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ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2005年07月31日
  「ミュージアムの思想」から考える。

 この前、美術館に行った翌日、補習の問題で、ミュージアムについて考察した文章(松宮秀治「ミュージアムの思想」)を解いた。
 これも、「想っていると、向こうからやってくる」的な出会いを感ずる。
 ミュージアムというのは、巧妙な思想・制度で、ものを集めるという私的行為に公的価値を賦与し、西洋近代が創出した諸価値を、西欧中心の価値体系に一本化、世界を一元的秩序世界にしてしまおうとする目標を持っている、極めて政治的な行為である。
 その意味で、非西欧諸国が持っていた独自の価値観を、病原菌のように浸食させていく攻撃性と暴力性を持っている。西洋近代を受け入れた我が国では、明治期以来、こうしたネガティブな側面でミュージアムを捉える感性を失ってしまったが、もう一度、我々は、西洋近代を相対化する視点が必要ではないかと訴えて、出題範囲は終わっている。
 途中、例として、幕末の遣米使節団参加の一武士が、ミイラの展示をを観て、鳥獣と等しく人骸を並べることに、「礼」の欠如を感じ、不快感を露わにしている日記に触れ、この反応は、東洋人の感性として、よく理解できると作者は述べている。
 こんな発想では、我が国で科学が発達しなかったのは当然という気がしてしまうが、これを、頑迷な前近代的思想と一蹴して終ってよかったのだろうか。そうしてしまったのが明治以降であったのだが……という思いが湧いてくる。
 確かに、大英博物館は、全世界の文化遺産をを網羅的に並べて、結果的に英国の輝かしい世界制覇の歴史の誇示という役割が与えられている。また、アメリカのスミソニアン博物館は、大統領選の紙吹雪まで保存する、アメリカ流プラグマティズムが発揮された蒐集を旨としており、そこに、両国博物館の思想に微妙な差違があることも面白い。
 だが、その記録重視主義の基底に、エノラ・ゲイを展示して、原爆が我々を戦勝に導いたのだと参観者を教化し、自国の行為を世界的に「正論」化する役割を与えるといったような、単純なまでに「光輝なる」自国イメージの補強に意を砕く思想があることを考えると、西洋美術の普及というレベルで留まっている日本のミュージアムの思想は、やはり、意志薄弱だと言わざるをえない。
 もちろん、私は、我が国も国威昂揚的な展示が必要だと言っているわけではないし、アメリカの精神を浅薄だと非難している訳でもない。アメリカの、この自己肯定的精神こそ、若い多民族の集合体を、短期間に世界の宗主国に主導したマジックであることも十分に承知している。
 例えば、これがベストと思っているわけではないけれど、先ほどの、「人倫」思想の基盤となっている中国哲学などが、もう少し、西洋流価値観に対峙できたならば、ひとつの世界観として、西洋から尊敬を受け、世界史はもっと東洋の国々に優しかったのではないかと思うのだ。
 ミュージアムの展示には、参観者に「どう理解してほしいか。」という意図がある。今回のバロック絵画展など、よく意図され、効果を上げていたよい企画だった。しかし、これは、多くの展覧会で、強弱の差こそあれ、いつも検討されていることである。
 しかし、「その展示から何を発信するか。」となると、確かに、展示品の充実だけではどうにもならない。主催者の、もっと大きく言えば、国としての強烈な「思想」がいることに間違いはない。


 あ、とすると、十四年前、某新聞社主催のあの展覧会などは、珍しく強烈な思想を発揮していたのではなかったかと思い当たった。
 つまり、あれは、「金儲けの思想」。
 タイトルが「黄金」のエジプト展。展示品が金細工だらけというのも象徴的で、実に現世欲望的。展示と思想がぴったり一致して、間然する所がない鉄壁さである。
 県立美術館史上空前の1ヶ月で13万人を動員したのも、宜(むべ)なるかな。


 

 2005年07月30日
  パブで飲む。

 今日、土曜日、前期補習がようやく終わった。一区切り。
 国語科で飲み会をしようということになり、夕刻、金沢の繁華街に出向く。竪町通りでは、背中がほとんど露出しているネーちゃんが、男性にブチュとキスをしながら歩いている。今はそんな世の中である。
 その通りを右に曲がった「倫敦屋酒場(ロンドンやバー)」という地元では知られた老舗の洋酒屋。ここは、山口瞳が存命の頃、金沢に来た時に常酒場にしていた。入るのは二十年ぶりくらいである。
 昔と変わらない店内。イギリスのパブを模した作り。酒の種類が多くて、若い頃、カクテルなんて何にも知らなくて、そこの若い女性バーテンダー(それが、当時はまだ珍しかった)に教えてもらいながら、注文したものだ。お酒の勉強である。
 あの頃は、この座席に座ったなと、案内されながら、ちょっと懐かしさが湧く。
 バブルのあの頃、遅く行くと、入れない程盛況だった。だけど、今日は、夏の土曜の夜なのに、団体は我々だけ。それに個別客がちらほら。そこに歳月を感じる。おそらく、最近はこんなものなのだ。
 盛り場の裏の小路を分け入って、「酒場」という言葉にふさわしい飲み屋で飲む。何年ぶりのことだろう。格好良く飲みたかったけど、何せ教員の団体。生徒がどうとかいう話題ばかり、全然、洒落た飲み方にはならない。
 中でも特に情けない人は、酒場に座布団なんぞを持参するような誰かさんである。


 

