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 私の「かあてんこおる」U 2001-補録 
金沢市民劇場

■□ 目      次 □■

一 九 八 九 〜 九 〇 年                                 
                                                                       『闇に咲く花−愛敬稲荷神社物語』                             
『夜の笑い』                           
『三婆』                         
『砂の上のダンス』                       
『炎の人−ゴッホ小伝』                     
『エセルとジューリアス』                   
『唐来参和』                 
『ミュージカル 船長』    

 

一 九 八 九 〜 九 〇 年


神様の世代交代劇            
                      こまつ座公演『闇に咲く花−愛敬稲荷神社物語』第155回例会

 思いは十年ほど前の大学図書館の閉架書庫に飛ぶ。
 書架に私ひとり。その時、私は高名な国文学者が寄贈した個人名を冠した文庫のなかの一冊を手にしていた。本の名は、谷崎潤一郎著『愛すればこそ』。大正時代に出版されたこの戯曲は、後年、作者自身が反省しているように「読む戯曲」でしかなく、自分の芝居を観ても、しまりのないものにしか映らなかったそうだ。それに対して、彼とは主義主張を異にしていたが、菊池寛の芝居は、一見単純そうではあるが、逆にその単純さが観ている者に訴えかけてくると率直に負けを認め、感心している。
  かび臭いこの本をパラパラめくっていくと、奥付に書き込みがあった。「当時はこの程度でよかったのか?」といった文面。元の所有者は感想を奥付の余白に書く習慣があったようだ。作者自身よくないと認めている作品ではあるが、戯曲史の上ではそれなりに名が通っている。複雑なドラマトゥルギーに慣れた書き込みの主には大正時代の戯曲がいかにものんびりしたものに映って拍子抜けしたのだろう。
 作品に主張をのせる場合、登場人物の行動や人間性のなかに表し、直接語らせないようにする場合と、会話のなかにはっきり織り込んでいく場合がある。芝居の場合は、はっきりと主題を語らせたほうが効果的な場合が多い。
 例えば、おなじ井上ひさしの芝居『きらめく星座』では、終盤の広告文案家竹田の言う「人間を宣伝する文案」の長台詞が作者の主張のすべてだといってよい。そもそも戦時中に何人もいたと思えない広告文案業なる職業を設定したこと自体、この「人間を宣伝する文案」を言いたいことを表している。そして、その主張は、それまでのドタバタの笑いを通して、心を開け放していた観客の胸にすっと入ってくる。
 それでは、この『闇に咲く花』(昭和庶民伝三部作二作目 演出栗山民也)はどうだろうか。「第三場 神鈴」で、この愛敬神社の神主牛木公麿(松熊信義)が、神社本庁の講習会で仕入れた受け売りを皆にしている時に、息子健太郎(河原崎建三)がいう反論に作者の主張は表れている。
 そのとき、健太郎は次の主張をする。ひとつは「近所の人たちがここに十五分もいればなんだか慰められ励まされて、自分の人生や世の中と仲直りする元気がでる」神社にしたいということ。もうひとつは「神社が団体を組んで(中略)なにか上の方とガチャリと連結すると(中略)ここは神社でも社でもなくなってしまう。お役所になってしまんだよ」ということ。ここに、作者の考える神社の理想像と国家神道批判が語られている。
