ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
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金沢大学の過去五年間の国語入試問題の出典を年順に羅列してみる。
1999年 竹田青嗣「自分を生きるための思想入門」(生きる意味を、昔は、宗教上、死後の世界をイメージさせることで、現世の生きる意味を保証したが、今は、社会への貢献に生きる意味があるという形に変化していったという内容) 2000年 江藤淳「妻と私」(以前に触れた、妻の死を看取る話) 2001年 秦恒平「虚像と実像」(秦流虚実皮膜論で典型的文学論。) 2002年 岩井克人「未来世代への責任」(経済学者からみた環境論。朝日新聞2001年8月3日夕刊) 2003年 小浜逸郎「人間はなぜ働かなければならないか」(労働するのは、人間が社会的存在だからという結論の労働論。) 2004年 斉藤道雄「もう一つの手話」(「手話詩」の可能性についての話。)
こう見てくると、出題が、思想的人生的な文章から、社会的実際的な文章へと変化していることに気づく。金沢大学を受ける生徒に、いかにも受験校の教師らしく、この分析を語ったが、この傾向、続くかもしれず、突然、揺り戻すかもしれない。ということで、これでは、なんの予言にもならないのであった。 ただ、どうなのだろう。どんな文章でも、ある程度しっかりした文章であれば、国語力を問う設問は出すことが出来るから、出題として問題はないのだが、今の世の中、猫も杓子も、福祉、ボランティア、環境、ニートといった、現実論ばかりになっているのがどうも気にくわない。それは、いわば対処療法的文章である。妻を巡る死の想念、生きる意味を考える、そうした「思惟」といえる文章を、難関大学を受けようとする生徒には読ませたいと思うのだが……。観念論を軽視し、対社会や実利的ものばかりを重要視すると、いつか「理想」や「長期的展望」が見えなくなり、その時その時の現状判断ばかりがうまい大人ばかりになっていく。これは、私がいつも主張することである。 高校生の読書感想文が、感動ものドキュメンタリーばかりで、小説がほとんどなくなったのと、選択の主体が大人と子供で違ってはいるが、どこか似てはいないか。つまり、どちらも「時代の要請」に敏感すぎやしないかと思うのだ。 さて、前期の個別試験が明日にせまっている。特に最後まで質問に来ていた生徒達に、その努力の報いを味わわせてあげたい。 君たちは、充分、抽象的な文章を読む実力がついています。太鼓判。ぽん。
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