 2005年07月29日
  研修の連チャン

 午前、補習。午後、二講座続きの教員研修会。それで、一日が終わり。
 一本目、予備校全国模試業者の営業マンによる全国の現況分析と各校の取り組みについての紹介。
 関西の人で、一人突っ込みの漫才師のよう。あの手この手の冗談と間合いで、笑いをとる。もう話芸である。ほとんど吉本興業である。他県のことをよく知らない私たちは、全国情報を楽しく学べた。年間六十本以上の講演をするという。どこで笑いをとるか、どこで現場教員が情報に反応するか、よ〜く判っている熟達の話芸。
 二本目、ある教育団体から派遣された方による、生徒が生き生きと取り組める教科指導の改善と評価についての話。
 座ってプリントを説明するだけ。そこに空欄があり、教員に当てて答えさせようとする。先生は喋るだけでなく、生徒に考えるさせる授業が必要ということを強調していたので、自分なりの実践のつもりらしい。
 だが、方向性や絞り込みのない空欄なので、何を答えればよいか、とんと判らない漠然としたものばかり。当てられた人は、色々な方向の答えを言うのだが、全然、当たらない。自分が予想した方向と違う答えなので、それは、こういう面で考えているからでしょうと、ある先生は軽くたしなめられたりした。でも、そうした誘導が何もないのだから仕方がない。つまりは、設問が悪いのである。
 「学びの基盤とはなんですか。」と聞かれても、経済的安定、生活習慣の確立、基礎学力、知的好奇心など、外的・内的、何でも入りそう。
 何を答えさせたいのか、こっちは疑心暗鬼になる。途中で、真面目に考えるのが面倒くさくなって、聞いているふりをしているだけ状態。
  それにしても、如何に生徒に楽しく意欲を持って授業に参加してもらうかという話をしにきた人の講義が退屈だなんて……。
 授業をしっかり検討し、評価せよと、その人に習ったので、受講生である我々教員は、即、みんな、しっかり、その講義を「評価」していました。
 私は、なかなか、風当たりの強い、大変なお仕事だと思い、深く同情申し上げました。それに、どう考えたって、前の人と比較され、間が悪いこと夥しい。

 

 2005年07月28日
  稚魚放流してー「推薦図書50選」の選定

 我が勤務校では、毎年、本校教師が選ぶ良書50選のパンフレットを作成し、夏休み前に生徒に配布している。新書・文庫限定。文芸作品を除く、読んでためになる部類の本。図書課の大事な仕事である。
 ここのところ、多少の入れ替えはあったものの、前年踏襲が続いていたので、新鮮味がなくなっていた。絶版の本も混じっている有様。それに、何十年前の良書ばかりで、少々、黴臭い。そこで、今、ベストセラー中のものも入れて、大幅リニューアルをはかった。評価の定まった古い良書より、ちょっとくだけていてもいいから、生徒が手に取りそうなものを選びましょうという発想で。だから、今回、山田真哉『さおだけやはなぜ潰れないか』(光文社新書)、藤原正彦・小川洋子『世にも美しい数学入門』(筑摩プライマリー新書)などという話題の本を入れた。
 作業としては、本を50冊選ぶだけなのだが、これが、なかなか大変だった。個々人の読書の領域は狭く、専門や興味関心分野以外はさっぱり解らない。選定メンバーは、国語・地理の教員に司書。理系・芸術系はまったく門外漢。文系でも守備範囲から外れる分野多数。色々な先生から、直接、推薦してもらって、それをネットで調べ、読者の評価、在庫の有無を確認し、ようやく候補として残す。その上で、各分野のバランスを考えて決めるのである。そんな苦労をして、でも、できたパンフはたった1枚の一覧表。生徒に配布して終わり。


 今日、補習の休憩時間、黒板前で座っていた私の所に、女子生徒がやってきて、あのパンフから選んで1冊読んだよと報告してくれた。
 職人の世界を描いた小関智弘『働くことは生きること』(講談社新書)。
 ああ、いい本読んだね。日本の産業は、ああいう町工場によって支えられているんだよと、冴えない常識的コメント。
 それだけの会話。

 

  でも、作った一人としては、内心嬉しかった。司書室に戻ってみんなに御注進。よかった、よかったと喜び合う。
 何万匹の稚魚を放流し、鮭何匹戻ってくるかの類だが、図書の仕事は、そんな努力の積み重ねである。

 2005年07月27日
  (つづき)Magiに遇う。

 途中、どれも、マリアは赤の服に青のケープを纏い、夫ヨゼフは黄色の服を着ていると愚妻が指摘した。順路を遡って確認したが、どうもそのようである。しっかり聖書に記載されていることなのか、例の「三博士」のように、17世紀の時を経て、時々の解釈のもとにそういう形に固定化していったのかは、浅学にして知らないが、ある意味、群衆の中で二人を見つけることは容易であった。
  愚妻説によると、青の顔料が高価なので、主役のマリアに特別にこの色を着せたのではないかという。真偽のほどは不明であるが、確かに画材史的に考えてみるのも面白いかもしれない。
 「ノア」「出エジプト」「マグダラのマリア」などお馴染みの新旧聖書の題材が、次々に出てくるので、もしやと思いながら観ていくと、案の定、「東方三博士の礼拝(The Adoration of the Magi)」(ジョバンニ・ドメーニコ・フェッレッティ作)という作品に出会った。
 想っていると、向こうからそれはやってくる。
 中央に、白髭の長老ガスパールが、右隅に位置するイエスとマリア・ヨゼフに捧げものをしている。夫妻の服の色は先ほどの指摘と同じ。左にターバンを巻いた二博士。一人は黒人である。すべては固定化されたイメージの踏襲。
 たった一場面でさえ、こうした決まりごとがある。その制約の中で、如何にダイナミクスを発揮させるか、それが、17世紀バロック画家たちの腕の見せどころだったのだろう。

 

 会場を出る時、この絵の絵葉書を売っていたので、購い、居間の写真スタンドに飾った。愚妻にちょっと部屋の雰囲気と合わないと言われたが、私がここのところMagiにこだわっていたことを知っているので、それ以上、何も言わなかった。
 なにせ、クリスマスプレゼントの基になった話である。日本の菓子屋が考えたバレンタインデーとは年季が違う。せめて、十二月までは飾っておこうと思う。

 

(付け足し)今月、Magiについて書いた時、このHPを読んでくれているK君から、「7月なのに、季節はずれのクリスマス話題ですかい。」とメールで突っ込まれていたので、この文末で、無理矢理、十二月にくっつけてみたのだけれど、これでダメかい? K君。

                                                         絵画部分(左がガスパール、中央マリアとイエス、右ヨゼフ)

 

 

 

  