 この主張は「第五場 御守」で、記憶を徐々に戻しつつある健太郎の口から再度語られる。「神社は道端の名もない小さな花」であるべきだと。そして、作者はこの主張をよりくっきりとさせるために、テープレコーダーを再生するという形で、再三、われわれに提示するのである。
  作者は、後半、ぐっと笑いが減ってしまうのを承知しているのだろうか。笑いのなかに主題を一点に収斂させていく『きらめく星座』に較べ、作者の主張が全面に出すぎている印象を受ける。
 もともと、昭和庶民伝三部作の二作目は『花よりタンゴ』の予定だった。日本人特有の責任の所在を明らかにしない政治システムを描こうとした作品だったが、テーマが重いうえに、作者みずからの素人演出も祟って、スタッフ、キャストを討ち死にさせてしまったという。そこで、改めてこの作品にかかったが、これも百二十枚まで出来て、あえなくボツ。再度、書き直したという(初日は延期)。大変な生みの苦しみの末に出来上がった作品のようだ。テーマが「神道論」「戦争責任論」と重く、煮詰まった末の作品ということもあって、作者自身「生硬なところがある」とする。笑いの減少もそのことと関連しているだろう(「昭和庶民伝三部作を書き終えて」(「別冊文藝春秋」一八二号 昭六三・一)。
 この芝居を観ていて、気になった場面があった。
 「第四場 種銭」の冒頭、登場する人々がみな舞台上手に向かって「健太郎さん」と話しかける。既に彼は登場して物語に絡んでいるのだから、役者を舞台に出してもおかしくないのに出していない。なぜなのか。
 もう一箇所、混血の赤ん坊に向かって健太郎がいう言葉「僕ハ、オ前ダ。オ前ハ、僕ダ」。お互いに捨て子だったということをいっているにしては謎のある言い方ではないか。
  これらの疑問は、戯曲(講談社)を読んで氷解した。
 最初の疑問、舞台の袖にいる健太郎に話しかけているようにみえる台詞すべてに「(御神木に向かって)」とト書きされているのだ。登場人物たちは上手に隠れている健太郎に声をかけているのではなく、御神木に声をかけていることになる。
 どうやら健太郎とは、この愛敬稲荷神社の御神木、つまり、神様そのもののようだ。そういえば、健太郎はこの杉の御神木の下に捨てられていた捨て子だった。
 この神社は、藝人など愛敬(あいきょう)商売の人たちに信仰篤い神社で、健太郎の愛した野球も、当時は、藝者や手品師と同じ「遊藝稼ぎ人」の鑑札を持つ商売だったという(「The座」一〇号(昭六二・九)での池田恒雄の発言)。まさに野球は「愛敬商売」で、この神社の管轄ということになる。健太郎が神ならば、彼の出征中「神様はここをお留守にしていらっしゃる」のも、彼が戻ってくると、お御籤が急に当たりはじめるのも納得がいく。
 とすれば、ふたつめの疑問、健太郎が赤ん坊に呪文のようにいう「オ前ハ、僕ダ」という言葉は、彼と同じく御神木の下で捨てられていた赤ん坊に「お前はいずれ俺がいなくなったときに俺の替わりをするのだよ」と語っている意味になる。とすると、この場面は、神様の役割の移行を象徴しているものと考えられないだろうか。混血=異種は<愛敬の神>にふさわしい。
 演技の上では、赤ん坊を背負っていた女の子に答えているかのように見えた、公麿の「ここは神社ですよ」という強い断言も、続けて「稲垣くん」と念を押していることから、その前の稲垣(浜田光夫)の発言「みんなで健坊の出てくる夢を見ていた」だけなのかもしれないという懐疑の気持ちに対する反論だということがわかる。ここは神社なのだから健太郎は帰ってきたのであり、それは当たり前のことなのだ。ようやく公麿に見えてきたものがあったようだ。
 この作品は、表面上、戦争で犠牲になった野球選手の哀歌がモチーフのように見えるが、真の主題は、神様の世代交代劇だといったら極論であろうか。
                                         (1989・6)


