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 私の「かあてんこおる」U 2001-補録 
金沢市民劇場

劇評「私の「かあてんこおる」U」

 

以前、出版した観劇の感想文集の2冊目です。

 

  □□  目  次  □□


一九九五年(承前)

 九月『とってもゴースト』                      
   十月『グレイ・クリスマス』                      
   十一月『セイムタイム・ネクストイヤー』        

一九九六年

 二月『フィガロが結婚』              
  三月『一本刀土俵入り・舞踊藤娘』                
   六月『頭痛肩こり樋口一葉』                    
    七月『欲望という名の電車』                  
     九月『哄笑』                              
      十一月『ロミオとジュリエット』         


 

 一 九 九 五 年 

 

手をのばせば……
                      音楽座公演『とってもゴースト』第196回例会

 まあ、アラを捜せば、おかしなところはいっぱいあった。
 仏蘭西料理の基本的なマナーも知らない光司(吉野圭吾)が、ホテルでかっこいい社交ダンスを踊れる訳がない……とか、あの世へのガイド役(三谷六九)が、霊を勝手に生きかえらせる神様的能力を持っていてもいいのか……とか、西洋の神様が天上にいらっしゃるようなのに、四十九日がタイムリミットだなんて、いったい、仏教なのやら基督教なのやら、さっぱり分からない……とか、二幕目、かたまり様が、さっさと昇天して、いかにも、そろそろまとめに入っていますといった展開が、いくらなんでもあんまりではないか……とか、ラストの場面、時は流れ、中年となった彼と、転生したユキ(浜崎真美)が出会って、それで、お互いがお互いを気付いてしまっては、もう、これは輪廻転生もへったくれもないではないか……とか。
(この場面、原田知世主演の、我が青春の懐かし映画『時をかける少女』(角川映画)のラストシーンをパロディにした感じだ。もちろん、映画では気付かないことになっていて、それだからこそ、しみじみするのだ。)
  でも、そんな欠点いっぱいを、すべてチャラにして、「どうだった?」と聞かれたら、「うん。すごくいいミュージカルだった。」と答えたくなる芝居だった。
  ユキが言う「ここ(註ーこの世のこと)は、素敵なところね。手をのばせば届くんだから……」という台詞は、もちろん、表面的には、幽霊になった自分には物が掴めないという物理的な意味なのだが、その底に、「努力さえすれば、希望さえ持ち続けてさえいれば、この世では、何事もできないものはないのよ。」という光司への励まし、そして、ひいては見ている我々観客への励ましにもなっていて、意味のこもった素敵な台詞だった。私が大事にしている心の台詞収納庫に、今夜、輝くばかりの台詞がひとつ入っていった感じだ。
  そうそう、「翼ひろげればいい。あとは風にまかせ……」(『デザイン』音楽 八幡茂)と歌いながら、両手を飛行機のように広げ、空を飛んでいるポーズも心に残っている。あの曲、いい曲だったなあ。
 筋立てが、有名映画や芝居の「美味しいとこ取り」といった気がしないでもなかったけど、ま、そこも目をつむります。何だか、「恋は盲目」といった感想になってしまったが、そんなのも、たまにはいいじゃないですか。                      (ユキはでこちん)
                                                       (1995・9)

補註
  この金沢公演の直後、音楽座は経営母体の崩壊で、急遽、解散を余儀なくされた。近年、あんなにいい芝居を連発して、経営も順調だった劇団だけに、経済の論理が文化を蹂躙した後味の悪い事件だった。
 しかし、金沢市民劇場賞を受賞し、県教育自治会館であった授賞式に出席した、作・演出の横山由和氏は、今後の活動を明るく語り、この芝居で、にわか音楽座ファンになった多くの人たちを安心させた。
 氏は、冗談好きな柔和な印象の方だったが、式に出席した会員のリクエストで、芝居の再現をすることになった時、同行したユキ役の役者に指示を出した顔は、独裁者そのものだったのを私は見逃さなかった。いい芝居を作る時の舞台裏を垣間見たようで、私はハッとした。