 2005年07月26日
   バロック美術展に行く。

  先の休日、石川県立美術館の「華麗なる17世紀ヨーロッパ絵画展」(主催北陸中日新聞他)を観に行った。期間中最初の日曜日ということで、駐車待ちを覚悟していたが、あにはからんや、閑散としていて、静かに一巡できた。
 地元を牛耳る某新聞社主催だと、鐘や太鼓で宣伝するので、こうはならない。十年ほど前の夏休み、「エジプト展」があって、券を買わされた、お子様・年寄りを含む御家族御一行様の団体が、行楽地よろしく数珠繋ぎに列をなし、会場は騒然と、遊園地の何時間待ちアトラクション状態になったことがある。美術展だろうがなんだろうが、企画したものは、メディアの浸透力を生かして金を儲けるのが当たり前という主催者の姿勢が伝わってきて、暑い中、列をついている参観者を観ながら、マスコミの被害者だと思ったことがある。

 

 今回は、科学者であるカロル・ボルチェンスキーとその妻のコレクションを基にしたポーランド「ヨハネ・パウロ二世美術館」所蔵の絵画のうち、17世紀バロック絵画に焦点をあてた展覧会。
 本家イタリアから始まり、旧教のフランドル、新教のオランダ、スペイン・フランス・その他と、国別に展示されているのが特色。このため、各国の微妙な違いが実感できた。
  この時期、プロテスタントがはっきりと力を持ち始めるのに対抗して、旧教国では「反宗教改革」の機運が高まる。新興勢力に対する伝統派の自己改革である。神話や聖書を基にした古典的題材を好んで取り上げる中に、動的な構図、ドラマ性、光の明暗などに、ルネサンスを通過した、「人間中心」の力強さが、神々を描いていても、はっきりと感じられる。確かに、聖性のみを強調するのが目的の古い宗教画とは大きく違うところである。そこが、当時、新しかったのだろうなと、実感しながら観ていった。
 つまり、バロックは新しい。近代絵画中心で観ていては絶対気がつかない視点である。今回の私の最大の収穫は、この実感だった。
 また、新教の新興国オランダでは、市民階級の台頭とともに、経済力をつけた市民の購買という経済の論理から、静物画などが流行ったという。逆に、教会や貴族がバックについているイタリアやフランドルでは、当然、宗教画・神話画が中心となる。偶像崇拝を排除した新教を強烈に意識した上での宗教画・神話画。いわば、「自覚化された古さ」という新しさ。


 この時代の巨匠レンブラントの「ダナエ」(青銅の部屋に幽閉された彼女の元に雨に変身したゼウスが現れるというギリシャ神話を元にした大作)を、1978年秋、上野の東京国立博物館「エルミタージュ秘宝展」で観たことがあるが、あの時は、画家の光の当て方がどうの、分析画像の結果、右手が最初カーテンを開けている構図から、手招きのポーズに改作されたのがどうの、というところだけに興味がいっていたように記憶している。いわば、近視眼的理解。
 だから、今回のように、いくつもの国の多くの画家の絵を、時代を区切って、整然と纏めて観ると、それで、初めてヨーロッパ17世紀絵画の全体像を俯瞰できるようになる。絵の横に、踏まえている聖書やギリシャ神話の解説があったのも親切で、観る人に理解してもらおうという配慮が行き届いた美術展であった。(つづく)

 2005年07月25日
  たゆたうように

 一人、横川交差点近くの中華蕎麦屋を出て、裏手の伏見川に短い遊歩道があるのを見つけた。夕まぐれ、薄墨の空に街路樹が覆い、油蝉の声が降り注ぐ。梅雨が明けたばかりなのに、そこだけ、もう蝉時雨といっていい盛夏の風情。子供の頃の懐かしい想いが甦った。タモ(網)と虫籠とジーという連続した蝉の声。
 川風を感じる。用水状に護岸整備された味気ない河川だが、そこだけは、岩盤が露わになった小さな中州も見える。
 動くものがある。鴨三羽。目を凝らすと鷺も横に。これはまんじりと動かない。
 鴨は連れだって、上流のほうへゆっくり泳いでいく。ちょっと努力している風に。どこにいくのだろうと思って見ていると、急に向きを変え、すうっと流れに身を任せ、流されていく。と、中州の後ろの淀みを見つけ、さっと身をいれる。しばしの休憩である。こうした行動の折々に、川面に首を突っ込み、餌を啄んでいる。今は、流れに抗する英気を養っているかように、羽繕いをしながら流れの急なところを見ている。また、しばらくしたら乗り出すのだろう。
 「羨ましい」という感情が沸々と湧き起こった。人の生き方もかくありたしと思ったからである。

 

 2005年07月23日
  毎日毎日、読解、読解。
  一昨日より、生徒は夏休みとなった。1、2年生は、成績不振者以外、旧盆すぎの後期補習開始まで無罪放免。3年は前後期とも補習である。生徒と同様、こっちも、入試問題集(「河合塾2006マーク式総合問題集国語」(河合出版))をせっせと解いている。毎回、どう教えるかも考えねばならず、ルーティン化した日頃の授業より、よほど気が重い。せっかく解いたからといって、毎年使える訳でもない。労力のコストパフォーマンス(?)は極めて悪いのである。
  夏休み中も完全出校となって以来、通常出勤・通常帰宅。朝、お早うございますと同僚に挨拶して、席に着き、時間になったら、問題解説の講義をしに教室に出向く。淡々して、すべていつもと同じ。昔は、もうちょっと、これで一区切りだ、という嬉しさがあったのだが……。
 以前と違うのは、一部の職員室に冷房が入って、職場なんかに居れたもんじゃないという事態がなくなったこと。前は日中40度近くになった。私は、運悪く、去年、クーラーなしの部屋だったので、ほどんど「労働基準法」違反を承知で働かされている悪徳企業の従業員のような気分であった。今年度はセーフ。
 