明治十九年の『坊ちゃん』   
                                            青年劇場公演『夜の笑い』第148回例会

 小松左京と島尾敏雄の原作を、飯沢匡が作・演出で舞台化した作品。
 第一部、新築したばかりのマイホームを国籍不明の軍隊に襲撃される「春の軍隊」(小松)、第二部、授業中にアンパンを食べたせいで死刑になりかける「接触」(島尾)の二部構成の舞台で、『夜の笑い』という題のもとにくくっている。
 「不条理劇ということはわかるけど、いったい、何が<夜の笑い>なんだろう?」と疑問を口にしていた人がいた。私は、今宵、仕事を終えて、このブラックな芝居を、アハハハと声を上げて笑って観ている「アンタのことだよ」と思ったけれど、黙っていた。
 観客のなかには、十年前の初演を観ている人も多く、「すっかり古びてしまった」などというのはまだいい方で、「十年前はこんな作品が素晴らしいと言われていたことを学んだ」という何とも辛辣な批評まであった。
 自衛隊、天皇制、身分差別など、ここに提出された民主主義の視点はそんなに難しいものではなく、むしろ単純なのだが、この種の問題を扱った作品を観て、時代遅れに感ずる社会になってきたことの方が、つまり、われわれの変化の方が大きいのだろう。
  第二部に出てくる教師の名が「浦成」「山嵐」。赤シャツの小道具、背景にお城とくれば、下敷きに『坊ちゃん』を使っていることは明々白々。確かに、明治時代の学校といわれて、すぐに思い出されるのは、やはりこの作品だ。
  しかし、どうも漱石の明るさに較べて話が暗すぎる。いったいどこが違っているのだろう。もちろん「萬死に値す」などという理不尽な校則のせいである(本来なら、制度としてあったにすぎないこの規則、最近どうも過剰に悪役を割り当てられてるような気がする)。けれど、それだけだろうか。原作の痛快さとは、似て非なる雰囲気ではないか。
 話が進むうち、「あれっ?」と思った。「明治十九年?」。『坊ちゃん』はそんなに古い話ではないはずだ。帰宅後、調べてみたが、どうも作品にははっきりした年号は書かれていない。ただ、日露戦争の話があるので、少なくとも三十年代後半の話なのは確かだ。漱石の小説より二十年ほど昔の設定なのである。
 東京のことを「トウケイ(東亰)」といったり、目新しかったアンパン、この地方にも吹き荒れているらしい自由民権運動の波と、当時の時代をうまく取り入れている。
 四民平等といいながら、士族の志をさっさと上位に置くような旧弊な道徳が、そのまま、新政府が押し進める教育制度の国家主義的な傾向とリンクして、強固な信念となって凝り固まっている副校長(小竹伊津子)の人物造型から透けて見えてくるものは、どうやら、この年、発布された「学校令」批判のようだ。明治十九年の時代設定の意味もそこからくみ取れる。ただ、芝居は些か説明不足で、それと気づいた人は多くなかったのではないだろうか。
 この話が「学校令」精神のパロディなら、第一部は、パンフレットをそのまま引用すれば、「平和な生活の裏側に戦争の危険が潜んでいる現代のパロディ」で、明治と現代という違いはあっても、庶民の生活とは別のところで狂気がふりかかる危険性、目撃者の言葉を誰も信用しようとしない常識的判断、無謀な権威に盲従する無定見など、平和ボケのわれわれに警鐘を鳴らすというテーマは共通している。
  しかし、この芝居をこんな風に主題追求の見方で分析しても面白くない。観客の多くは「わからない」と思いつつ、筒井康隆的ともいえる非現実ワールドのなかで楽しんだというのが本音だろう。ただ、第一部など、あれだけ派手に破壊されたにもかかわらず、活字のなかならもっと色々なことが起こせるのにと、すこし物足りなかったほどである。第二部も、もっとねじ曲げができなかっただろうか。
 舞台の上では、これが限界なのもよくわかるが、逆に言えば、この種の歪んだ世界を描くのに、小説に如くはないとも言えるわけで、何と演劇とは厄介なものだと再び痛感した次第。
 演劇という藝術形式がもっとも機能する芝居とはどういうものなのだろうか。
                                                                    (1989・7)


福祉は政治で解決するの?                                
                           文化座公演『三婆』第157回例会