メリークリスマス・ミスター五條 
                    劇団民藝公演『グレイ・クリスマス』第197回例会

  日本が敗戦の後、GHQを迎えてから朝鮮戦争までの五年間を、典型的斜陽貴族である五條家を舞台に、娘や闇ブローカーや邸内に働く人々らが織りなす人間模様を描く斉藤憐(脚本)作品。
 それにしても、芝居を観ていて、「ああ、こんなことしゃべらなくてもいいのに」「こんなラストシーン、ない方がいいのに」などと感じることがよくある。
 この芝居の場合、五條伯爵(新田昌玄)の後妻、華子(奈良岡朋子)が、何故、憲法を暗誦しながら一人踊りをしなければ、幕が下りないのだろうか。
 民主主義の理想を説く日系二世の将校、ジョージ・イトウ(伊藤孝雄)に魅かれていった彼女。しかし、GHQの対日政策の転換、米国が理想の国などではなく人種偏見に満ちた国でしかないことを告げるイトウ、そして、朝鮮戦争への志願という彼の人生の転変の中で、華子の恋は終りを告げる。
 日本進駐という歴史的事実がなかったら、決して出会わなかった二人。彼らに二つの体制を象徴させていることは、誰にでも理解できる。何もダメ押しのように、娘の雅子(福岡由佳)に日本国憲法を語らせる必要はなかったように思う。民主主義に触れたにもかかわらず、結局、旧に復していくかに見える日本の体制。あれは夢だったのだろうかと語らせるだけで充分である。
 ドラマは、朝鮮戦争勃発までの日本の政治状勢をうまく取り入れている。時代の取り込みが表面的な芝居が多い中、ストーリィ展開にうまくからむ形で背景にしている点は評価せねばならない。
 GHQ内の理想論者が保守的な反共勢力に敗北していく話は、その昔『マッカーサーの二千日』(袖井林二郎 中公文庫)等で読んだり、NHKのドキュメンタリー番組で観て知っていた。この芝居が、この歴史的事実を踏まえていることはすぐ理解できたが、残念ながら、朝鮮人ブローカーが涙を流して歌うスコットランド民謡『蛍の光』に、朝鮮半島の人たちのどんな思い入れがあるのか、よく分からなかった。何か史実を踏まえてのことなのだろう……。
 歴史を背景に大きく扱ったせいで、その事実の意味を知らない人には、分からない場面がでてきてしまうことがある。高校生に感想を聞いたところ、やはり、時々分からないところがあったと言っていた。こちらの勉強不足をタナにあげているので、大きなことは言えないが、確かに、少し不親切だったのではないかという気持ちがした。
 五條伯爵の鷹揚な物言いは、昭和天皇を皮肉っているのだろう。笑いをとっていたけれど、その分、人物造型は浅薄で、華子との人間関係が、全然、押さえられていない。そのために、夫より将校に魅かれていく女性としての葛藤も、真実味が薄く、嘘臭くなった。伯爵の人物造型は、台本の上でも、役作りの上からも、はっきり言って失敗だと思う。
 芝居は、現場に観客という反応者がいるものだから、どうしてもへつらいがでてきてしまって、映画ほどの迫真性に欠けるところがある。こんな調子の映画があったら、観客はおそらくいやらしく感じるはずだ。一回性の映画と、何度も演じる芝居。受けるツボを知りつくしているからこそ陥る落とし穴といえる。
 真白な雪が降るラストシーン。象徴的にグレイからホワイトに変わる。ああ、そういえば、今年のクリスマスイブは、ホワイトクリスマスになって、今年起こった、阪神淡路大震災、オウム事件、私の心を圧している心配ごと、すべてを包んで清めてくれたらいいなあと、何だか宮沢賢治みたいに祈りながら私は拍手をおくっていた。(もちろん、降る雪が「天上のアイスクリームとなって」(『永訣の朝』)だなんて思った訳ではないけれど……)
                               (ミスター・ローレンス)                                         (1995・10)