 補習は「現代文」担当なので、毎日、評論、小説を1題ずつ解いていく。小説は、阿部昭「おふくろ」、加藤幸子「池辺の棲家」、黒井千次「手紙の来た家」など。どう説明するかという仕事の部分が後に控えているので、少し負担感はあるが、それでも、楽しみながら読んでいける。皆、巧いものである。老親の面倒を見るため故郷に戻った夫と、家に残る妻とのやりとり(加藤)。老いた親に同居を申し込まれ、妻に切り出すのをためらって言い遅れた夫と妻の会話(黒井)。高校生より、私たちの世代のほうが、よほど身につまされる。
  それに較べて、というとなんだが、評論は辛い。読んでいくと、例えば、「前近代」と「近代」を比較し、その相違を指摘、「近代」が露呈した問題点を取り上げ、未来に警鐘を鳴らしているパターンだなどと、流れが見えてしまう。以前は、各時代の違いのみを強調していたが、近年は、その地続き性を強調している場合が多い、この文章も、そのニュアンスを少し感ずるな、なんていうトレンドもバレバレ。
  こっちにしたら、だから、全然、新鮮な文章ではない。だが、生徒にとっては、その分野の基礎知識がないので、どんな文章でも、難しく、かつ卓見に映る。初めての経験は、何にせよ新鮮なものである。
 それだけなら、こっちも我慢しよう。一番困るのは、言い方が小難しくて、何言っているのか、作者の語彙に、こっちが付き合わねばならない文章の場合である。
「人々は伝統的なコスモロジーのもとで、それなりに調和的に生きることができた」(木村洋二)
 宇宙論? こんな片仮名ないほうが余程いい。「人々は伝統のもとで〜」で充分。これ、すごく分かりやすいほうの例である。
 よく言われていることを、わざわざ小難しく、オレ流の言い方で書いてあるとしか思えない文章を、一所懸命、読解し、それをかみ砕いて、分かりやすく説明しているこっちの阿呆臭ささ加減を考えても見て下さい。
 やったことないけど、私が、その文章を翻訳して、高校生にもよく分かる文章に仕立てなおしましょうかと言いたくなる気分である。
 高校現代国語教師、どうですか、やってみたいですか? 
 
 2005年07月22日
  佐藤多佳子「からっぽのバスタブ」(「黄色い目の魚」(新潮社))を読む。

 先週、校内読書会があって、助言者をした。佐藤多佳子「黄色い目の魚」(新潮社)の中の短編「からっぽのバスタブ」がテキスト。何か最後に気の利いたことを言わねばならないので、何度かラインを引きながら読んだ。
 連作短編集だということで、残りの短編も読んだほうがよかったのだが、どうも、この歳で、高校生の女の子を主人公にしたお話を、感情移入しながら楽しんで読むという気持ちにはなれぬ。ぐずぐずしていて、結局、間に合わないまま当日を迎えた。
 佐藤多佳子という人の作品は初めてである。1962年生まれ。もともと童話畑を歩んできた人のようだ。代表作は「サマータイム」(モエ出版 MOE童話大賞)。
 女子高生のモノローグなので、「すっげえマズかったかも。」「どこかにさらっていっちまうんだろうな。」というような若者言葉の地の文が出てきて、抵抗を感じないでもなかった。だが、通常の言い方に混ぜてある程度で、現役高校生に違和感をもたれないように、でも、下品にならぬようにと、そのあたり、二十歳以上も年嵩の中年女性が書いた、今時の女子高生言葉として、うまく処理してある。

 

 バスタブで空想するのが好きだった村田みのりは、今はそういうことが出来なくなっている。イラストレーターの叔父に一体感をもっていたが、最近は、彼に大人を感じて違和感をもつようになる。多くない友達の一人須貝とも些細なことから喧嘩をしてしまう。人の欠点をうまくデフォルメする絵を描くクラスメイト木島が気にかかり、彼が教師に退室を命ぜられた時、一緒に教室を出て行ってしまう。だからといって、はっきりとした恋愛感情があるわけでもない。家では、家族と一緒に食事をするのが大嫌い。いわば、彼女を取り巻く対人関係すべてに違和感を持つのである。

 

「自分の出す毒にやられて自分が汚れて苦しくて死にそうになる。」
「置いていかれるコドモなんてまっぴらだ。でも、出て行く大人になりたいわけじゃない。」

 

コドモではない、でも、大人にはなりたくない。そんな宙ぶらりんな彼女の心象が語られる。「思春期特有の」といってしまえばそれまでだが、自己を同定できない心のもどかしさが、この物語の中心だ。
 彼女を取り巻く人物は、皆、ちょっと変わった人たちである。須貝とは漫画系オタクという共通点がある。叔父はメジャー系からドロップアウトした自由業。木島には、教員がどう思おうと関係ない精神の自由さがある。大人らしい大人や、いかにも今時の世渡り上手な高校生は、彼女の交際範囲にはいない。


  昔に比べて、現代の女子高生は均質になった。皆、ケータイを持っている。数年前、ケータイに誰からも着信ないのと、人にパンツ見えちゃったのと、どっちが恥ずかしいことかという、実にお下劣な、でも、よくそういう質問考えたものだな、もしかしたら、それって本質ついているかも? というアンケートをテレビでやっていた。
 結果、圧倒的に、ケータイに誰からも連絡こないほうが「恥」と感じるようなのである。

 人と一緒、人とうまく交わっているということに彼女たちは心を砕く。その枠から外れると、疎外され、いじめにあう可能性があるからだ。
 その結果、今時の女子高生という、世間が常識的に思い描くイメージに、驚くほど大半の女生徒がすっぽり当て嵌まってしまうこととなった。
 それが嫌な子はどうするか。「ちょっと変な子」をアピールすることで、あの子はそんな子だと周りに認知させ、居場所を確保するのである。少数ながら、そうしたグループが大抵、どこのクラスにもあり、仲良いわけでもないが、緩い関係を保って、いじめから身を守る。
 八対二くらいだろうか、割合的に。でも、この分布が、そのまま現代娘系とちょっと変わった子系との、本当の割合を示しているとは思えない。変わった子という旗を振ることができない子は、みな、現代娘系に吸収されているはずである。
 我の強い、いかにも今時の意見に、大半の子が賛成する。それがメジャーであるから。でも、みんながみんな、内心そう思っている訳ではない。そこに人知れぬ孤独感を感ずる。自分がそう思わないのは、変なんじゃないだろうか。
 だから、彼女らは、「内面に巣くう深刻な孤独感をひた隠し、ひたすら明るい自分を演出する」(浦澄彬「孤独な女子高生」(「数研国語通信つれづれ」第四号2005.4))しかないのである。

 

