ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
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肝心の川崎和男展自体は、自分が作った工業デザインの製品を使って、更にアートとして再構成したといった趣で、実用と美の融合というデザインの基本をしっかり押さえた上で自由な飛翔が感じられ、楽しく、好ましいものであった。それだけに、ゆったりとした贅沢な気分を味わうことが出来なかったことが返す返すも残念だった。 すっきりしない気持ちだったので、当初、行こうか迷っていた県立美術館の「第五十三回日本伝統工藝展金沢展」にも行くことにした。所謂、美術館のハシゴである。館内はもちろん静かで、年齢層はぐっと高くなる。ファッショナブル路線の今時娘は皆無。 ちょうど、島崎館長によるギャラリートークが始まったばかりだったので、そのまま最後まで説明を聞きながら館内を回った。 館長さんのお話は、陶藝・漆藝から服飾・人形まで、すべてのジャンルに及び、その作品にどんな技法が使われ、どこが制作上難しいかを判りやすく解説されて、有益であった。 また、これは金沢の○○町に住んでいる誰それさんの作で、この方はこんな技法を、今、力を入れて研究中であるとか、この方は、大家の誰それさんの跡を継いで頑張っている娘婿さんだとか、ローカルで、且つ人間的なつながりの部分でもお話されたので、作家さんに一層親近感が持てた。 しかし、何より一番感心したのは、「ちょっと横の柄と表の絵がマッチしていませんね。」「あでやかですが、ちょっと深みに欠けるところがありますね。」など、時々入る評価の視点が実に的確なことで、そう言われてみれば、確かにそういう欠点を持っていると納得できる批評ばかりであった。 その後、ホールで、人間国宝魚住為楽が銅鑼を作る工程を記録した映画「銅鑼 三代魚住為楽のわざ」も鑑賞した。終わりにご本人が登壇され、茶の湯の開始を知らせる銅鑼叩きを披露された。初めて人間国宝の銅鑼を聴いたが、ボーンというやさしい音色であった。 一人の作家が、気の遠くなるような工程を繰り返し一つの工藝品を作り出す。伝統を継承しているもの、大胆な創意工夫があるもの。いずれにしろ、時間をかけ手間をかけた手のぬくもりの美しさは、現代アートには見いだせないものだ。この展示を見ていると、新しい意匠を纏っているものほど姑息で、作家がもがいているように見えてくる。「伝統そのもの」という枠内で、営々とこれまで築かれてきた中の最高のものを作ろうと志向している作品ほど尊いものに見えてきた。 対して、現代アートは「時間」や「伝統」を纏っていない。今、一瞬の美を表現するのに、技法の伝統性に埋没してはいけない。むしろそこからいかに脱却するかを競う。作品のテーマも、花鳥風月ではいけない。新しいテーマと動機の新鮮さがすべてに優先して勝負である。 作品の物理的な意味での恒久性も意に介していない。昨年、二十一世紀美術館の外庭で展開されていた珪藻土プロジェクトのオブジェなど、あれだけの労力をかけていたので、てっきり恒久展示のものかと思っていたら、もう跡形もなくなっていた。旬は旬のうちに。古びる前に抹殺することで時代とジョイントさせ、封じ込めさせて鮮度を保つ。そういう思想なのだろう。午前中の印象があまりよくなかったせいもあったろう。新しさの薄っぺらさというものを感じないではいられなかった。 私は「百工比照」の町、金沢の人間。新奇なものを、さもわかっているかのように論評吹聴するより、伝統の手業の良否巧拙をじっくり見極められるほうがいい。そちらの方がよほど私の方向だという思いが沸々と湧いてきた。
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