こんな関係なら不倫も……?
           加藤健一事務所公演『セイムタイム・ネクストイヤー』 第198回例会

 年に一回、ジョージ(加藤健一)とドリス(高畑淳子)の二人が、一夜を共にした記念の日に、同じコテージで逢瀬を楽しむ。互いに家庭を持つ身、当然、色々な波風がたつことはたつけれど、不倫という暗いイメージのないこの二人の関係に、観客の男性は羨ましさしきり。
  人間は皆、それぞれの役割を演じている。お父さんはお父さんらしく、社長さんは社長さんらしく。
 そういえば、以前、職場の同僚の女性が、帰り際に「さあて、お母さんやってくるか。」と自分にかけ声をかけながら去っていった。まあ、これもその類だ。で、人間は、そうした仮面をはぎ取る余裕のないまま、人生は過ぎていく。
 しかし、この二人は、年に一度、自分を客観的に見つめてくれる場を互いに持っている。その場が、このコテージであり、こうした時間が確保されているということが、私にはすごく羨ましかった。(なにも不倫できることを羨ましがっている訳では……ない?)
  二人は、まるで船が港に係留するように、この部屋に立ち寄り、一年間の自分の歩みを語り合う。なんと二十五年間も。年齢による考え方の変化、時代の影響。変わっていく部分もあるし、性格として、そんなに変わらない部分もある。
 芝居は、各場、五年ごとに描いていくことで、平凡な二人の人生を、ポツンポツンと提示する。我々観客がこの芝居で受ける感動は、言ってみれば、浮気の話ではあるけれど、長年連れ添った夫婦の歴史物語を読み終えた時と同質のものだ。
 ごく普通の夫婦の、ごく普通の人生を描いて、夫婦愛を訴えるのは意外に難しい。しかし、互いに関連のないまったく別の人生という複数の背景のなかで、夫婦愛と同等な愛を描くことができる。そこにドラマとしての設定のうまさを感じた。
 たった二人だけの出演で二時間半。コテージの管理人、電話の相手など、舞台には登場しない人物をうまく話に絡めたり、バスルームやドアからの出入り、窓から外を眺める行動など、舞台を大きく使って、単調さなど微塵も感じられなかった。若者から初老への変化も実に自然で、場面が変わる毎に、今度はどんな姿で現れるだろうかと楽しみになった。
 コミカルな仕立てで、しみじみとした感動というのではないけれど、洒落たタッチが何とも快い。楽しい芝居だった。                       (不倫相手募集男)
                                                         (1995・11)

補註
 先年、高校の同窓会があって、二十数年ぶりに懐かしい顔に会えた。宴もたけなわ、ある女性が、私のところに近寄ってきて、「あなた、時々、お芝居の感想文書いているでしょ。」とのたまう。戸惑いながらも「う、うん。」と生返事をすると、「この前、不倫もいい、なんて文章書いていたでしょ。」と勝手に突っ込み、「ホントにイヤらしいんだから……。あなたって昔からそんな人だったわ。」と言い放ち、こっちの返答も聞かず、さっさと違うテーブルに去っていった。
 なんで、私だとバレているんだろう?。ちゃんと匿名のはずなのに……。
  私は心の中で、「あんたのそういう物言いも変わっていないゾ。昔からアンタはそんな人だったよ。」と呟く。ほんとに「壁に耳あり。障子に目あり」である。
 その時、外野から一声。
「でも、文は人なりでしょ。」
 うーん。

 

 一 九 九 六 年

 