 皆、この「からっぽのバスタブ」を読んで、自分に当てはめてみて、共感できる部分が、絶対にあったのではないかな。でも、退出した木島を追っかけて、授業中、周りの目も気にせず、出ていくことができる主人公は、ある意味、すごく強い女の子だよね。というのが、助言者としてのまとめである。


 

 2005年07月21日
  はた迷惑なうっかり忘れ


 小部屋の住人なので、大部屋に行かないと用が足せないことも多い。日に数度は、大職員室にいって、担当箱の書類を回収し、印刷などの用を足す。片道約150m。
 同室の方が戻られて、あ、また忘れた、と悔しがる。せっかく行ったのに、用の幾つかを忘れて戻ってきてしまったのである。
 よくあること。よくあること。
「人に迷惑かけているんじゃないですから、全然、問題ありません。」

 

 愚妻には、ひどい話があります。
 同僚の車に乗せてもらって帰ることになり、車のところまで来て、忘れ物に気づき、ちょっと待っててと、職員室に戻ったところ、コーヒーを沸かしたけど飲まないかと誘われ、誘われるままにくつろいでしまったという。待てど暮らせど戻ってこないので、捜しに来た同僚は、そこに、楽しく雑談している彼女を発見し、呆れはてたという。

 

 この話を、今、悔しがっている彼女に披露したところ、似た話があると、以下の話をしてくれた。
 葬儀の際、会場から随分遠いところに車を止めざるを得なかった人に、同僚が、俺は会場横に止めたから、そこまで、送るよと約束してくれたという。それはいいのだが、いざ帰り、彼の車は、キーを入れたままロックされていた。
 結局、遠い駐車場まで、2人歩いて行き、彼の家までキーを取りに戻り、折り返し、会場駐車場まで送ったという。なまじ、声をかけてくれたばっかりに、当人は、ピストン運転手に成り下がっちゃったのである。

 

 さて、この三つの中で、一番腹が立つのは……、もちろん、愚妻の行動である。

 

 

 2005年07月20日
  「ままはは」の反対は。

 愚妻の勤務校で、女の先生が、「さて、まま母やってくるか。」といって席をたったので、驚いたという。
 子供の通知簿渡しのため、職場を抜ける時、「さて、お母さんやってくるか。」と言いながら去っていくのは、よくある光景。先生の顔から母親の顔へ。所謂、ペルソナである。
 この場合、周りは、ちょっとギョッとする。正担任が欠席のため、副担任として、かわりに教室にいって仕事をしてくるという意味だそうである。

 

  さて、「ままはは」のオトコバージョンをご存じか。

 

  問 以下の中から正しいのを選べ。
     1、ぱぱちち
     2、ままちち
     3、ぱぱはは
     4、何か変。三つとも違うと思う。

 

  答 2番、ままちち。「継父」と書く。

 

 つまり、「継」を「まま」と読ませているのだ。「広辞苑」にも、接頭語として立っている。だが、漢和辞典では、「ケイ、ケ、つぐ、ついで」とあるだけで「まま」の読みはない。部分的に熟字訓になっているということなのだろう。
  「ままはは」ばかり有名で、「ままちち」なんて、ほとんど聞かないのは、後で家にやってくるのが、圧倒的に女性ばかりだったから。男子中心の封建的家制度の名残り。


 「ままちち」って言うことを、愚妻は小学校の時から知っていたという。日本人の常識みたいに言う。「へぇ〜」と面白がっている私を、国語の先生なのに知らないの? と小馬鹿にする。まあ、言われてみると、パパとチチ、同じ意味を重ねる意味はないのだから、ちょっと考えると分かりそうだけど、言葉自体、初耳だったのだからしようがない。
 そこで、職場に着いて、開口一番、三十代の女性に「ここで問題です。」と藪から棒に質問して、しっかり、「ぱぱちち」と答えたことを確認して、ここに、文章化しました。クイズの妥当性に問題はありません。

 2005年07月19日
  格物致知

 「晏子之御」も、昨日の「阜」が出てきた「三年不飛不鳴」も、史書のダイジェスト本「十八史略」から。今日、引き続き「先従隗始」をやった。1年生の「漢文入門」シリーズである。その中で、郭隗が昭王に言う言葉に「今王必欲致士(今王必ず士を致さんと欲せば)、」という箇所があった。「致」には、脚注がついており、「招く」の意とある。だから、現代語訳は、「今、王が是非とも賢者を招きたいとお思いならば、」となる。
 漢文が専門でない私は、漢文を教える度に、いつも新鮮な「へぇ〜」がある。この歳になって、且つ、入門教材でさえも。
 「致す」が「招く」の意味だから、2012年のオリンピック、ロンドンに来て下さいと「誘致」やら「招致」するのだ。
 漢和辞典によると、「至」が自動詞なのに対して「致」は他動詞。「致」の原義は「足で歩いて目標まで届くこと」。だから、漢字の十近くある意味の多くが、届けるとか、招き寄せるとか、こちらまで来させるとか、移動を伴う意味である。
 日本人が使う熟語では「致命的・致命傷」「致死量・過失致死」「致仕(官職を辞める)」などがある。逆に言えば、それ以外の熟語は、正直、あまり馴染みがなかった。例えば、「致効」「致詰」「致意」など。普段、使わない。
 ただ、ちょっと中国思想に教養のある人は、儒学の「格物致知(かくぶつちち)」を思い出すかもしれない。私も、言葉だけはすぐに出てきた。
 いやあ、これ、大学で習って以来、教科書の指導書などで、時々見る言葉ではある。私の出身大学は、元々、漢学の私塾が前身で、漢文の教授の陣容は素晴らしかった。あの時、この言葉の説明を受けたけど、イマイチ、よく分からなかったし、今も、全然、身についていないので、まともに生徒に解説した覚えがない。分かっている言葉を、面白可笑しくパラフレーズするのは、結構、得意なのだが、自信のない言葉では、そんな芸当もできない。
 今回、折角だから、語彙を増やそうと、調べはじめたが、ますますもって分からなかった。漢文の解説自体が漢字だらけで、漢字が持つ意味に依存しているだけに映る。煙に巻かれている気になってしまうのだ。
 「格物致知」とは、『大学』に出てくる言葉で、八条目の最初の二つ。後の六つ「誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下」は、ちゃんと本文で解説してあるにもかかわらず、肝心の二つは解説がない。そのため、儒学者の間で異論百出、学問的な焦点となっているのだという。この八つの順番でやっていくと、最後に平和になる(「平天下」)という理屈で、その最初の概念である。つまりは心臓部。それの説明がないなんて、『大学』って、えらくお騒がせな本である。

