後に再び現われたことに注目したい。『瘋癲老人日記』の主人公督助の妄我は、息子の嫁颯子の足の拓本をとるという行為に一つの頂点を迎える。その常軌を逸した醜態を描き得た作者の視点は、自己を戯画化した客観の高見にある。しかし、設定があまりに作者の身辺と酷似しているために、作者の実像は逆に把みにくいものとなる。例えば、督助が作者と等身大に解釈されてしまう危険性もある。これは手練手管としてわざと二重写しの方法を採用したために起った混同で、『鍵』では俗物批評に悩まねばならなかった(註27)。『夢の浮橋』でのあやうい母子相姦の秘儀の主題追求を含め、昭和三十年以降の谷崎は、日本の美を追求した文化勲章受賞者という安定したイメージを超越した、性を直截に追求する老練な老人という新たなイメージが加わっている。督助はその主題の究極の達成であることは間違いない。しかし、『台所太平記』の磊吉のフットフェティシズムは、妄執といったアブノーマルなものではなく、足の汚れている女性は嫌いという、清潔好きの人間が他人の清潔度を測る視点といった程度の扱いで現われているのである。確かに、この作品にはエロチックな話題が多い。だが、『鍵』『瘋癲老人日記』のごとき異常性をことさら追求してはいない。大変、健康的なものである。
 この健康的な明るさは、長編最終作という事実に照らせば、ある特別な意味が込められていることに気付く。それは晩期三部作が作者の夢想から織りなされるインセスチェアスな感受性を培養させたものであるのに対して、老いによる懐旧という常識人としての立場から極めて全うな主題を選ぶことで、前三作を相対化させようと目論んだのではなかったであろうか。異常な足への執着を示す督助は、健康人磊吉によって相対化される。読者は否応なく磊吉に現実の作者を重ねるであろう。そこが作者の狙いではなかったか。常識人谷崎を印象付けることで、異常性癖の主人公と同一視されることを回避し、自己防衛をはかったと。実際、これ程明るくユーモア漂う作品は見当らない。女中がしでかす失敗やなまりの強い方言を楽しく紹介して爽やかであるし、磊吉も実に若い女性に対して寛大である。(唯一、小夜の書き置きに立腹する件に気性の激しさが垣間見られる。)『瘋癲老人日記』との差異は大きく、これは謂わば「『瘋癲老人日記』のカリカチュアの要素も加わっている」(野村)(註28)といえよう。無論、『瘋癲老人日記』自体が老醜の自己を客観化したカリカチュアとしてあるのだから、カリカチュアのカリカチュアということになる。返転の返転として、陽性的世界での自己戯画化が磊吉の姿なのである。とすれば、『台所太平記』の明るさを真実と受け取ること自体も、谷崎の策にはまることとなるかもしれない。
 この点について、秦恒平氏は、『雪後庵夜話』を例にとり次のように指摘している。

 

『雪後庵夜話』自体が非常に大きな弁明と韜晦、それから自分の作家生涯の姿形をある程度整形して、谷崎文学として有効なところはそれを自分で承認して事実にしてしまう、不必要な 都合の悪いと言ってもいいでしょう、そういうところは切り捨ててしまって触れない。そういう形で谷崎潤一郎の人と文学についての印象を固定させる役割が強い。これが『幼少時代』以降の、むしろ谷崎が語る自己史全体のはっきりした意図であり校庭であると思うんです。(註29)

 

『台所太平記』を一つの自己史と見れば、彼のいう自己整形作用はこの作品にも当てはまるだろう。単に『瘋癲老人日記』のカリカチュアとして日常を描いて見せたというばかりではなく、常識人であることを公開するという態度をとることで、読者を信じ込ませ、「印象を固定させる役割」があったというべきだろう。
 では、何故、死ぬ直前の長編最終作に健康人という自己整形を施さねばならなかったのか。
 もちろん、本作が長編の打止めの心算だった訳ではない。その後も『「越前竹人形」を読む』(昭38)のごとき新人作品批評を試み、知識欲の旺盛なところを見せているし、没時、机上に置かれた創作ノートには新たな創作の構想があったことを窺わせている。しかし、作者は昭和二十代後半に健康を害して以来、一作毎に死を覚悟して執筆したと述べ、十年近く生き永らえていることを僥倖と感じていた。故に、一作毎が谷崎流の遺書と考えて間違いなかろう。とすると、『瘋癲老人日記』は「人生の決算書」(井上靖)(註30)として自己の主題の完結を目したのであり、この『台所太平記』では、周囲の人々に対しての別離の書状を送ったのではなかったか。