 実は、何時、野々市町にこんな立派なホールが建ったのか知らなかった。今年になって「野々市文化会館フォルテ」という文字が目につき、はじめて知った次第。今や、金沢市街といってもいいほどにつながってしまった隣町のことである。一度くらいは工事中に横を通っているはずなのだが……。こちらがぼんやりしていたのか、最近の建設工期の短縮を驚くべきなのか。
 このホール、駐車可能というのがなんといっても魅力。車なら十五分もあれば着くはず、建物の見物もしようと、早めに自宅を出た。ところが、道が混んでいて、駐車にも手間取り、着席したのが開演数分前。館内見学は吹っ飛んでしまった。
 (ちなみに、その後、仕事の関係でこのホールにときどき通うこととなる。楽屋や舞台裏も含め、一番知っている小屋になった。二階席が舞台に近く、端席になっていない。台詞も聞き取りやすく、音響にも優れるという意見を聞く。)
 金沢市南部に住む者にとっては、帰宅ラッシュと重なり、もう一つの会場金沢市文化ホールに行くのと、時間的にはあまり変わらない事実を発見してしまった。晴れの日は、原付自転車で金沢市文化ホールへ、雨の日は、車でフォルテへというのが一番都合がいいが、当日の天気など事前にわかるはずもなく、今後も博打的に観劇日選びをすることになりそうだ。
  物語は、金融業の男が妾の家で急死、本妻(河村久子)、妾(遠藤慎)、小姑(鈴木光枝)が鉢合わせ、その後、共同生活をする羽目になる。立場や生活信条の違う三人の老女を一つ屋根の下に住まわせたらどうなるか。いかにも有吉佐和子らしい設定だ。
 『華岡青洲の妻』の嫁姑の争いを例に引くまでもなく、女の戦いを描くのに彼女の右に出る者はいまい。
 今回の登場人物たちも、虚言癖、盗み癖、世間の常識に対する盲従など、彼女の他の作品に、さまざまなバリエーションとして現れる女性たちである。三人の会話を聞きながら「この性格は、あの作品の誰々に似ているな」と連想を楽しみながら観ていった。ただ、原作を読んでおらず、鈴木光枝の講演要旨に「芝居は小幡欣治の『三婆』であり、原作と大変違っています」とあるので、あまり有吉に引きつけるのは危険かもしれない。
 では、脚色演出の小幡欣治の芝居とみて、ひとつだけ疑問を呈したい。この劇の眼目は、老いて我執あらわな女性たちの葛藤の心理に、そっと老悖の寂しさをすべり込ませているところにあるといってよい。われわれ観客は、三人の綱引きに苦笑しつつ、自身の老後に思いを致す。 ところが、小幡はエピローグに福祉を強調する選挙演説らしき声を流し、老人福祉行政批判を重ねて終わるのである。
 老いの問題は、一面で行政の問題でもあるが、それ以前に、個人の内面を見つめるものであり、どう受けとめるかという社会意識の問題であるはずだ。
 その意味で、鈴木が「『今の若い人は自分だけ年を取らないと思っているんでしょ』という台詞こそ胸に入って欲しい言葉で、これをどう言うかいつも考えている」と発言しているのは、さすがに作品のツボを押さえている。
 ラストに政治を持ち出したために、底が浅くなったと感じたのだが……。他の方はどうだっただろう。小幡は職人藝的な手際でこの作品を締めたつもりかもしれないが、私には、安易な常套手段としか映らず、私はここに至って、どっと白けたのだった。
 舞台は、三人の背負って生きてきた生活信条が、立ち居振る舞いひとつからでもはっきりとわかるほど細部まで神経が行き届いており、河村演ずる本妻など、私生活でもああいう発想をする人なのではないかと錯覚させるほどであった。
                                                            (1989・9)