私は演劇史的に理解しただけなのかもしれない
                      地人会公演『フィガロが結婚』第199回例会

 この作品の題名を聞いて、まず、思い浮かぶのは、ご他聞にもれず、モーツァルトの名曲『フィガロの結婚』。オペラとの違いをはっきりさせるため、「の」を「が」にしたそうだ。
 「の」は、この場合、連体修飾語の用法、「結婚」という名詞を飾る。「が」は、主格の用法、「する」など述語を省略した言い方。タイトルとして、言葉すわりはえらく悪い。
 クラシック好きの人は、レーザーディスク(註ー今ならDVDと書くはず。電子機器は興亡が速く、あっという間に文章が古くなる)などで、オペラのほうもご存知なのだろうが、我が家にはプレイヤーがなく(まあ、あったとしてもアクション映画ばかり観ているだろうけど。プレイヤー買っていいですか? 配偶者殿)、結局、何も知らないというのが私の知的レベルである。
 ところが、あるまいことか、いつもこうした方面にまったく関心を示さない愚妻が、以前、NHKテレビでこのオペラを観たという。そこで今回、観劇後、彼女に取材して、大筋、同じだということを確認する始末であった。
 ボーマルシェ原作の劇の方は、仏蘭西革命前夜、貴族階級没落の時代背景を受け、貴族世界への批判が作品の中心をなしていた。今回の木村光一演出は、この原作が持つ庶民性・猥雑性を表現したかったという。実際、下品な会話もかなりあって、オペラとは趣きが異なっているようだ。領主は、使用人が結婚する際して、その男より先に初夜を奪う権利があるという、実に中世的な慣例が巻き起こすドタバタ劇。使用人フィガロ(木場勝己)の下町っ子ぶり(?)がなんともたくましい。
 作者ボーマルシェの経歴を手元の資料で調べると、演劇だけに留まらない多彩な活動をした行動派だったことがわかる。貴族の凋落という時代潮流の中で、彼の奔放な生き方と作品のブードビル的要素とは完全にシンクロナイズしている。木村のこうした演出意図を理解してから観ると、この芝居のやり方は、色々と納得する部分も多く、オペラとして完成される以前の形が勉強できたのは収穫であった。
 その上、この芝居には、つまらぬ原典主義に陥らない工夫がなされている。原作の売り物であった長台詞も、確かに後半にあるのだが、役者の素をわざと見せる演出(私が観た時だけ、偶然、素が出たのかもしれない……)がされていたり、我々が耳にこびりついているあの有名なメロディを、わざわざオペラからフィードバックして使ったりと、それこそ現代の大衆性を考えて、実にそつがない。
 しかし、あとでよく考えてみると、原作の雰囲気がわかったという知識欲を満たしただけで、では、お前は本当にこの芝居、面白かったのかと尋ねられると、答えに窮してしまう。そんなところが、私の気持ちの中にあって、いつになく感想が焦点を結ばなかった。
 こんな時、他の観客の方の感想がえらく気になる。       (「の」も「が」も格助詞)
                                                   (1996・2)


自分が蒔いた種のせいで     
                 前進座公演『舞踊藤娘 一本刀土俵入り』第200回例会

 谷崎潤一郎の『蓼喰ふ虫』(昭四)を読むと、昔の芝居見物というのは、実に悠長なものだったようだ。見物は数日がかり。段重ねのお弁当を持って、枡席に坐り、気に入らない役者が出ている時は、舞台に背を向けて、弁当を喰っていたという。(役者はそうした客をこっちに向かせようと必死になる訳で、決して悪い風習ではなかった。)
 明治・大正の文豪の文章には、よく歌舞伎の話が出てくる。何代目が贔屓だとか、揚巻は誰々が最高だったとか。谷崎はフットフェティシズムの嗜好があったので、はいていた肌色のタイツに皺がよっていて興ざめだったとか、実に細かく書いてある。
 その役者の舞台を見ていない現代の読者にとっては、その批評が、当時として穏当なものなのか、趣味に走ったマニアックな発言なのかさえ判らないまま、丸呑みで読みすすめるしかない。
 ただ、こうした読書のお陰で、歌舞伎の見方が自然に身についたように思う。現代人の芝居の見方が、絶対的なものではなく、かなり間口の狭い見方になってしまっていることも、少しはわかった。
  さて、今回の舞台は、踊りと有名芝居のカップリング。
 『舞踏 藤娘』(踊り 嵐市太郎)の方は、素人の私には、巧かったと思えたのだが、踊りの目利きである友人のN氏に言わせると、それなりのレベルには達していたが、お金を払って見るほどのものではなかったという。プロである以上、さすがと思わせなければ失敗で、「おさらい会」レベルの人は、世の中にゴマンといるというのだ。なかなかの辛口批評だった。
 同様に、これまで日本舞踊にほとんど関心がなかった三十代の女性は、正直、いつまで長々と踊っているのだとイライラしたという。音響が悪く、詞の内容がほとんど理解できなかった上に、鳴り物も含め、すべてがテープということで、意識が詞の方についていかなかったこともある。そのうえ、我々は、序詞など文飾甚だしい詞藻を理解する素養に欠けている。意味が判らぬまま、何やら酔っぱらっているようだということがようやくわかる程度。所作だけをじっと見つめ続けて、そして、疲れはて、飽きてしまうのだ。
 私も正直、彼女と似たレベルで、不惑近い典型的文系人間にして、かくの如し。「日本の文化の伝統」なんてものが、どこかへ吹っ飛んでいる現実が、舞台と観客の間に大きく口を開けて横たわっていることをひしひしと感じた二十分であった。
(付言ー焼け石に水の解決策として、有料パンフレット並の詳しい解説が、この種の出し物には必要なのではないだろうか。機関誌の簡単な説明だけでは不親切だ。)
  『一本刀土俵入』(作 長谷川伸)は、省略が多く、茂兵衛役の中村梅之助も、御老体になられたのか、体が動いておらず、小手先の演技で、不満は大きかった。光っていたのは、嵐芳三郎のお蔦のみだった。
  こうした芝居は、ゆったりと流れにまかせて、昔のように、とまでは言わなくても、リッチな気分で楽しむのが一番と思っている私にとって、前進座の大衆化・スリム化が、今回の芝居では、何とも貧相に感じられて、楽しめなかったというのが素朴な感想である。
  最後に、この有名なお話について一言。
 主人公の茂兵衛は、一旦、親方に見放された時点で、相撲を諦めるべきだったのではなかろうか。再度の弟子入り自体に無理がある。駄馬に、どれだけ鞭をいれても決して駿馬にはならない。今風に言えば、「自分が見えていない」というべきで、堅気の道から外れるのは当然の帰結のように思える。それに、どうみても渡世人になった後半のほうがカッコイイ。お涙頂戴の再会シーンでも、身から出た錆、自業自得なんていう言葉が私の脳裏に去来しているようでは、茂兵衛に感情移入などできようもないではないか。
(そういえば、この前、「スナック蔦」に行った男)                                                           (1996・3)