 

たとえ女中たりと言えども、わが身にもっとも近かった者たちを懐しみ、女たちの子供をいとおしみ、それによって確実に近づきつつある死を見つめながら、別れの挨拶をしているのだ。(中略)もろくもくだけ行く我が命へ思いをやり、おのが生涯に自分の手で締めくくりをつけようとする。淡々と語っているようでありながら、何か深々とした、人ひとりの生崖の重み、かなしさを感じさせる。(註31)

 

この稲沢秀夫の評言は首肯できよう。女性の美への拝跪を主題としたこの作者が、このように明らさまに身辺の者達に暖かい目ざしを向けた作品はかつてなかった。特に磊吉が老年に及ぶに従い好々爺然とする箇所に目立つ。

 

若い頃は子供嫌ひで通ってゐたのでしたが、子の可愛さが少しづつ分るやうになり、子をあやすことが上手になつてきましたのは、さすがに歳を取った証拠でせうか。(中略)この児のためなら何でもしてやりたい気になるのでした。

 

と、子煩悩を隠さない。しかも、「それは武とは限りません、弟の満も可愛いし、鈴の子の保も可愛いし、今年四月に生まれたばかりの駒の子の息も可愛い。」「磊吉の望みを伝へば、絖子が生んだみゆきの顔を朝夕眺めて暮らしたい」等、女中の子、親族の子全員に均等に暖かい目ざしを送っている。これは、この小説を読んだ周囲の者が、特定の子ばかり可愛がると不快に思わぬように、不公平のないよう気配りをしている訳で、実に暖かい配慮というべきでだろう。そして、執筆時、交渉を持っている女中の子全員に言及することで、女中達に「別れの挨拶」をしているのである。

 

子供たちの生長を楽しみつつ、この児の母たちを我が娘と頼んで暮らそうと、今ではそんな気になつています。(中略)恐らく磊吉の晩年は、もうこれ以上著しい変遷を遂げることなく、かう云ふ風にして生涯を終へるのでせう。

 

余命短いことを自覚し、身内の者達に、皆の御陰であると感謝の意を述べ、現在の境遇に満足している旨、表明したかったのであろう。とすれば、この作品は、身内の者にこそ読んでもらいたかったと言えないだろうか。
 自己整形として、常識人と規定した其の意図も、この一点にかかっていると考えられる。作者谷崎の実相が、まったくこうした悠然と余命をおくるがごとき好々爺と化していた訳ではもちろん無い。前述の如く、生活の芸術化を策し、仮想を原動力に作品を紡ぎ出し、家人の制止も開かず外出するような芸術家としてのすざまじい執我を持ち合せている。しかし、そうした性情は作品から消去させている。芸術のためと松子夫人との種を中絶させてまで芸術的孤高を守った彼が、「もともと孫子に縁の薄い磊吉」と、あたかも不如意の結果のごとく表現してまで、平凡な孫子思いの老人に身をやつしているのである。死期の近きを悟った作者は、それ故に広く人を受け入れ、周囲を暖かく見つめる視点を獲得していた。その愛情を表現する手立てとして常識人という自己整形が是非必要だったのであろう。周囲の者に迷惑をかけている一介の老人という立場から、直接、陳謝するのではなく、女中達の個性を、愛情ある筆致で描く鏡としての役割をあたえているのである。磊吉は主人公ではないが、その存在は、機能的に見て極めて重要である。死の直前、到達した心境の一側面を、分身に語らせることで、谷崎は自己の人生の終結を自らの手でつけたのである。
 この作品には、

主人公の磊吉と女中達のかかわりあいを、もっと日常茶飯事を通して描いてほしかった。

 