 

 代表的な解説は、時代がかなり下って、宋の朱子による次の考え方。

 

   「格」とは「至る」ということ。草木一本に至るまで、万物には「理」が備わってい る。その理をひとつひとつ窮めていくこと、つまり、後天的に知を拡充することで、最 終的に万物の本質、宇宙普遍の真理を理解すること。

 

 もう一つは、王陽明の次の考え方。

 

   「格」とは「正す」ということ。事を正し、心を正すことで、先天的に備わっている 自己の良知を発揮し、物事に正しく処していくこと。

 

 結局、如何にも朱子学らしい、如何にも陽明学らしい考え方であるとは思ったけど、それ以上、私の思考は発展しない。どうも、この手の下地がないのである。
 高校時代、まだ、そんなに時代感覚が身についていなかった頃は、朱子学だって、古い、黴の生えた思想だとしか思わなかったが、考えてみれば、たかだか宋である。中国三千年の思想家の中では、ペイペイの新参者の理屈こきでしかない。王陽明もしかり。硬直した朱子学派を批判して出てきた明代の人なんだから、もっと新しい。
 後世の人の理屈は、えらく小難しくなって、微妙に本質とは違ってきて、理屈の理屈、自説の牽強付会になってしまっているなんてことは、よくあること。これもその類のような気がしないでもない。もっと古い、素朴な古注あたりが正鵠を射ているなんてこともありそうだ。
 でも、もう調べるのはよす。なぜなら、たった数行の学説の要約だけで、ウンウン唸ってしまったのだから。一日一文の短エッセイで、そんなことして深更に及ぶと、明日、疲れて仕事にならない。それに、ちょっと難しそうだ。
 そこで、話は方向転換して、お茶濁しで終わる。

 

 大和言葉の「いたす」のほうは、「広辞苑」で、八つの意味が載っていた。よく使うのは、ご存じ「〜いたします。」という言い方。例の「する」の謙譲語・丁寧語である。
 そこで、授業では、「英語でいうと、「いたす」は「do」みたいなもんで、その敬語だよ。「do」って色々意味があるだろ、それと同じ。こんなのが、一番訳すとき困るよねえ。その場に合わせて考えよう、例えば、「思いを致す」ってのは、つまり、「思いがdo」ってことだよね。つまり、「思う」と一緒だ。恰好つけているだけだよね〜。どぉ?」なんて、エェ加減に教えている。
 こんな説明でいいんでしょうか? 専門業の方。
 いつもちょっと不安なんですけど……。

 

 2005年07月18日
  山とくれば川

  漢文で「阜」の字に「をか」とルビが振ってあった。日本人で、この字を使う言葉といえば、まず、「岐阜」くらいしか思い浮かばない。そういえば、「岐」も余り使わない。「分岐点」くらい。そこで、漢和辞典を繰る。
 「阜」とは、岡。大きく膨れた土盛りのこと。
 「岐」とは、枝状に分かれた道、山の枝道のこと。 
とある。つまり、岐阜県は、山ばっかりの県だと言っているのである。当然、現地の人は知っている話だろう。
  山とくれば川。
 石川県の「石川」は、県で一番大きな川、手取川に因んでいる。礫川(れきせん)なので、この名がついた。では、なぜ、県名が川なのか。
 それは、廃藩置県の時、能登国・加賀国、二国で一県にすることになり、手取川河口の町、美川町(現能美市)に、ほんの一時期、県庁所在地を移したためである。そもそも、町の名自体、この川の美名。ほら、高速道路で、福井方面からくると、左手に「美川県一の町」というくだらない駄洒落の縦長大看板が出ていて、それが、結構、テレビで紹介され、有名になったあの町。だから、県名も、この流れで、川に因んだものになった。
 生徒に、人の県の漢字の意味知っていてもねえ。じゃあ、石川県の県名の由来、知っている人? と手を挙げさせたけれど、知っていたのは、3クラスで合計三人しかいなかった。現地から通っている子がいたので、聞いてみたが、彼ですら知らなかった。
 郷土の誇り。地元の子は、小学校の「郷土の時間」に、力一杯、習っている気がしたけどなあ。

 

 2005年07月17日
  エリスはダメ女?

  昨日と結論が一緒の話を……。
 森鴎外『舞姫』の小論文を提出させた。八百字。今、せっせと読んでいる。
 主人公豊太郎の視点から書かれているので、授業はどうしても、明治の男性の生き方中心となるが、女生徒は、エリスに対しての論が多くなる。
 例年、我が校の女生徒は、エリスに冷たい。愛に生きる彼女について、「愛にすがって生きている。」「自立心がない。」と評判が悪い。
 男尊女卑の時代である。固定化された社会、下層階級に生まれ、文字さえ碌に書けない教育レベル。且つ、周りのダンサー仲間は、売春で生計を助けている。そんな状況で、一体、彼女に何ができるというのだろう。世間の枠組みがガチガチに彼女を縛ってるのに……。そのことを、何度も授業で押さえたにも拘わらずである。
 中には、「共感はできないが、そんな時代に生まれてしまったことに関して、彼女は可哀想だと思う。」と書いている者がいた。これならばいい。
 しかし、「自分で生活の手段を見つければいいだけ。」「男に頼る嫌な女。」などと書いてある作文を読むと、なんて想像力のない子だと思ってしまう。身動きがとれずにいることを、自分が動かないからとしか理解できないのである。もちろん、それは、そんな思いをしたことがないから。
 ある女生徒は、「豊太郎は、エリスを日本に連れて行って一緒に暮らせばいい、堂々と日本で彼女を紹介すればいいだけなのに……」と、なぜしないのか不思議がっていた。
 そんなことしたら、世間で大恥かくだけである。大前提が分かっていない。
 
 人生に何の障害もない。あっけらかんとして、実に平和な時代である。

 

 2005年07月16日
   出て行くのはどっち?