 山田太一の主張はどっちだろう      
                                   地人会公演『砂の上のダンス』第158回例会

 「ある日青年社員が失踪する 砂漠から片方の靴が−」
 市民劇場の会員手帳にはこのようなキャッチコピーがあった。ある種、推理劇を予想していたのだが、ついに青年は失踪することなく終わった。「書き下ろし」と銘打たれているので、書いているうちに違った内容になっていったのだろう。
 作者山田太一が、どんな内容を思い描いていたか知るよしもないが、閉ざされた世界でおこる人間のエゴの露呈を見据えるモチーフ自体が変わったとは思えない。
  舞台は中近東。プラント合弁事業中断のために待機中の三組の夫婦(名古屋章、河内桃子、鈴木慎平、東郷晴子、山本亘、寺田路恵)と青年(加藤喬夫)、彼を追ってきた女(矢代朝子)の計八人が登場人物。
 四組のカップルおのおのの夫婦関係の力学や、二十代、四十代、五十代、六十代と、年代差からくる考え方、立場の違いなどによって、まったく違った現実把握をしていることが次第に明らかになってくる。『砂の上のダンス』という題もこの設定にぴったりだ。
  仕事人間の所長平岡信太郎(名古屋)にとってはプラントの現状維持に尽力することこそ現実なのであり、彼には妻玲子(河内)の言動は望郷の夢としか映らない。いかにも一番現実的な人間のように見える。その彼が内心このプロジェクトの撤退を予感しつつ、その疑念を打ち消すために現実を振り回していただけということが次第にはっきりする。
 このあたりから現実という意味は混沌としはじめる。自分にとって現実と思っているものが、他人にとっては現実ではない。価値観によって認識は相対的なものとなる。作者がそう主張しているのはまず間違いない。
 ところが、その次からちょっと自信がなくなるのだが、ラスト前、お互いの立場やエゴをはっきりだしてしまって行きづまった夫婦関係に、玲子が新しい見方を示して、よりを戻させる場面がある。
 彼女の意見は、現実を直視せよと主張しているのではなく、従来の日本人がそうであったように、ふたりの融和の時点で、現実をえぐり出さなくてもよい場合もあるのではないかという論理だったように記憶する。それはそれでなかなか利口なやりかたのように思い、作者の肉声がそこに出ていると最初は勝手に判断した。
 しかし、ラスト、全員がゲリラに捕まることで、作者は完全に足元をすくったかたちにして終わらせている。結局、この閉ざされた世界は日本のミニチュアなのであり、どう理屈をつけようが外部世界の認識とはズレているという相対化の視点である。現代の日本人への警鐘とみるのが、まずオーソドックスな見方だ。
 では、玲子の意見はあまりに日本的解決だと否定されたのかというと、そうでもないようだ。作者は彼女のラインで日本人の生き方を模索していこうとしているようにも感じられるのだ。
 世代の差、価値観の差など、多くの問題を提起しているなかで読みとらねばならず、作者はいったいどちらを主張しているのか、あるいは、対立概念として捉えてはいけないのか、一回だけの観劇でははっきり理解できなかった。
 芝居全体としての言いたいことはどうもはっきりしなかったが、それぞれの年代の人がそれぞれの思いを投影できる芝居という点では優れた手腕を発揮していたと思う。
 名古屋、河内らベテラン勢が大健闘。演出(木村光一)もすぐれる。
                                                                  (1989・10)


定番作品の難しさ               
                                   民藝公演『炎の人−ゴッホ小伝』第159回例会