涙はてんでに分けて泣こうぞ
                    こまつ座公演『頭痛肩こり樋口一葉』第201回例会

 一九八四年の初演。金沢市民劇場で八年前に観たのは第四演目。今回は第七演目で、女優さんは全員違う顔ぶれだ。
 前回より、演出は小細工が多くなった。再演の度に多くのアイデアが取り入れられて現在の形になっていったのだろう。ただ、小細工しなくても作品の骨太さに揺るぎはない。観る前は、話の内容は判っているから、役者さんの違いによって芝居の印象がどう変わるかとか、前回、気がつかなかった細部で、おもしろいところを発見して楽しもうと思っていたのだが、そんな傍観者的な見方など、何時の間にか吹っ飛んで、芝居の世界にどっぷり浸っている自分に気がついた。何とも逞しい作品だ。
 一体、この作品のどこに、人を引きつける魅力があるのだろう。
 まず、樋口一葉(未来貴子)を描く時、避けて通れないのが半井桃水との関係である。しかし、この芝居では、台詞の上で触れられる程度で、完全に捨てられている。この潔さが、まず成功の一因のように思う。下手な恋愛話がないせいで、霊界と現世にまたがる存在という、新しい一葉像がくっきりと浮かび上がってくる。
 次に、この芝居は一葉の作品世界をうまく取りこんでいる。このため、観る者は複合的にイメージを膨らませることができる。
 うかつにも、今回、ようやく『十三夜』(明二八)に描かれる人間関係が、芝居の登場人物に分割して組み込まれていることに気づいた。中野八重(大西多摩恵)を虐める夫の判事は、『十三夜』の主人公、阿関の夫、原田勇と同じ人種で、且つ、母多喜(淡路恵子)や稲葉鑛(順みつき)が背負っている古い倫理観は、『十三夜』の、実家に戻った阿関に夫の元に戻れと説得する父の理屈とまったく同じものである。父が娘に言う「涙はてんでに分けて泣こうぞ」という印象的な台詞も、井上ひさしは、多喜にちゃっかり言わせている。
 彼らの理屈を聞いていると、古い時代の教育によって、強制的に保守的な倫理観が身についていったというより、社会の、その時その時の仕組み自体によって、それに合った倫理観が自然に心に形づくられていったのだということに気づく。言ってしまえば、当たり前のことなのだけれど、それは現代から過去を見るからはっきりわかることで、では、現代社会の特質が形作った倫理観の浅薄さを、現代の時点で明視し得るかと言えば、やはり難しいことだ。
 我々は、阿関の父や多喜の理屈を古いと笑うことはできない。できないどころか、その時代においては、まさに「正しい」倫理観なのだ。一葉の将来をつぶしたとも言える母多喜の頑迷さに、観客の誰もが悪い印象を持たないのは、彼女なりに娘によかれと思ってした常識的判断が、時代の変化によって、負の方向に動いてしまったにすぎないことを無意識に理解しているからであり、そこに人間の哀しみを感じるからだろう。
 『十三夜』の父は、いくら悪い夫でも、離婚すると自分の子に会えなくなる、会えずに泣くくらいなら、妻のままで大泣きに泣けと、涙ながらに娘に諭す。父の説得は、結局、娘に耐えることを強いている訳だが、もちろん、娘想いのいい父親なのである。悪いのは父自身ではなく、人間性を軽視した判断が、正しい常識となっている社会全体のほうが、よほど問題なのだと、我々読者はようやく気がつくのである。
 おそらく、作者井上ひさしが、一葉作品を読んで得た結論もそこなのだ。「世の中全体に取り憑くなんてことはできやしない」と諦める花蛍(新橋耐子)に、「でも私、小説の世界で世の中全体に取り憑いてやったような気がする」と答える夏子(一葉)の台詞に、井上の一葉理解の核心があると、以前書いたが、私のこの判断は間違っていなかったと、今回、芝居を観ながら改めて確信した。
 井上は、決して一葉を美化していない。これも今回、やけに気になったのだけれど、将来の目標がコロコロ変わるという夏子の性格上の欠点を、多喜にたびたび批判させている。作家は実に冷静に自分の芝居の主人公を見つめているようである。
 一葉が死んだのは明治二十九(一八九六)年十一月二十三日。今年でちょうど没後百年だが、世の中は、この頃とほとんど変わっていない。      (邦子も引っ越し、職場も引っ越し)
                                                               

