今はグラスファイバーの弓、アルミシャフトの矢を使う弓道ですが、武士の時代は、どうだったのでしょうか。「平家物語」の「木曽殿の最期」の中で、義仲の武具の説明が出てきます。
石打の矢の、その日にいくさに射て少々残つたるを頭高に負ひなし、滋籐の弓持つて
「平家物語」ではいちいち煌びやかな武具甲冑の説明をして、その勇姿をイメージづけるのが常套手段です。 この文章中の「滋籐(しげとう)の弓」とは、木材と竹を組みあわせて膠(にかわ)で接着し藤で補強した弓の名称です。大昔は、「伊勢物語」に「梓弓・真弓・槻弓」とあるので、単一の木材を使って撓(しな)らせて作っていたと思われます。竹弓も多かったはず。勿論、一つ一つ癖があって精度が悪く、その癖を掴んだ上で射らねばなりませんでした。それが、少しずつ改良され、異なった素材を使うことで捻れに強い精度のいい弓を開発したのだと思われます。当時最高の「リーサル・ウエポン(致命的な武器)」です。束(つか)を黒漆塗りにし、その上を籐で強く巻く。この籐は当初貼り合わせた部材が分解しないようにするための実用的なものだったと思われますが、どんどん技術がよくなって、もしもの用心のためといったレベルになり、後年は飾り的な意味が強くなったのではないかと思います。大変、手間暇かかったものですので、大将クラスが持つ高級品で、籐の巻き方などによって多くの種類があるようです。「重籐」とも表記しますが、おそらく、籐でくるくると巻くからと思われます。
「石打の矢」とは、最高級の矢のことです。矢に取り付けられている羽根は、戦(いくさ)につかうことから鷲や鷹などの猛禽類の羽が珍重されました。鳥は飛んでいる時に尾羽を扇形に広げますが、その一番外側の羽根が最も強いので、それを使いました。この羽根を「石打」といいます。左右一本だけしかないので希少価値が高く、これもリーダークラスが使う高価なものです。つまり、昔は飛んできた矢で、射た相手の身分の高低がだいたい判ってしまう訳です。 猛禽類の羽根は今や動物保護の観点から採取が困難になり、現存の矢があるだけになっています。先日、山中(加賀市)の弓道場で、八段の方(故人)が使われていた鷹羽根の矢がショーケースに飾ってあったので、まじまじと観察しましたが、軸も端正こらした節の処理が見事な竹製で、惚れ惚れとしました。いかにも「本物」といった質感でした。 その昔、東京に昔ながらの矢を専門に作っていた小さなお店がありましたが、先年、上京した折りに前を通りかかると、もうそのお店はありませんでした。今はターキー(七面鳥)を使っているようです。
ついでに、具足のうち弓にからむパーツを解説しておきます。戦で武士は左右違う手袋をしています。左手は籠手(こて)。これは剣道でご存じのものです。手先だけでなく長いのは、腕を広く守るため。右手は弽(ゆがけ)といいます。これは弓をひく時に今でも使うもので、タイミング良く放つのに絶対必要なもの。長年かけて革に癖を覚えさせ、自分のものにしていきます。ですから、貸し借りするなどということは絶対にありませんし、人のものを使うと、名人クラスでも発射さえおぼつかないことになります。
鎧の「弦走(つるばしり)」とは、胸や腹を守る「胴」の前に貼る革や布のことで、放つ時、弦が胴に引っかからないようにするためのものです。今の弓道で女子が「胸あて」をしているのと同じ役目です。和弓はぐっと体に引きつけて放つので、胸前を弦がハイスピードで通過します。そこで、つるっとしたものが胸にないとひっかかって「胴」が踊って大変なことになります。その防止用です。 末弭(うらはず)本弭(もとはず)というのは、それぞれ弓の上下の先端のことです。矢で弦にひっかけるところも弭(はず)といい、今は樹脂製です。これらは今も弓道部でよく使う言葉です。反面、矢の「袖摺節(そですりのふし)」とか「射付節(いづけのふし)」などの名前は、アルミシャフトになっている今、もう使われていません。(2011・12・7)
(以上は「平家物語」の補助プリントとして作成した文章。テキストには当時の武具甲冑のイラストが載っており、その弓道関係の部分を解説したもの)
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