 その昔、文学部国文学科の学生だったころ、教授陣が共同で執筆する「近代文学史」講義用テキスト巻末資料の「年表」を担当したことがある。私の担当は<演劇>の項で、明治以降の代表的な作品を毎年五作ほどリストアップする仕事だった。数冊の文学史の本をつき合わせればそんなに難しいことはなかろうとたかをくくっていたのだが、いざ始めると大変なものを引き受けたと後悔した。
 一番困ったのは、文学史の本によって発表年月がバラバラなことだ。ひどいものは二十年もの開きがあり、何故、こんなことになっているのか理解できなかった。そこで、専門書を調べるはめになったが、演劇論などが多く出回っている割には、系統的な演劇史の本が少ないのは意外だった。なかで比較的コンパクトにまとまっていた津山忠他編『演劇史 日本編(演劇論講座第一巻)』(汐文社)を手がかりにして推理することで、おおよその事情は飲み込めてきた。
 違っているもののほとんどは、戯曲の発表の時期と初演との違いなのである。例えば、戯曲が雑誌に発表されても、その時はあまり話題にならず、二十年後に初演された場合、いったいどうするのか。「戯曲史」ならば掲載年だし、劇団を中心に観ていくのならば初演ということになるが、あるものは戯曲の段階で高い評価を受け、あるものは時代への適時性なども含んだ台本以外の部分で評判をとるといったように、それぞれの芝居によって、さまざまな成り立ちや評価の基準があって、一概に決められるものではない。それで同じ本のなかでも、統一されてはいないのだ。
 大げさに言えば、年月の確定はその本の著者の演劇史観の問題ということになる。結局、本文の演劇の項を執筆された教授に照会して、後は下駄を預けることになった。
 専門書が少ないと感じたのも、小説のように書かれた時点で固定するのではなく、劇団という人間の集まりが肉体で表現してはじめて完成するものだけに、人間の集散離合を含んだ下世話な記述も入れざるを得ず、文学研究というと油の抜けた記述が学問的なのだと思いこんでいた私にとって、専門書の基準が違っていたのだろう。
 そんなこんなで、アルバイト料の割にはえらく労力のかかった仕事になったが、いい勉強をさせてもらった。
 一九五一年に初演された『炎の人−ゴッホ小伝』のタイトルも、その時、ゴッホの半生を描いた著名な作品として頭に入れた。金沢市民劇場に入って、こうした題だけは知っているが観たことがないという<定番作品>が観られるのは何より有り難い。
 パンフレットに引用されている矢野誠一氏の文章によると、今回の舞台は、昔の舞台にあった「いじめられっ子」的な弱いゴッホの一面を払拭したいという滝沢修(演出主演)の思いが感じられるものであったそうだ(「民藝の仲間」九月号)。残念ながら、はじめて観る私には、どう変化しているのか知るよしもなく、今の滝沢ゴッホを語るしかないのだが……。
 滝沢は、ゴーガン(岩下浩)との藝術家としての違いを突っ込んでやりたいという希望を持って臨んだという。台詞の上では、実在論を闘わせる部分にそれが出ている。見える部分の奥にある実在を表現したいというゴッホと、オマージュにすぎないというゴーガン。
 ただ、私の印象では、このモチーフは充分に展開しているとは言い難い。後半のストーリーにどう絡むのか。ゴーガンとの近親憎悪的な愛憎の果てに狂気にいたる生活上の感情の対立が後半の中心となって、理論の対比は流れてしまっているようだ。これは三好十郎の責なのかもしれないし、あるいは滝沢の対比重視の結果かもしれない
 (実に曖昧にしか語れないのは感想文のもどかしさだが、こうしたことは脚本研究をし、演出の違いを追跡調査してはじめてわかること。そのうえ芝居は水もの、一回一回出来が違い、印象も一変する。ファジーなものはファジーにつき合えばよいのでは……と、ここはいささか自己弁護しておこう。)
  私が観た滝沢ゴッホはいじめられっ子などではない。俳優の年齢からくる印象のせいで、三十歳すぎの青年藝術家というより、いつまでも若気が抜けない万年青年風のくだまきお年寄りにしか見えなかった。さきほど言ったような、同じ役を演じ続けた経験の深まりによるゴッホ観の変化といった演出演技の違いも大きいのかもしれないが、なんだか、もっと単純に、役年齢と役者の実年齢(滝沢は明治三十九年生まれ、八十三歳)との大きなギャップが、こうした感想につながったのではないかと思う。
(突然、余談です。『欲望という名の電車』の杉村春子の時など、娘役で出てきて、「うわっ、やめてくれ」と思ったが、これは、まあ、彼女主演で観られたことに感謝して、覚悟を決めて観たので許します。)
 有名な誰々の何々といった、役者のイメージと結びつけられすぎた芝居のロングランというのは、定番なりに難しい面もひきずっているのではないかと感じた劇だった。
                                                                  (1989・11)


沈黙は饒舌                       
                                 俳優座『エセルとジューリアス』第164回例会

