先週、校内読書会があって、助言者をした。佐藤多佳子「黄色い目の魚」(新潮社)の中の短編「からっぽのバスタブ」がテキスト。何か最後に気の利いたことを言わねばならないので、何度かラインを引きながら読んだ。 連作短編集だということで、残りの短編も読んだほうがよかったのだが、どうも、この歳で、高校生の女の子を主人公にしたお話を、感情移入しながら楽しんで読むという気持ちにはなれぬ。ぐずぐずしていて、結局、間に合わないまま当日を迎えた。 佐藤多佳子という人の作品は初めてである。1962年生まれ。もともと童話畑を歩んできた人のようだ。代表作は「サマータイム」(モエ出版 MOE童話大賞)。 女子高生のモノローグなので、「すっげえマズかったかも。」「どこかにさらっていっちまうんだろうな。」というような若者言葉の地の文が出てきて、抵抗を感じないでもなかった。だが、通常の言い方に混ぜてある程度で、現役高校生に違和感をもたれないように、でも、下品にならぬようにと、そのあたり、二十歳以上も年嵩の中年女性が書いた、今時の女子高生言葉として、うまく処理してある。
バスタブで空想するのが好きだった村田みのりは、今はそういうことが出来なくなっている。イラストレーターの叔父に一体感をもっていたが、最近は、彼に大人を感じて違和感をもつようになる。多くない友達の一人須貝とも些細なことから喧嘩をしてしまう。人の欠点をうまくデフォルメする絵を描くクラスメイト木島が気にかかり、彼が教師に退室を命ぜられた時、一緒に教室を出て行ってしまう。だからといって、はっきりとした恋愛感情があるわけでもない。家では、家族と一緒に食事をするのが大嫌い。いわば、彼女を取り巻く対人関係すべてに違和感を持つのである。
「自分の出す毒にやられて自分が汚れて苦しくて死にそうになる。」 「置いていかれるコドモなんてまっぴらだ。でも、出て行く大人になりたいわけじゃない。」
コドモではない、でも、大人にはなりたくない。そんな宙ぶらりんな彼女の心象が語られる。「思春期特有の」といってしまえばそれまでだが、自己を同定できない心のもどかしさが、この物語の中心だ。 彼女を取り巻く人物は、皆、ちょっと変わった人たちである。須貝とは漫画系オタクという共通点がある。叔父はメジャー系からドロップアウトした自由業。木島には、教員がどう思おうと関係ない精神の自由さがある。大人らしい大人や、いかにも今時の世渡り上手な高校生は、彼女の交際範囲にはいない。
昔に比べて、現代の女子高生は均質になった。皆、ケータイを持っている。数年前、ケータイに誰からも着信ないのと、人にパンツ見えちゃったのと、どっちが恥ずかしいことかという、実にお下劣な、でも、よくそういう質問考えたものだな、もしかしたら、それって本質ついているかも? というアンケートをテレビでやっていた。 結果、圧倒的に、ケータイに誰からも連絡こないほうが「恥」と感じるようなのである。
人と一緒、人とうまく交わっているということに彼女たちは心を砕く。その枠から外れると、疎外され、いじめにあう可能性があるからだ。 その結果、今時の女子高生という、世間が常識的に思い描くイメージに、驚くほど大半の女生徒がすっぽり当て嵌まってしまうこととなった。 それが嫌な子はどうするか。「ちょっと変な子」をアピールすることで、あの子はそんな子だと周りに認知させ、居場所を確保するのである。少数ながら、そうしたグループが大抵、どこのクラスにもあり、仲良いわけでもないが、緩い関係を保って、いじめから身を守る。 八対二くらいだろうか、割合的に。でも、この分布が、そのまま現代娘系とちょっと変わった子系との、本当の割合を示しているとは思えない。変わった子という旗を振ることができない子は、みな、現代娘系に吸収されているはずである。 我の強い、いかにも今時の意見に、大半の子が賛成する。それがメジャーであるから。でも、みんながみんな、内心そう思っている訳ではない。そこに人知れぬ孤独感を感ずる。自分がそう思わないのは、変なんじゃないだろうか。 だから、彼女らは、「内面に巣くう深刻な孤独感をひた隠し、ひたすら明るい自分を演出する」(浦澄彬「孤独な女子高生」(「数研国語通信つれづれ」第四号2005.4))しかないのである。
皆、この「からっぽのバスタブ」を読んで、自分に当てはめてみて、共感できる部分が、絶対にあったのではないかな。でも、退出した木島を追っかけて、授業中、周りの目も気にせず、出ていくことができる主人公は、ある意味、すごく強い女の子だよね。というのが、助言者としてのまとめである。
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