穴があいているから
                      こまつ座公演『頭痛肩こり樋口一葉』第201回例会

 「ぼんぼん盆の十六日に……」と、お盆の練り歩き唄が聞こえてくると、忘れていた幼い頃の童唄を思い出したかのような錯覚におそわれた。八年ぶりなので、どんなプロローグだったか、花蛍の「因果はめぐる」式の話と、エピローグの邦子の仏壇担ぎは印象的だったな……などと考えながら開幕を待っていた私を、この盆唄は、いとも簡単に明治二十年代の日本に連れていってくれた。
 正直なところ、この『頭痛肩こり樋口一葉』は、こまつ座の機関誌「The 座」で何度も特集が組まれ、劇評、感想文なども大量に読んでいる。もはや語り尽くされているような気がしていて、いい感想が湧くだろうか、などと変な心配をしていたのだった。どうやら、この唄は、頭で芝居を観ようとしている邪道な観劇態度を溶かしてしまう作用をするらしい。
 あとで、作曲の宇野誠一郎の文章「戯曲の流れと作曲の流れ」(『樋口一葉に聞く』(ネスコ))を読むと、この盆唄は、「当時の日本の庶民が持っていた、いわば暗黙のルールのようなもの」で、「日本的な文化基盤によって立つひとつの共通項を最初に観客に感知してもらう」ように作ったという。少々難しい言いまわしだが、わかりやすく言うと、この歌は、民謡のごとき匿名性を持ち、日本人がみんな懐かしくなる類の曲を冒頭に持ってきたと言っているのである。なるほど。まんまと演出意図にはまってしまった訳だ。
 歌といえば、実は、楽しみにしていた曲がもう一つある。「わたしたちのこころは穴のあいたいれもの」という唄(『こころ』という題)。明治を舞台にした劇にしては、少々洋風のメロディだが、違和感はない。曲の最初の方が特に魅力的で、八年間ずっと心に残っていた(ということは、後半はどうもうろ覚えで、いつも前半だけが鼻唄になる)。
 今回、どんな歌詞だったのだろうと思って、しっかり聴いた。普通、心に穴があいているといえば、虚無的な気持ちのことを言うのだけれど……。「心の穴からは記憶や思い出がこばれていき、宇宙にちらばる。いなくなる。」という。おそらく、我執が去った時、あの世に行けるということなのだろう。とすると、この穴は人間にとって、なくてはならぬ大切な穴となる。穴がなければ、我々はいつまでも業を抱え込んだままになってしまう。心に穴が開いているからこそ、わだかまりがなくなって、人に優しく、素直になれるのだ。
 この芝居の登場人物は、皆、そうして霊界に行った。あの世では、稲葉鑛も中野八重も仲直りしているし、世間体に縛られていた母の多喜も自由になっている。どうやら、あの世は実にステキなところらしい。
 私は厭なことがあると、高い所に登る。昔、東京に住んでいた頃は、新宿高層ビルが最適だった。彼方まで低いビルが広がる中、眼下の豆粒のような人間を見ていると、何で小さいことでくよくよしているんだろうと、それまでの悩みが馬鹿らしく思えて、元気がでてくる。この芝居の後味は、何だかそんな感じだ。                         (歯痛近眼十二指腸潰瘍)
                                                                  (1996・6)