 金沢市民劇場では、一九八四年の『貴族の階段』、一九八五年の『ナターシャ』以来の栗原小巻主演の芝居。
 武田泰淳の原作自体が成功しているとは言いがたい作品で、案の定、舞台中央の大きな階段の象徴性がまったくでていなかった『貴族の階段』。ツルゲーネフ原作、エーフロス演出ということで、どうもバタ臭く、気持ちがついていけなかった『ナターシャ』。回転椅子(?)がガラガラと何度も廻って、それがいったい何の象徴なのかよく判らずじまいだったことを思い出す。長年の会員の方からは「また栗原?」「もうあれから五年もたったの?」という声を聞いた。
 近年、国際派女優として世界的に名を知られるようになり、蜷川幸雄作品でヨーロッパ、俳優座「セツアンの善人」(ブレヒト作)で中国公演と、世界に通用するという視座で活動しているようだ。
 今回の舞台も、原作がクルチコフスキの翻訳で、翻訳調の台詞まわしがプンプン。ペラペラと警句的な字句が飛び出してくる。そのなかには、含蓄がある言葉も多く、ひとつひとつの意味を一所懸命とっているうちに、ドンドン台詞が頭の上を飛んでいく。他の人は、どの程度意味がとれているのだろうと芝居中いらぬことを考えた。私の頭の回転が遅いのか、作品がそんなことを無視した作りになっているのか。プリプリ。
 そこで、私がしたことは目をつぶって言葉に集中すること。舞台としてはスタティックな部類なので、この方法が一番いいと思ったのだが、でも、これではラジオドラマと変わらず、元がとれないという気がしてきて、また、目をあける始末。なにかと雑念が湧く芝居である。
  原子力の機密をソ連に提供したというでっちあげによって、逮捕、死刑を宣告されたエセル(栗原)&ジューリアス(小笠原良知)・ローゼンバーグ夫妻の死刑執行前六時間を描く。二年ぶりに獄中で再会する二人は、判事の誘惑など、あの手この手の「転び」の魔の手にも屈せず、真実と人間の尊厳を貫き通すため、幼い子を残してまでも<死>を選ぶ。
 いささか優等生的な話だと思われるかもしれないが、そのとおり、これはずいぶん優等生的な話だ。
 ついに、誘惑に対して沈黙を守ることができたとラストの場面で二人は話し合う。死刑まで残り十分。二人は最後の最後まで、自分たちの立場を明確にすべく、しゃべり散らす。一番違和感を持ったのはこの場面だ。私ならば、黙って静かに死を待つだろう。なかなか外人さんの沈黙は饒舌を秘めているものだと感心した。
 芝居の出来不出来以前に、文化の差を感じてしまって、翌日、感想を聞かれた友人に「またまた、バタ臭い話やった」と総括したことであった。                                                                                      (1990・9)


