ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
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先週の日曜日、以前紹介した四方健二君の詩集『羅針盤』(郁朋社)出版を記念しての朗読会があり、「もてなし広場」に出かけた。先年出来た金沢駅東口巨大ガラスドーム地下のイベント広場である。 この詩集が縁で、彼は地元放送局の女性アナウンサー金子美奈氏とメル友になったそうで、手弁当で朗読役を買って出てくれたという。せっかく事前にしっかりと予習をして感情込めて読んで頂いたのに、オープンスペースということで、雑踏の雑音が反響し、ちょっとざわついていたのが残念だった。場所的には小ホールのようなところがよかったのかもしれない。観客には報道関係者が目立ったが、こうしたフリーな雰囲気なら、もっと気軽に知人に知らせて、宣伝マンになればよかったと夫婦でちょっぴり反省した。 展示コーナーには、高校卒業の寄せ書きも飾ってあり、私の字を見つけた。もう二十年前の色紙で、よく保存してくれている。あのころの同僚や、今は亡き彼の仲間たちの字が懐かしかった。
彼は、詩集を出す度に腕を上げ、「筋ジストロフィー症の」という括りなどいらない本格的なものになっている。出版社の方も、作品を評価して出版を決め、作者に会ったら障害者だったのに驚いたという話を聞いた。おそらく本人も、純粋に詩人として勝負したい気持ちを強く持っているのではないだろうか。病気のことを直接語るものはほとんどなく、今感じている精神の背景として、自分を否応なく規定したものとして、という詩が多い。 処女詩集には、はっきりとした嘆きがあった、恨みがあった。それは、今でも現れるが、多くはその気持ちを抽象化し、イメージの世界に昇華した上で提出しているので、一見、判りにくい。 例えば、「そのとき」という冒頭の詩では、自分が「光りの空間」にいて、「星屑に包まれていた」という。そこは「穏やかな光」の世界である。しかし、彼方には「暗黒」があり「私」はそこに向かっている。「そのとき私は死臭を嗅いだのだ」という意外な一行でこの詩は突然終わる。光り輝く飛翔した天国的イメージだと思って読んでいくと、急転直下、吸い込まれそうな死への親近性と恐怖の気づきに変転するのである。 それは、気管切開をして人工呼吸器をつけることで、声を失うかわりに心の平安を得るはずだったのに、ぜんそく的な症状が出て苦しんだことを歌ったその次の「誤算」という詩に「秘密のうちに死を夢見る」という言い方で述べられている。 この詩集の前半は、この種の、さらりと述べてはいるが、「蛍の死骸握り潰す」(「夏至」)という比喩などで発現する、根底に黒くて重いタールの流れのような心の蠢きを感じさせる詩が多い。 しかし、そうした死と対峙し、時に厳しく、また、時に沈みがちな詩の他に、水芭蕉の姿に「祈り」を感ずる「水芭蕉」、梅雨上がりの青空を歌った「雨のち晴れ」、「私は今ここにいる、この奇跡にありがとう」と生に感謝する「ありがとう」、「ひだまりを拾おう、心のポケットに詰めて、ポケットをひだまりが溢れたら、みんなの心におすそ分け」と温かな心を周囲に広げていく「ひだまり」など、穏やかに生を見つめて日々感謝しながら生きている詩人の心の暖かさが表出している詩が、後半、多く現れるようになる。 そこには、「この人生に苦心しながら、葛藤しながらも(中略)ポジティブに生きています。人の真心を追い風にして。」「多くの人に生かされて、温かな日々を過ごしています。」(まえがき)と語る、今現在の彼の心境がそのまま反映されているのだろう。 以前の詩に較べて、明るい太陽や光を題材にした作品が多くなり、冬から春、春盛り、夏の詩が多くなったのも、その表れである。十代二十代に較べて、技術的に目を見張る冴えを示しているが、その上に、この、彼の精神の成熟こそが、括弧付きから抜け出でいると感ずる理由である。 四季を感じ、身の回りに起こった出来事に感応するのに、何の違いもない。彼の心は、ここで、人として普遍的なものに向かっている。ただ、病棟のベッドの中という狭い知覚の世界、そこだけが特殊である。何の予備知識もなく彼の詩を読んで、幾つもの比喩的表現を重ねていると思われる詩も、実は、彼が眺める小さく切り取られた窓から見える実景であることが多い。知覚の範囲が狭小ゆえに、必然的に猥雑性を排除せざるを得ない。実景は純粋なイメージとなる。そうした意味で、詩人の闘病生活を想像する読み方もできるし、象徴的に読み解く試みも可能であるように思う。 読みが複合的になるのは、詩人の戦略なのであろうか。
(本サイトのトップ頁下段に、その時の模様をアップしました。ご覧下さい。)
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