スリップ姿の小巷さんにドキドキ       
                    エイコーン公演『欲望という名の電車』第202回例会

 杉村春子の当たり役のイメージが強い主人公ブランチ。昔観た印象を、無理矢理、古い抽き出しから探すと、何やらエキセントリックな杉村の高笑いの声と、薄暗い舞台照明が心に残っている。有名な作品だし、大女優の生だったし、中身よりも、観たという事実だけが印象に残っている感じだ。
 今回は、役年齢と比較的近いので、年齢のギャップに戸惑うこともない。これまでの栗原小巻の演技の印象から、この作品との相性は、かなりいいのではないかと思っていた。
 そんな折り、観劇の十日ほど前に、偶然、NHK教育テレビで『ステージドアー栗原小巻に聞くー』というインタビュー番組があって、下勉強として実にタイムリーだった。この番組のおかげで期待感がぐっと高まった。
 この番組の中で、彼女は、ブランチの役づくりについて、「途中から精神がおかしくなるにしろ、最初の方は、正常な女性としてしっかり演じたい。」と語っていた。確かに、今回の芝居では、そうした精神の在りようの変化がよく演じわけられていたと思う。
 正直なところ、これほど有名な作品になると、観客一人一人に自分のブランチ像があって、みんなの意見を聞いていては、それこそ分裂症のブランチになってしまう。観客の中には、映画の印象が強烈な人も多いだろうし、なかなか難しい役だと思わずにはいられなかった。
 ただ、それを承知で、卑見を述べさせていただければ、途中の、これは正常ではないと観客に思わす演技が少々控えめで、いずれ判ることにせよ、もっとくっきりとさせたはうがよかったのではないかということがある。
 また「ブランチはみなさんが想像しているより強い女だと私は思います」(「このゆびとまれ」七月号)と、栗原は発言しているけれど、私は逆に、後半、絶望や哀しみを押し出しすぎたように思われた。ラストの、連れて行かれる場面、教養ある女としての衿持を精一杯みせる演技にづなげるためにも、こちらのほうは、もう少し控えめの方がよかったのではないかと感じられた。
 しかし、全体としては、以前の杉村の舞台より、よほどすっきりしていて、わかりやすかった。
 旧来の倫理観の美点を背負ってはいるが、身を持ち崩した女と、新しい戦後の感覚の持ち主だが、粗野な義弟スタンリー。客観的に観れば、どっちもどっちで、お互い水と油の平行線。二人に決定的に欠けているのは、相手に対する思いやりだ。その対比がうまく表現されていたので、間に立って何とかしようと苦悩する妹ステラにも感情移入できた。個人的には、これが今回の芝居の収穫だった。お互いを認め、受け入れているのがステラで、排除しようとする二人と決定的に違う点だ。私は、与えられた現状の中で幸福を求める彼女の姿に、森鴎外『高瀬舟』(大五)の「足るを知る」というテーゼを思い出した。こうした印象になったのには、ステラ役、郡山冬果の演技の功績も大きい。また、スタンリー役の中堅、伊藤孝雄の演技もさすがだ。ただ、少し勇ましい声に作りすぎていたのが気になった。
 音響では、列車の音が効果的。それに反し、音楽はあまり効果を上げていない。
 全体としては、上演同数を重ねることで、どんどんこなれて、よくなっていく予感のする芝居だった。彼女の代表作になる可能性は充分あると思う(と、私が偉そうに断言してもしょうがないけど……。)
 私が観た日は昼夜公演。二時間五十分の芝居、ほとんど出づっぱりで二本。計六時間になんなんとする就労時間である。五十歳を過ぎた女性(失礼)には、大変な労働だ。
 かく言う私、ちょうどこの日、酷暑の中、人前で二時間半しゃべってクタクタになっていたので、そんなところがひどく気になって、深く同情した。なぜって、カーテンコールの時、彼女は明らかに疲れきっていたように見受けられたから。
 本当にお疲れさま。あなたは充分魅力的で素敵な女性でした。
      (美人はスリップ姿でドキドキしてもらえて、やっぱり得だと思ってしまった中年男)
                                                                   (1996・7)