 漢文で「晏子之御(あんしのぎょ)」を教えた。権威ある人について得意になっている者の喩えである。「虎の威を借る狐」とちょっと似ている。
 自分が、斉国の名宰相晏子専属の、四頭立て馬車の馭丁であることに得々としている夫を、妻は見限ろうとする。「妻請去曰」(妻去らんことを請ひて曰く)という箇所を男子生徒に訳させたところ、
「妻に去ることを願い出て言うには」と答えた。彼によると、家を出て行くのは夫のほうなのである。おい、自分ほうから白旗振ってどうする。
 私一人、えらく受けたが、生徒は誰一人笑わない。どっちかが出て行くわけで、それが男女反対だからといって、取り立てて可笑しくもないということなのだろう。
 何とも現代的な光景。
 これに続く妻の発言は「妾〜」から始まる。あなたのボスは、偉いのに謙譲心がある。それに比べて貴方は、そんな地位で満足して……というわけである。
 漢文で、女性の言葉の最初に「妾」が出てくる時は自称である。「私」と訳せばよい。と教えて、ちなみに、日本では訓読すると、あまり良い意味ではないのだが、どう読むか知っていますかと尋ねたが、分かりませんの連発。
 メカケと読むのだよ。と教えて、ちょっと心配になって、女生徒に続けて聞いてみた。メカケって何のことか知ってる?
  知らない。
 二号さんのことだよ。二号さんて、知ってる?
 知らない。
 何年か前、お妾さんがいることが発覚し、それも、あんまり月々のお給金あげていなかったので、彼女が怒って内幕を週刊誌にバラし、吝嗇ということになって、三ヶ月で辞職した、どこかの国の総理大臣がいたよね。知ってる?
 知らない。

  平和な時代である。男尊女卑の虐げられた歴史なんて、どっかに吹っ飛んで、何の苦労もないパラダイスのような国になった。

 

 お宅、出て行くのはどっち?

 2005年07月15日
   ヒマワリを詠む

  まだ、梅雨だというのに、もう終わりかけのヒマワリを、今朝、人の家の前庭に見つけた。その家のは全部そう。他はこれからである。早生種でもあるのだろうか。昨夜から、俳句の頭になっていたので、一句。

 

  向日葵の一輪毎の暑さかな

 

 通勤しながら作った、れっきとした自作なのだが、一字一句そっくりな句がありそうだ。微温的定番発想。
  プロが詠むとこうなる。

 

    向日葵や信長の首斬り落とす  角川春樹

 

 本能寺の変は、天正十年六月二日のこと。暦的には夏の盛り。大輪ヒマワリの隆々とした姿に、男子の本懐として、天下取りの野望を重ね……なんて解説をはじめると面白くない。そこで。

 問 この句の「鑑賞文」を六十字以内で書け。
 答 (………。(読者諸兄が埋める欄))

 2005年07月14日
  プールで俳句を考える

 ジムで、七夕月にちなみ、笹に自作の川柳・俳句の短冊をつるす企画をやっていた。勿論、良い作品は、後でプレゼントがつく。屋台店を並べてお祭りをしたり、地引き網を引きに行ったり、あの手この手の、客逃すまい作戦である。
 運動中は、頭が止まっていることが多い。プールでウォーキングしながら、何で同じ所行ったり来たりしているんだろうと、時々、虚しくなることもあるので、作品を考えるのはいいかもしれない。
 ということで、三十分で二句。

 

    夜の室内プールにて

  クロールは水面(みなも)の光り掴むごと
   水晶の砕けるがごと飛沫(しぶき)散る

 

 両句に「ごと」(「如し」の短縮形)がついて、流れが悪いのは、比喩表現するしか能がないため。特に、二句目は「枕草子」の「月のいと明きに、川を渡れば、牛の歩むままに、水晶などの割れたるやうに、水の散りたるこそ、をかしけれ。」(二一八段)の盗作である。先週、授業でしたばかり。

 2005年07月13日
  (つづき)

 これで、タイトルが「the magi (マギ)」になっている理由ははっきりした。が、私は、三賢王の一人の名に目がいった。
 「ガスパール(gaspard)」
 音楽好きは、この言葉を聞くと、モーリス・ラヴェルの「夜のガスパール(Gaspard de la Nuit)」(1908)を想起する。この曲、アロイジウス・ベルトランの詩集「夜のガスパール」(1842)にインスパイアされて、そのうち三編「オンディーヌ」「絞首台」「スカルボ」の音楽化を図ったもの。ピアノの難曲として有名である。
 ここでちょっと、フランス文学史のおさらい。
 ベルトランには「夜のガスパール」以外に作品はなく、出版も死後のことだったという。いわば埋もれた詩人だった。後に、『パリの憂愁』でボードレールが推賞して、復活する。ボードレールは、「散文詩」というベルトランの表現手段に、新しい文学ジャンルの可能性を感じたのである。以後、彼は、ボードレール、マラメル、ランボーに至るフランス散文詩成立の端緒の人物として、評価されるに至る。
 この詩集では、ガスパールは、作者が会った男(=悪魔)の名前として出てくる。例の三博士の一人が「昼のガスパール」なら、自分は「夜のガスパール」だという意味だそうである。それで、何故「夜の」とわざわざ断り書きがついているのか合点がいった。
 一時、岩波文庫で日本語訳「夜のガスパール―レンブラント、カロー風の幻想曲」(及川茂訳)が出ていたが、今は絶版。ラヴェルがらみで、三編の詩だけは、ネットですぐに閲覧できたが、象徴的な言い回しで、何を言っているのやら、解説を読まない限りは難しそうである。
 そこで、私に出来るのは、久しぶりにレコード棚から古いLPを取り出して、ターンテーブルに載せること。「カスゥ、カスゥ」というスクラッチノイズの中、何十年ぶりかで、この曲を聴いた。陰鬱な、水の揺らめきを感ずる曲である。

 

 妻が偽物掴まされたけれど、そのカメラを愛用しようという、夫婦愛溢れる掲示板の小話から、O・ヘンリーの短編を思い出し、紀元年のエルサレム、キリストの誕生に飛び、二十世紀初頭のラベルの曲を想起し、フランス文学史を温習(おさらい)し、日本のオトボケ手品師の芸名由来に感心したこの思念は、実に、三週間がかりの巡行であった。
  この曲を聞きながら、私のMagiをめぐる旅を終わりにしようと思う。