津瀬さんのことなど     
                     しゃぼん玉座公演『唐来参和』第165回例会

 民放のラジオ番組『小沢昭一的こころ』(TBS系)は、いったい何年続いているのだろうか。私が中学生の頃には放送されていたから二十年近くにはなる。あの頃はラジカセよりも単体ラジオが主流で、当時でさえ一万五千円もするソニーの「スカイセンサー」、ナショナルの「ワールドボーイ」(書きながらも懐かしくなってくる名前。これを読んで知ってる知ってると頷いてくれる人はどのくらいいるだろうか)などのワールドワイドラジオが子供たちの憧れだった。遠隔地の放送を傍受するBCLも盛んで、各国の日本語放送を必死にワッチ(受信)していたものだ。
 LPレコードは高価でほとんど買えず、音楽情報はもっぱらラジオだった。たとえば、前田武彦がDJの『ヤング・ヤング・ヤング』などを眠気と闘いながら必死で聞いていた。この番組、覚えておられるだろうか。もちろん当時はレンタルCDショップなどはない。
 あの頃は、ちょうど学校から帰って、大事にしている「スカイセンサー」(へへへ。結局、買ってもらった)をつけると、小沢さんの声が聞こえてきた覚えがある。今は仕事帰りのカーステレオからときどき耳に入ってくる。こちらの生活は変われど、番組だけはあい変わらず同じ時間帯に流れ続けているというのは、何だか不思議な感じがする。だから、今回の一人芝居で、彼がヌーッと現れた時の第一印象は「あっ、小沢昭一的こころ現る」という感じだった。
  話はラジオに終始するが、あの番組、昔のほうがよかった気がする。小沢の話藝は相変わらず素晴らしいのだけれど、最近はハチャメチャさがまして、嘘くさくなり、エッチ度が増した。スタートの頃は、月曜日から木曜日まではどちらかというと真面目な話、金曜日のみスケベな話という棲み分けができていたはずだ。
 このパターンが崩れたのは、私の記憶に間違いがなければ、スクリプト(放送台本)の津瀬宏が死んで、ライターが交替した頃からではなかったか。津瀬の名義で『小沢昭一的こころ』という本も何冊か出ていたと記憶している。津瀬の台本は、ユーモアのなかに、サラリーマンの生態を地に足がついた分析で語っていたが、今はそうした社会性が希薄になり、作り話を前提にした笑いが中心になってしまった。
  今回の観客の感想では、小沢の藝に対する賞賛、それも<藝>という言葉を再認識したという評が圧倒的であった。前半の漫談調の下勉強的な話藝、そして、後半の鮮やかな女形藝、いずれも評価が高い。会場の野々市町のことをさらりと枕にするアドリブの妙もさすがだ。
 小沢の一人芝居は、俳優小劇場時代の『とら』(昭和三十八年)が最初で、年期が入っている。その時は「新劇寄席」という呼び方だった。「一人芝居」というのは、裏方の人たちを無視した言い方であまり好きではないという。寄席に「芝居噺」というジャンルがあり、それをもっと本格的な形にしたかったそうだ。この芝居(演出長与孝子)こそ、そうした若い頃からの願いが実現したものになっているように思う。
 芝居には、表にあらわれた役者としての才能以外の、土台部分の完成度が命というところが確かにある。井上の本からこの小話を見つけ出した眼力、自分の話藝が生かせる前半部の創出など、彼の芝居にかけるまでの縁の下の努力や工夫があればこそ、<藝>が際立ったのだということを忘れてはなるまい。
 井上は、小沢からこの小話の舞台化の話を聞かされた時、唖然としたという。小説と戯曲の二足の草鞋を履くものとして、この題材が、小説戯曲どちらのほうがいいか自分にはよくわかっているつもりで、一人称小説こそ相応しいと思って書いたものを、戯曲にすると聞いて、自分の判断が間違っていたのではないかと自信がなくなったという(「小沢昭一の二つの冒険」昭五九・九)。
 原作『戯作者銘々伝』(中央公論社)は、有名無名の戯作者の人生を、作者一流の味付けでまとめた短編集成。おのおのの人生の喜怒哀楽が背後からじわりと染み出てくる。この唐来参和は酒を飲むと何にでも反対する癖があり、しまいに女房小信を吉原に売った人物。
 題材的には、直木賞を受賞した『手鎖心中』(文藝春秋)など戯作者に対する作者の古くからの興味の流れである。そういえば、作者は十九歳の時、江戸の黄表紙本を読んで衝撃を受けたということを、十数年前、早稲田大学大隈講堂であった講演会で聴いた覚えがある。
 ただ、主題的には、様々な手紙の形式を借りて人生を織りだしていった『十二人の手紙』(中央公論社)との類似性が顕著である。−もって生まれた性格ゆえに人それぞれに人生が変化し影響しあう−井上はこうした人生の断面をさりげなく描く名手であるように思う。
 小沢が四回目の引退興行だといいながら、どうしてこの作品を大切にしているか納得できたのは私ひとりではあるまい。引退興行が末永く続くことを心から祈りたい。
 最後に、無名のまま逝った津瀬宏。もし生きていれば、放送作家が脚光を浴びる時代である、必ずやいい仕事をしていただろう。「昔のラジオ少年はあなたの名を忘れてはいませんよ」と一言添えて、この駄文を終わりたい。                                                                                           (1990・10)

(補説)一九九五年現在、『小沢昭一的こころ』は二十三年目。『唐来参和』は五百ステージに達しようとしている。                         (1995・8)


人間のこだわりって  
                   フォーリーズ公演『ミュージカル 船長』第166回例会

 人間という生き物は、過去にこだわりをもって生きている。人によって、その度合いはさまざまだが、過度に思い入れてしまうと、過去にすがって生きていくことになる。
 フランス映画『愛と哀しみのボレロ』(クロード・ルルーシ

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