「ちなみに」という言葉
                                   木冬社公演『哄笑』第203回例会

 開幕早々、「ちなみに、この二カ月前、二・二六事件がおこった。」というスライド文字が紗幕にはいる。
 正直、この「ちなみに」の一言で、私は厭な予感がした。
 昔、「文章作法」などという題の本を何冊も読みあさって、文章の極意を安直に体得しようとしたことがあった。その時、丸谷才一の『文章読本』(中央公論社)の中に、「ちなみに」という言葉は、論がうまく絡んでいない証拠みたいなものだから、よほどのことでもない限り使わない方がよいと書いてあったのを、私は今も忠実に守っているからだ。
 この冒頭のスライドの時点で、智恵子と光太郎の物語に、戦争の影がクロスするのだろうとわかってしまう。もっと、うまい匂わせ方など、他に色々あっただろうに……。脚本家(清水邦夫)の言語感覚を冒頭から疑ってしまった。
 そして、この印象は、作品が進行してもついに消えることがなかったのである。
 舞台となる教会の集会室は、精神を病んだ人々をも受け入れる愛の空間。しかし、そこに、戦争へとひた走る世間の狂気の風が吹き込んでくる。牧師の娘たちの愛の挫折がそれを象徴し、智恵子の愛と対比される。おそらく脚本家の意図はこの辺りにある。
 光太郎は死んでしまったという妄想にとりつかれた智恵子(松本典子)と、仕方なく、自分自身の崇拝者を演じながら、何とか彼女を覚醒させようとする光太郎(小林勝也)。
 過去にこだわって、うまくいかない光太郎に、「愛をとりもどす」のではなく、「今の二人が、もう一度、新しく愛を育てればいい。」と説く田原牧師(内山森彦)の言葉こそ、この芝居の主題である。同じ内容の台詞は、智恵子自身にも吐かせて、再度、主題を強調している。
 もし、私のこの理解に間違いがないとすれば、智恵子の演技は、もう少し無垢で、無邪気な要素を強調すべきではなかったろうか。そのほうが、彼女の狂気の部分(もちろん、それは、当時の時代の方が狂気で、彼女の狂気は本当の狂気ではないのだと脚本家は言いたいのだが)の「哄笑」が、より際立つというものだ。
 なんだか、見た目、不気味な印象が強く、その上、えらく説教臭い女性だ。(おかっぱ髪と真っ白の白粉顔から「老けた座敷童子」という言葉が心に浮かんできたが、これは、我ながら、いくら何でもあんまりな感想なのでオフレコにしよう。)
 そんな彼女が、不気味な低い声で、色々分析するものだから、相対的に光太郎役の演技が軽々しく見えてしかたなかった。
 派手に入ってくる患者たちが、さっさとハケてしまう出入りのご都合主義も、演出で何とかならなかったのかと気になったし、気絶した娘がさっと次の場面で起きあがってしまうのも素人芝居臭い。テーマはい

Toshitatsu Tanabe Copyright(C)2004
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