ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。
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金沢は坂の町である。子供の頃はそれが当たり前だったので、長じて、ダコベコ(デコボコの金沢弁)していない町に逆に違和感を持つことになった。平面的な町は殺伐としていると映ってしまうのである。東京が、散歩人にとって絶好の町なのは、谷と台地が入り組んだ坂の町だからである。特に、地勢的に河岸段丘の先端にあたる文京区は坂の町と言ってよく、私は、荷風の散策記『日和下駄』を調べるために、かなり文京区の坂を歩き回った。あの時書いた論文の眼目は、一見、東京を項目的網羅的に記しているようだが、「崖」「坂」など同じものを重複してまで立てることで、故郷小石川の風景を繰り返し確認しているのだということであった。 高低差は陰影を生む。崖上と崖下、光と影、富めるものと富めないもの、乗り越えられない断絶として、二つを分かつ。そして、その二つを結ぶのが坂なのである。本来断絶しているものを繋ぐ細長いコミュニケーションのルート。 水に浸食されてV字に削られたところが、おそらく原初的な坂の形態である。登山道の成り立ちを考えたらすぐに判る。でも、多くは急峻で町中の道としては適さない。だから、江戸時代までの坂は、傾斜に沿って斜めに下りる道のことが多いようだ。崖に対して垂直な坂は、水が涸れてから、あるいは、治水を施した上で、後からできた坂のことが多い。実家近くの長良坂も、下るにつれて、周囲の壁が高くなり、犀川に真っ直ぐ下りていく典型的V字型。やはり、江戸時代、小川が浸食して削った後に道をつけたそうだ。 下菊橋から小立野台地に上がる坂に二十人坂がある。台地の上の部分をV字に削り、崖下の低地の部分は逆に土盛りがしてある。父によると、当時、珍しかった爆薬で掘削したてできたと聞いているとのことだった。こうして、人工的にまっすぐに台地に上がっていく道は、江戸の発想ではない。人間が自然を屈服させてできたもの。あの坂が何時出来たのか、正確には知らないが、近代の思想を強く感ずる。 半年前の文化教室は、県立工業高校横の大乗寺坂から小立野台地に上がり、帰りは嫁坂を使った。嫁坂の細い階段坂を歩いたのは久しぶりだった。十年ほど前、坂巡りが目的で、真横の車が通る新坂をスクーターで下りた覚えがある。この坂、下りたところが住宅密集地で、大通りに出る分かりやすい道がないので、知った人しか使わない地味な坂である。先の美術館の帰りにも使ったが、一年に二度も使うのは珍しい。 これで、ちょっと判らなかった崖下の迷路もこれで判った。この坂、崖上の武家のお屋敷から崖下に嫁に行った娘のために開削したのが名前の由来。親御さんの愛情溢れる坂なのである。 金沢の人でも、存在自体知っている人がほとんどいない。人通りも少ない。この前通った時は、陰のベンチで県工の生徒がデートしていたくらい。もともと私は判官贔屓である。もっと使ってあげようと勝手に思った今年。
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