ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
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先月三十日付「朝日新聞」朝刊に、谷崎潤一郎の旧居「後の潺湲亭(石村亭)」が、人数を限って一般公開するという記事が出ていた。昔、訪れたことがあるだけに、懐かしい思い出がよみがえった。 谷崎潤一郎は、昭和二十四年から昭和三十一年まで、下賀茂神社糺(ただす)の森横にある見事な庭園つきの日本家屋に住んだ。この家を、南禅寺近くの「前の潺湲亭」(現存せず)に対して、「後の潺湲亭」という。谷崎は、ここで『鍵』『夢の浮橋』『新訳源氏物語』など、戦後の代表的な作品を執筆した。 「潺湲(せんかん)」とは、水の流れゆく様をいう。「潺湲として流る」などというフレーズが漢文にはよく出てくる。売却の際、谷崎は、分かりやすい「石村亭」という名を譲渡者に与えた。新聞は見出しで「せせらぎ亭」と書いているが、そんなのは勝手な読みかえで、違和感があった。 高校時代より谷崎を耽読し、大学では「戦後の谷崎」を研究テーマに選んだので、研究対象作の多くを執筆したこの潺湲亭は、いわば私にとって憧れの場所だった。 ただ、論文は現地に行かずに済ました。どこかの会社所有になっており、入れないことを知っていたし、単純に、学生の身分、京都までのお金がなかったのである。 その後、社会人になり、経済的に少し余裕が出た、今から二十年ほど前、重い腰を上げ、ようやく取材旅行に出かけた。下賀茂のこの家、谷崎の墓、それに墓所近くにお住まいの息子の嫁、颯子のモデルに当たる渡辺千萬子さんとお会いしたりした。 当の石村亭は、下賀茂神社参道にはいると、捜すと言うほどのこともなくすぐに見つかった。写真で見ていた入り口の様子からして、こんな佇まいだろうと想像する通りの場所にそれはあった。入り口に縦長の石仏が出迎える。通常、門は閉まっているはずだが、この時は、偶然、開いていたので、そろそろと中にはいる。思いがけず管理の方がいて、声をかけて許可をもらって、簡単に庭だけ見学させてもらった。 ここは、『夢の浮橋』の舞台になったところであり、単に住んでいたという以上の調査価値がある。物語は、亡くなる父が後妻を息子に託すという話で、『源氏物語』を下敷きに、まだ若い妻松子を誰かに託さねばと考える谷崎の主体的願望が綯い交ぜになって紡がれている。特に、庭の離れが妻と息子の秘密の場所として妖しい存在感を示す。実際の庭、離れの配置を、後で作品と照らし合わせてみたが、ほぼそのままだった。 谷崎がここを去る時、松子夫人の同級生の夫が、日新電機(左京区)の役員だった縁で、この会社に譲ったという。新聞によると、いまだにこの会社が単独で営々と管理を続けているとのこと。谷崎の、できるだけこのままでという希望を受け入れ、現状維持に、毎年、かなりの維持費をかけているようだ。 昭和三十一年の売却から今年でちょうど五十年になる。一地方会社が、年数回の接客に利用するだけのために、この古風な家を維持するのは、なかなか大変なことだ。 WEBで会社からのお知らせを見ると、社内にゆかりの品や詳しい資料などは残っていないようである。当時の事情に詳しい人も、もういないという。 文面から推察して、強固な使命感を持っての運営ではなかったのが意外だったが、ある意味、そうした「遺産を守らなければ意識」がなかったからこそ、例年通りの維持管理費計上で、淡々と処理してきたのだろう。それが逆によかったのかもしれない。 谷崎ファンとして、久しぶりに新聞で彼の話題がでたので、ちょっと嬉しくなった。
(門にある石像 「人と文学シリーズ「谷崎潤一郎」より転載)
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