ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
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2005年07月26日 :: バロック美術展に行く。 |
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先の休日、石川県立美術館の「華麗なる17世紀ヨーロッパ絵画展」(主催北陸中日新聞他)を観に行った。期間中最初の日曜日ということで、駐車待ちを覚悟していたが、あにはからんや、閑散としていて、静かに一巡できた。 地元を牛耳る某新聞社主催だと、鐘や太鼓で宣伝するので、こうはならない。十年ほど前の夏休み、「エジプト展」があって、券を買わされた、お子様・年寄りを含む御家族御一行様の団体が、行楽地よろしく数珠繋ぎに列をなし、会場は騒然と、遊園地の何時間待ちアトラクション状態になったことがある。美術展だろうがなんだろうが、企画したものは、メディアの浸透力を生かして金を儲けるのが当たり前という主催者の姿勢が伝わってきて、暑い中、列をついている参観者を観ながら、マスコミの被害者だと思ったことがある。
今回は、科学者であるカロル・ボルチェンスキーとその妻のコレクションを基にしたポーランド「ヨハネ・パウロ二世美術館」所蔵の絵画のうち、17世紀バロック絵画に焦点をあてた展覧会。 本家イタリアから始まり、旧教のフランドル、新教のオランダ、スペイン・フランス・その他と、国別に展示されているのが特色。このため、各国の微妙な違いが実感できた。 この時期、プロテスタントがはっきりと力を持ち始めるのに対抗して、旧教国では「反宗教改革」の機運が高まる。新興勢力に対する伝統派の自己改革である。神話や聖書を基にした古典的題材を好んで取り上げる中に、動的な構図、ドラマ性、光の明暗などに、ルネサンスを通過した、「人間中心」の力強さが、神々を描いていても、はっきりと感じられる。確かに、聖性のみを強調するのが目的の古い宗教画とは大きく違うところである。そこが、当時、新しかったのだろうなと、実感しながら観ていった。 つまり、バロックは新しい。近代絵画中心で観ていては絶対気がつかない視点である。今回の私の最大の収穫は、この実感だった。 また、新教の新興国オランダでは、市民階級の台頭とともに、経済力をつけた市民の購買という経済の論理から、静物画などが流行ったという。逆に、教会や貴族がバックについているイタリアやフランドルでは、当然、宗教画・神話画が中心となる。偶像崇拝を排除した新教を強烈に意識した上での宗教画・神話画。いわば、「自覚化された古さ」という新しさ。
この時代の巨匠レンブラントの「ダナエ」(青銅の部屋に幽閉された彼女の元に雨に変身したゼウスが現れるというギリシャ神話を元にした大作)を、1978年秋、上野の東京国立博物館「エルミタージュ秘宝展」で観たことがあるが、あの時は、画家の光の当て方がどうの、分析画像の結果、右手が最初カーテンを開けている構図から、手招きのポーズに改作されたのがどうの、というところだけに興味がいっていたように記憶している。いわば、近視眼的理解。 だから、今回のように、いくつもの国の多くの画家の絵を、時代を区切って、整然と纏めて観ると、それで、初めてヨーロッパ17世紀絵画の全体像を俯瞰できるようになる。絵の横に、踏まえている聖書やギリシャ神話の解説があったのも親切で、観る人に理解してもらおうという配慮が行き届いた美術展であった。(つづく)
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