ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
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さて、せっかくだから、この話の裏付けの意味を込めて、現代中国の言語状況の勉強をした。といっても、お手軽にネット検索だが。
「中国語」と何気なく言うけれど、実はこれは幻想である。彼らの人工的な共通語である「普通話」は、清朝の宮廷語であった「北京官話」をベースにした、中国共産党製の国内用語。北京官話は清朝の後継である中華民国の公用語でもあったので、台湾では今でも北京官話が標準語。(中略)しかも、宮廷語といっても、皇帝一族が宦官達に対して命令する時の言語であり、皇帝一族の日常言語は満洲語だった。満洲語はしかし徐々に北京官話に浸食されていったわけだが。もちろん一般大衆はそれぞれの地方語を話していた。 我々はシナの人口の9割を占める「漢民族」と少数民族という創作に染まっているので、純粋な漢民族というのがいるように思っているが、実は彼らこそ雑種であり、系統や出自のはっきりしている「少数民族」の方が人種的には純度が高い。まあ少数民族といっても1000万人を超えるようなグループもいるわけだが。 で、シナに行くとどうなるかというと、いわゆる漢民族の人達は自らの母語を当然のように使う。書き言葉なら漢字が共通なので意思の疎通ができるが(というか漢字そのものが、いろいろな言語の仲立ちをするために存在しているわけで)、話し言葉になるともうお手上げである。北京語と広東語で通訳がいるのだ(実際に香港で目撃している)。ま、北京語は北方言語の影響が強くアルタイ語的な要素が大きいのに対して、広東や福建は南方系の言語だから、当然と言えば当然。(後略) WEBサイト「薄唇短舌」(2005年3月20日 (日)「中国語という幻想と日本語」) (註……「シナ」という片仮名表記は執筆者の信条による)
朝鮮半島二国が、ある種、ナショナリズムから現地読みを主張し、金大中(キンダイチュウ)氏は、途中からキム・デジュン(Kim Dae Jung)という言い方になった。その点、いまだに毛沢東はマオ・ツェトゥン(Mao Tse Tung)と読まずにモウタクトウと読むことを、中国は特に問題にしていない。中国は、その国の読みで結構という態度で、いたく鷹揚だと前から感心していたのだが、つまりは、漢字の読みは千差万別でも、漢字自体はビクともしないという、漢字による統一主義というか、接着剤としての漢字の威力を、彼らは絶対的に信じているからだろう。日本語読み(音読)も、漢字という確固たるものの、単なる地方読みの一つでしかない、そう考えているふしがある。 つまり、これは、寛容というより、典型的な「中華」思想なのである。そのことに、今回、気がついた。
ところで、5月ごろ、新一年生が「中国の人って、文章を上がったり下がったりして読まなきゃならないなんて、大変やね。」と言っているのを小耳に挟んだ。なぜ、訓読するのか、そんな漢文の第一時間目の「押さえ」さえ聞かずに、訓点のやり方だけ習ってきている今の中学校教育に、正直、あきれた。 何年か前から高校入試に漢文が入ってきて、入門編は中学で教えるようになった。しかし、これでは、こっちでしっかり頭から教えますから、いらんこと教えんといてくださいとさえ言いたい気分である。 それにしても、Sさんとこの1年生との、知的言語レベルの差は、いったい何だ。
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