ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
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2005年02月26日 :: 「私の文章修行」 影響を受けた文体 |
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大学時代、いい論文を書こうと、悪戦苦闘したが、出来たものを見ると、単に情報が羅列してあるだけ。うまく論理が高まってくれない。悩んだ末、「私の文章修行」なる本を何冊も読んで、極意を探ろうとした。ところが、精神論ばかりで、具体的にどう練習をすればいいか皆目分からない。 そこで、今度は「レポート・論文の書き方」という実用書を何冊も買ってきて読んだ。その中に書いてあって、なるほどと思って具体的に行動したのは、人の論文の、論文らしい言い回しを大学ノートに書き写すということ。これは、「見過ごすことができない」を「看過できない」式に言い換えたら論文調になるというような、本当に表現レベルのものから、国文学の専門用語を使えるようにと堅い言葉の抜き出しまで、ともかく気になった言葉を書きためた。すべては模倣からである。 当時書いた論文を読むと、無理矢理、漢語を使おうと奮闘しているのが微笑ましい。今ならもっとわかりやすい表現をする。若気の至り。 行論のほうで、一番困ったのは、前半部で説明しているとき、後半で説明する予定のことを言わないと論が進まないことに気づき、仕方なく、その場所であらかた説明すると、今度は、後半に至って、同じことを二度言う結果に陥ってしまうこと。これには悩んだ。今は何となく誤魔化す技術を覚えたので、何とかなるのだが、当時はこれが大問題だった。 文体を真似たということで言えば、谷沢永一と丸谷才一のふたりがいる。谷沢永一は、当時、関西大学教授で、論文集「標識ある迷路」(関大出版部)などは、タイトルが洒落ていて好きだったが、それより、書評家として名を馳せていた。「紙つぶて」シリーズなどが代表作。本当に彼の書評は沢山読んだ。決められた短い字数の中に、ぴたっと決まって、本当に短文の達人だと思った。特にうまいのは体言止め。これぞ短文文体の極意である。また、つまらないと思った本は、ばっさり切り捨てる潔さも痛快だった。今でも短い批評を書く場合、谷沢さんのようにいかないかなと思いながら書く。 丸谷さんは、エッセイを愛読した。丸谷さんには独自の用字法がある。「文章読本」(中央公論社)には、丸谷流仮名遣いの凡例が書いてあって、その原則は実に納得できるものであった。「○○でせう。」式の、しゃべり言葉調を大幅に採用しているのだけれど、それを文語で書いて優雅にしたような独特の言い回しは、知的でもあり且つくだけているようでもあり、言い難い魅力を放っていた。 自分の文体を語るほど偉いわけではないので、少々おこがましいが、ネタ晴らし的に言えば、私の文章の、常体・敬体を適度に混ぜたり、しゃべり言葉を交ぜたと思ったら、ちょっと堅い言い方を交えたりするやり方は、彼の文体の影響である。 さて、ここで「なるほど、そうなんだ。」と思った人は、私の文章の立派な愛読者です(^_^)
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この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。
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