ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
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2006年05月14日 :: 夏目房之介『孫が読む漱石』(実業之日本社)を読む |
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新刊(二月)で買って、先日ようやく読み終えた。『漱石の孫』(実業之日本社)に続く作者の漱石ものだそうだが、前著は読んでいない。 著者は著名な漫画批評家で、漱石の長男バイオリン奏者純一の子である。新聞で軽妙洒脱なコラムを読んだことがあり、肩も凝らずに楽しめるのではないか、途中、楽しそうな漫画も入っているし、という軽い気持ちで選んだ。 前半四分の一近くを占める「吾輩は孫である」というプロローグの章が一番面白い。祖父と父、それに孫である自分自身を、分かりやすく社会的文脈の中で定位させようとしている。 父純一は、親爺の著作権を元に、「高等遊民」を地でいった人であると定義される。作者自身は、若い頃「漱石という存在に反発」していたが、自らのダブル倒産によって、遺産という実体が消えたことで、漱石とは「自分の思想上の問題」だけになった。そのため、今は「孫といわれてもにこにこ受け入れられる自信」がついているという。 「学問研究から文芸創作に移った祖父と、大衆文化の中で少し研究よりになった孫のベクトルのちがいは、大風呂敷にいってみれば、国家も文化も急ぎ建設中だった百年前と、その成果を楽しく消費する戦後大衆文化社会とのちがいを背景にする」といった分析の仕方に、批評家らしさが垣間見える。 作者は、自分の立場をよく知っている。読んでいない作品は、初めて読んだとはっきり断って書いてあるし、難しいところは難しい、面白くないところは面白くないと書いてある。そういうところは、まったく今の一般的な読者の感覚そのままで、包み隠さず表明しているところなど、おそらくかなり意図的である。理論武装して書かれた本はゴマンとある。作者は、そんなことをしたら、自分が刀折れ矢尽きるのがオチであるとよく判っているのだ。 この本の感想をネットで調べると、内容がないと否定的なものが見受けられたが、直接、本人に接したことがない孫の代で、かつ、文芸の専門家でもない立場として、時に残された親族を語る風に、時に、社会に作品を定位させる漫画評論の文学版風にと、行ったり来たりしながらの文章なのだから、熱烈偏愛者にとって物足りないのは当たり前である。それを求めるのはお門違いであるように思った。 漱石作品を読んでない人にも分かるように書いて、ちょっと分析的な意見も入れ、エッセイとして読んでもらっても面白いものを目指さねばならず、その間隙を縫うのは、なかなか難しい作業であったのではないか。 個々の作品分析では、だから、『行人』あたりは、ちょっと気負っていて、その辺りで、ちょっと読むのを止めていたが、最後部、祖母鏡子の『漱石の思ひ出』や漱石書簡集などのことになると、また、ぐっと生き生きしてくるのは無理はない。 晩年の鏡子を、作者は幼児の頃よく見知っている。腹蔵のない大黒柱的な存在だったそうで、そんな性格だから夏目家はなんとか体裁を保つことができたのだという。そして、漱石にとっても世に言われるような悪妻などではなく、心が通じ合っていたはずだという書き方がされてある。もう一度、結婚するとしても旦那がいいと彼女は語ったそうで、末裔としては嬉しい言葉だったのではなかろうか。この本、そんな残された一家のエピソード的な部分が、やはり、楽しかった。 ただ、全体的に、面白路線にも大真面目路線にも徹し切れない中途半端さが祟って、読者レビュー的に言えば、五つ星中、☆☆☆程度か。
(写真は表紙カバーイラスト(一部))
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