金沢の混雑解消のため敷設中の外環状線に、10日ほど前、セスナ機が不時着、大破した。工事中の幹線道路、空から見れば、絶好の不時着地点に見えたのだろう。自宅からは2kmほどのところで、翌日、地元新聞のトップニュースになっていた。 ちょっと気になったのは、怪我をした外人操縦士が、エンジン・ファイアーと「ほのめかしていた」(「北陸中日新聞」22日朝刊)と書いてあることである。この見出し、何か引っかかる。はっきりと原因を叫んでいるのに、なんで「ほのめかす」なのだろう? これでは、意図があって情報を小出しにしているかのようである。
墜落事故というと、このあたりの古株は、1969年(昭44)2月8日、小松基地の戦闘機が、有松交差点付近の住宅地に墜落し、住民4人が死亡、半径50m範囲の民家が延焼した大事故を思い出す。戦前戦後を通じ、近隣でおこった最大の事件で、昔語りに話題にのぼる。 私は堕ちた隣の校下(「校区」のこと、金沢言葉だが地元新聞でも使う)の小学生だった。バーンと大きな音がして、教室の窓からモクモクと煙が上がっているのがよく見えた。職場でご一緒の女性の先生は、数百mしか離れていない中学校の生徒だったそうで、近いだけにものすごい音がしたそうだ。愚妻は、私よりもう一つ離れた小学校なので、煙りが見えた程度だったらしい。 今、調べてみて、2月の出来事だということに、夫婦揃って意外な気がした。そんな寒い時期だっけ? 曇っていたけど雪など積もってなくて、寒かったなんて思いは付帯していない。確か窓を開けてみんなで見ていたよねぇという会話をつらつらと続ける。同世代、それもお隣校下同士の夫婦は、話題がえらく地域的・共時的でる。 それぞれ見た場所は多少違っても、子供の強烈な記憶として残っている1969年の一瞬。 そんな子供の記憶に比べ、お隣りに座っておられる男の先生は、当時、もう大学生で、翌々日の学生主催の抗議集会に参加、市内をデモ行進して歩いたという。 我々には、そんなリベラルな意識など全然育っていない。何でも珍しいことが起きると好奇心だけで眺めていた。
世の中、平穏な年もあれば激動の年もある。年譜を見ると、この年は、本当に日本にとって大きなうねりの年だったと実感する。
1月18日 東大安田講堂攻防戦。 1月24日 美濃部都知事、都営ギャンブル廃止を発表。 2月23日 安中市でイタイイタイ病患者発覚。 5月1日 「イザナギ景気」が四三ヵ月目に突入。 5月26日 東名高速道路が全線開通し名神高速と直結。 6月2日 多摩ニュータウン起工。 6月10日 経企庁、GNP世界第二位と発表。 6月12日 日本初の原子力船「むつ」進水。 7月8日 米軍、南ベトナムから撤退開始。 7月20日 アポロ11号、人類史上初めて月面に着陸。 10月29日 ソニーと松下電器、家庭用ビデオでベータ・VHS戦争開始。 11月21日 日米共同声明発表。沖縄を「核抜き・基地本土並み」で四七年に返還。
学生運動がピークを迎え、政府と国民の意識のズレが非常に大きかった反面、経済的には高度経済成長のまっただ中、毎年20%を超す成長率で、技術革新も相次いでいた。人類は月に到達して、「人類の進歩(と調和)」(70年万博テーマ)が永劫続くと信じられていた時代だった。そうした混乱と明るい希望とが入り交じった年。時間がたって見ると、その年の持つ意味合いがよくわかる。雑多なゴッタ煮の時代で、問題点も噴出していたが、今と違って、人間が躍動していた時代だったように思う。 風俗面でも、寅さんシリーズが始まり、ドリフの「8時だよ」も始まった。NHK大河ドラマ「天と地と」も大人気、「長崎は今日も雨だった」「白いブランコ」「風」「今日でお別れ」「夜明けのスキャット」「いいじゃないの幸せならば」「黒ネコのタンゴ」などの歌謡史に残る定番曲も次々とヒットしている(もっと長いタイトルリストを見たが、全部歌えるのに我ながら驚いた)。 正直、前年の印象はまったく希薄である。どうやら、政治的にも文化的にも、その後の七十年代八十年代の基本的枠組みを決めた出発点の年だったのではないだろうか。 実は、この年、自分史的には「社会の動きと自分の存在」という二元論を徐々に意識し始めた年、社会を見る目を見つけた年だと思っている。だから、なおさら、妙に出発点のように感じるだけのことかもしれないが、そうした激動の年だったからこそ、自己と社会のスタンスを感じざるを得なかったということでもあったはずである。 安保世代が「69(シックスティナイン)」にノスタルジーを感ずることはよく分かる。それよりも下の私たち、社会的意味づけもできなかった年齢。でも、興味津々、好奇心だけの子供心に、やっぱり何だか、よくは分からないけど、色々なものが一杯つまった年だったように感じたのであろう。
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