招待券が手元にあるので、日程に急かされるように展覧会に行く。 9日は、名鉄エムザ催事場で開催中の「趣味悠々鶴太郎流墨彩画塾展」(主催NHK金沢放送局)。 NHK教育TVで好評だったお絵描き番組の生徒、高橋英樹、田中好子ら有名芸能人が番組中に書いた作品と、お師匠さん片岡鶴太郎の作品の展示。素人が指導によって上手くなる様子はよく分かったが、それを出演者全員分、次々に見せられても飽きるだけ。師匠本人の作品も素人芸の域で感心しなかった。もっと巧い人だと思っていた。だが、多くの年寄りは気に入っているようで、会場はサイン会やらグッズ購入で大混雑であった。その後、別の階の「中日写真サロン入賞展」も鑑賞。
(名鉄エムザのある武蔵が辻交差点の風景。眼前のダイエー金沢店は今月閉店する)
翌日は、石川県立美術館にて、「サントリー美術館名品展ー日本美術の精華ー」(企画展)。 赤坂見附の地下鉄を上がったところにあったこの美術館に、かつて行ったことがある。ビルの幾階かのフロアを占めるタイプの美術館で、たしか、一休宗純らの禅画の展覧会を観に行ったのである。 赤坂見附の町並み、思ったより小さかった展示室、幾つかの達磨の絵や和讃、窓下の皇居外堀と高速道路が大きなカーブしている風景。この日一日の印象の断片が連鎖して記憶から浮かび上がる。何十年も前のことである。展示品は数点しか覚えていない。でも、外の景色はディティールまではっきり覚えていたりする。 どうやら、美術鑑賞とは、そうした印象の総体、つきつめれば、今日は知的な行動をとったという精神の充足感を味わうことのようである。
そういえば、あのころ、できるだけ知的なものを吸収しようと、あちらこちらの美術館にでかけた。秋は見応えがある特別展が多く、在京ならではと満足もしたが、そのため、ただでさえ苦しい生活費を圧迫した。知的リッチ感を味わうと、ひもじいプアな思いをする。全体レベルは相殺されて変わらず、知的向上も経済原理の枠の中、どこでパーテーション切るかだけの話であることを、当時、しみじみと実感した。美術館帰りの夕食は、大抵パンと牛乳だけ。この急降下落差が、今考えると青春時代そのものなのだろう。
現在、六本木寄りに新しい美術館を建設中という。その休館を利用しての巡回展であることを知る。 展示は、日本の室町から江戸のコレクションが中心をなしている。文箱、硯箱などの箱ものや、簪・櫛・笄(こうがい)などの精緻な細工物を観ながら、それらが現に使われていたものであるということの意味を感じた。もともとそれらは実用の品で、その中に芸術を封じ込めている。それが日々の生活の中にあった。使われていたということは、その作品に人間の手のぬくもりが付着しているということである。出来たて未使用品を飾る「現代伝統工芸展」との大きな違いはそこにある。床の間に飾らなくてはならないような、いかにも手をかけ技を凝らしたぞという生硬さを感じるそれらの芸術作品に較べ、優しさ、柔らかさがある。ショーケースから出したら、すぐに触れてみたくなるような親近感を感ずるのである。 愚妻が、「大きい屏風などを観ても何にも思わなかったけど、小さい細工物は使ってみたいとちょっと思ったわ。」と言ったのを聞いて、それはもしかしたら最高の賛辞なのではないかと思った。
入場の時、受付で互助会発行の券を提示したら、上階のコレクション展(常設展)のチケットをくれた。そこで、蔵品展示や小企画「宮本三郎素描展」も観て回った。素描は、戦時中のものにデッサンの確かさを実感した。 開館一年の金沢21世紀美術館大盛況の余波を受け、客足減少が懸念される「県美」。歯止め策として、職員互助会と協力してこのサービスをおこなっているということなのだろう。これで、一人来ると二名にカウントされる訳で、いいアイデアだ。けれど、ちょっと姑息なような気もする。こっちは、数字上げにうかうか乗ってしまった気分である。 どうやら、美術館業界の入場者数というのは、テレビ業界の視聴率みたいなものであるようだ。
(デパ地下のレストランでランチ)
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