NHK「坂の上の雲」の第十一回「二百三高地」を録画で観た後、テレビで映画「二百三高地」(舛田利雄監督 一九八〇年)をやっていたので、引き続き観てしまった。途中休憩が入る長尺映画で、終了は十二時を超えていた。二本で延々五時間近く、我が家の居間は鮮血飛び散る凄惨な旅順の高台と化した。 映画は指導者層ばかりでなく兵卒たちの視点からも描いているのが特色で、前半終了前にさだまさしの歌の歌詞が延々字幕で流れるなど、演出は今観ると泥臭い。 NHKドラマは、当然、司馬遼太郎の小説の通りに語られる。しかし、映画のほうもクレジットがないにもかかわらず、彼を下敷きにしているのは明白で、人物の描き方や性格付けなどが準拠しているテレビと類似していた。例えば、児玉への指揮権委譲や第三軍参謀伊地知幸介の体調不良の設定など。 反対に、最新のテレビのほうが三十年前のこの映画を参考にしているのも、誰の目にも明らかで、例えば、乃木と児玉が馬上で再会し、密室において二人だけで相談する場面の流れなどは、そっくりそのままリメイクされているかのようであった。つまり、二つを較べての感想は、似すぎているということ。パクリではないかと気になった。 司馬は乃木を愚将として描いている。このため、テレビドラマでは、知略に欠け、「させる能もおはさぬ」人物として描いているし(俳優・榎本明)、映画ではテレビよりは決めるところは決めて、愚の中に俊を隠しているといった描き方はするものの、全体として茫洋たる人物という印象は変わりない(俳優・仲代達矢)。
漱石・鴎外を持ち出すまでもなく、彼の殉死は近代思想史上でも大問題。当時から彼のこの行動は毀誉褒貶相半ばしていた。乃木はどんな人物だったのだろう。見終わった後、興味が出て、深更にもかかわらず少々調べた。
乃木希典。維新混乱期より実地で闘った忠義の武人。若い頃は多少直情径行型で、軽率なミスも多く犯し、放蕩もしたが、昇進するにつれ人に落ち着いた印象を与える人物に変化した。生活は清貧に甘んじ、人格は高潔。当時としては長身で髭を蓄えた軍装の姿は、観る者をして如何にもゼネラルと感じせしめる魅力があった。明治帝の寵愛頗る厚く、国民の人気も高かった。例の皇軍旗奪取事件以降、彼は武人として死に場所を探しており、旅順での大量死で自己を責めるの念は益々強くなったが、その一方、自分の意志と無関係に国民注視の的となり、世界的にも日本陸軍のシンボル的存在に置かれてしまったこともまた十二分に承知していた。中年時には独逸に留学し近代的軍事を学んだが、軍略的に近代戦の本義を体得していた人物とは言い難く、漢詩に優れる等、仕事的にも教養的にも旧来の武人の精神を残す前近代的な要素の強い人物である、といったところが大まとめか。 褒むる人は彼の日本的美点に注目し、貶す人はその非近代性を追求する。武士道精神を推奨する人は擁護し、桐生悠々や芥川、志賀など若い世代は批判する。
今回、例の旗は自分の手で持っていたのではないこと、妻を横に立たせ新聞を読んでいる有名な写真は、殉死直前、自ら写真師に依頼したもので、彼の死には自己演出的な要素が強いとする指摘もあること、また、妻の死についても、円満な心中とは言えない要素があることなどを知った。
戦後の軍国主義排除、その後の左翼思想全盛の風潮の中で、戦前あれだけもてはやされ崇められた偉い軍人達の評価は地に落ちた。というより、無視するようになった。若い頃勤務していた伝統校でのこと。用事で倉庫部屋に入ったら、巨大な東郷平八郎の扁額が飾ってあった。おそらく戦前は麗々しく講堂に掲げられていたのだろう。しかし、今や捨てるに捨てられず人目につかない場所に放置されたまま。日本海海戦の英雄でさえこうした扱いである。それに、正直に言えば、恐ろしく下手糞で人前に出すような字ではなかった。
今回思ったのは、こうした軍人情報空白状態の現代人に、ベストセラー小説、大作映画、お金のかかったNHKスペシャルドラマと、ネタは司馬一つながら、こうも「愚将」解釈の情報が続くと、これが彼のイメージとなり、人物評価として定着していくやもしれないということ。情けなさを印象づける、友人児玉の助力でようやっと勝ったというストーリーの根幹自体、司馬の創作・誇張の可能性もあるという。たかが小説家の解釈では済まされぬ、なかなか怖いものがあるというのが今回の一番の感想である。 我が家のルーツは長州。私も乃木神社や生誕地近辺を散策したことがある。父にいたっては、彼の地に長期滞在したことさえあり、なんといっても戦前教育を受けているので、乃木大将は疑いを入れない大偉人だったろう。司馬の愛読者で「坂の上の雲」を何度も読み返してもいた彼は、どういう気持ちでこの部分を読んでいたのだろう。 最後に、で、アンタ自身の評価はどうなんだという声が聞こえてきそうだ。今回、ちらっと調べただけでの妄断としては、まさに立派な部分と駄目な部分が同居する、変な言い回しだが「毀誉褒貶相半ばするに足る」人物という印象であった。
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