あるいは、

 

台所とはその家の経済の重要部分を占めており、また家族の食欲を充たす供給所でもある。(中略)だがこの作品では、主人公磊吉の旺盛な食欲ぶり、健啖さの片鱗は出ているけれども、それが原因で起こる事件もトラブルもほとんど見当たらない。それ以上に、台所から見た経済面という点には、何もふれられていない。(註32)

 

という注文、批判がある。もし、本作が職人的な大衆作家の作なら、当然、手際よく取り入れている観点であろうが、ある種の遺書として考えると、触れなかったとしても致し方あるまい。
 本作は、冒頭に述べたように、週刊誌小説として、些か軽視されてきたが、その機能や意図を考えると、作者最晩年、自己完結を目した作品としてその位置は極めて高い。

 

非常に詮索されやすい事件を、自ら告白している感じで、どうやらよけいな憶測をされるより、はっきり自分から公開しようといった意図が見えたので、「遺書」のつもりで書かれているのではないかと、推察されもした。(註33)

 

と評される『雪後庵夜話』の直截性とは違った形で表われた、もう一つの「遺書」として本作品の再検討が急務であろう。

 

(註)
(1)同社記者、山口康一の手によって獲得せられたものである。
(2)「谷崎潤一郎ー風土と文学ー」(中央公論社、昭48・2)
(3)「大衆文学の流行について」(昭5)
(4)「共同討議 晩年の谷崎」(「国文学解釈と教材の研究」昭53・8)における発言。
(5)「聞書 谷崎潤一郎」(思潮社、昭58・5)
(6)例えば、平野謙「文芸時評」(河出書房新社、昭38・8)の昭和三十七年五月の項など。
(7)磯田光一「戦後史の空間」(新潮選書)等参照。
(8)「使命感に似た創作欲ーサンデー毎日に「台所太平記」執筆の谷崎潤一郎氏の近況」(「毎日新聞」昭37・10・15)
(9)昭和三十七年八月十六日付書簡
(10)昭和三十七年七月二十1日付書簡
(11)昭和三十七年八月十二日付書簡
(12)「谷崎潤一郎の作品」(六興出版、昭49・11)
(13)(11)に同じ。
(14)昭和三十七年九月十日付書簡
(15)昭和三十七年八月十六日付書簡
(16)ただし、渡辺たをりによれば実際の日付と一日ズレているという。記憶違いか。
(17)昭和三十七年十二月五日付書簡
(18)「谷崎潤一郎『鍵』に関する一考察ープロットの変更ー」(二松学舎大学人文論叢」第二十二輯、昭57・9)
(19)「谷崎潤一郎の世界」(思潮社、昭54・9)
(20)昭和三十七年十二月十日付書簡
(21)(20)に同じ。
(22)「祖父 谷崎潤一郎」(六興出版、昭55・5)
(23)『雪後庵夜話』(昭38)
(24)(12)に同じ。
(25)「谷崎潤一郎 あそびの美学」(国書刊行会 昭58・4)
(26)中公文庫版『台所太平記』(昭和49・4)解説。
(27)拙稿「谷崎潤一郎『鍵』論争覚書」(安田学園「研究紀要」第二十三号、昭58・2)参照のこと。
(28)「伝記 谷崎潤一郎」(六興出版、昭47・5)
(29)(4)に同じ。
(30)「谷崎潤一郎集」(「現代日本文学館16」文芸春秋社、昭41・4)解説。
(31)(19)に同じ。
(32)(12)に同じ。
(33)(28)に同じ。

 

(付記) 本論は、昭和六十一年度石川県教職員研究奨励(一般研究)に提出した研究報告書を基に全面的に書きあらためたものである。基本的整理を目的に多くの側面に言及したため、各項目について論証不足となった憾みがある。御容赦を乞う次第である。本論で提出した観点が今後の『台所太平記』論発展の為の基本的視座となれば望外の喜びである。大方の御批判を待ちたい。
                                      (昭和六十二年二月十五日擱筆)
                                      (「イミタチオ」第六号 昭和六二年4月)

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