 2005年07月12日
   (つづき)
 Magiは、もともと星の占い師のことで、「旧約聖書」には、オリエントのMagiに関する記述が散見する。エジプト、バビロニア、ペルシャ、インドなどにいた、高い教育レベルを持った占星術の使い手で、民から尊敬されていた。magiは、キリストが生まれる何百年も前から救い主の生誕を予言していた。だから、キリストに会いに行くということは、その預言が成就したことを示しているのである。
 ところが、聖書の、たったこれだけの記述は、後世になって色々なイメージが付加されていく。
 西洋の宗教絵画では、一行は、しばしば豪華な装いをまとった大人数の集団として描かれ、異国風の駱駝や豹などを伴なっていることが多いという。
 それが、いつのまにか三人ということになり、捧げ物ができるのは、相当、社会的地位が高い者に限られるということからか、王様ということになった。名前もついた。則ち、「三賢王」。名は長老の王ガスパール、青年王メルキオール、黒人王バルタザールという。彼らは、中世後期頃には、ヨーロッパ、アジア、アフリカの象徴(擬人像)として描かれれたらしい。それらの地域の人々が、キリストに敬意を表す、という意味合いである。
 つまり、世界の民族分布が明確になるにつれて、いわば、全世界がキリスト教に恭順したというニュアンスが付加されていったということになる。これだけでもなかなか興味深い。
  magiは、現代の言葉であるmagician(魔術師)の原語にあたる。だから、新共同訳の「占星術の学者」は、「三賢王」や「三博士」より原義に近い、よく考えられた訳ということになる。
 ちなみに、ブイヨンで有名なマギーはmaggiと書く。スペルが一文字違う。ただ、人気手品師、マギー司郎・審司師弟のマギーのほうは、勿論、ブイヨンのほうではなくて、占星術の占い師のmagiのほうでしょう。魔術師の司郎・審司という意味。実に由緒正しい名前である。(つづく)
 2005年07月11日
  「マギの贈り物」

  6月21日に紹介したプレゼントの話、いい話だったけれど、掲示板なので、後にコメントが続出する。妻に内緒で本物のライカを買ってこっそり交換すればいい。どうせ興味がないだろうから分かるまい。彼女の心を大事にした上で、自分の趣味も満足できる、これぞ一石二鳥のやり方だ。なんて意味のことが書いてある。
 うーん。確かに現実的な対応だけど、そんなこと、この旦那がしたら、こっちの感動は一遽に冷める。極めて散文的な、いらぬ助言である。

 

 ところで、この話、O・ヘンリーの「賢者の贈り物」(The Gift of the Magi)に似ていると書いた。例の、クリスマスに、夫は櫛を、妻は時計用の銀の鎖をプレゼントするために、それぞれ、髪を鬘(かつら)屋に売り、時計を質に入れる夫婦愛の物語である。プレゼントの品物自体の意味は消失しているが、それ以上に相手の心をもらったというところに、共通点がある。ただ、投稿のほうは、一方通行で、その点で、小説より「奇」ではないけれど……。
 実は、原題を横文字で書いていて、何故、賢者がthe magiなのか、ちょっと不思議に思った。the wise, wise man, wise person あたりなら分かるのだが。
 そこで、英和辞典を引いてみると、the magiとは「東方の三博士」とある。例のキリスト生誕の時、祝福に来た三人の賢者のことである。
 では、なぜ、この短編が、「東方の三博士のギフト」(拙直訳)という題になっているのか。それは、物語の終わりに、次のような作者のコメントがあるからである。

 

 東方の賢者は、ご存知のように、賢い人たちでした。― すばらしく賢い人たちだったんです ― 飼葉桶の中にいる御子に贈り物を運んできたのです。東方の賢者がクリスマスプレゼントを贈る、という習慣を考え出したのですね。彼らは賢明な人たちでしたから、もちろん贈り物も賢明なものでした。たぶん贈り物がだぶったりしたときには、別の品と交換をすることができる特典もあったでしょうね。(中略)二人は愚かなことに、家の最もすばらしい宝物を互いのために台無しにしてしまったのです。しかしながら、今日の賢者たちへの最後の言葉として、こう言わせていただきましょう。贈り物をするすべての人の中で、この二人が最も賢明だったのです。贈り物をやりとりするすべての人の中で、この二人のような人たちこそ、最も賢い人たちなのです。世界中のどこであっても、このような人たちが最高の賢者なのです。彼らこそ、本当の、東方の賢者なのです。(結城浩訳)

 

 高校生の時、「O・ヘンリー短編集(上)(下)」を新潮文庫版で読んだ記憶があるが、これが、聖書の「東方の三博士」を踏まえていることなんて、意識しなかった。でも、なんだか、ちょっと蛇足のような文章だ。
 今、「例の」と、如何にも聖書に親しんでいるかのような書き方をしたが、我々日本人に、聖書の物語は、正直、馴染みがない。私だって、小さい頃、近所の教会の日曜礼拝に行って、子供向けの福音書を一部分読まされた程度。偉い人が星に誘(いざな)われて、生誕の祝福にやって来たという程度しか知らなかった。
 という訳で、まず、聖書のその部分を引用する。「マタイによる福音書」(第二章)。

 

   「占星術の学者が訪れる」
 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか? わたしたちは、東方でその方の星を見たので、拝みにきたのです。」それを聞いて、ヘロデ王は、不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の司祭長たちや立法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。」預言者がこう書いています。
  「ユダヤの地ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決して一番小さいものではない。お前から指導者が現れ、私たちの民イスラエルの牧者となるからである。」
 そこで、ヘロデ王は占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」 と言って、ベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先だって進み、ついに幼子のいる場所の上で止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアとともにおられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 
                           新共同訳「聖書」(日本聖書教会)より

 

 これで、全文。他の福音書には記載がない。
 私たちの頃は、「東方の三博士」という訳で記憶しているが、どうも、これは古い言い方のようだ。英語の聖書では、単純にwise manと訳されており、この新共同訳では「占星術の学者」という言い方になっている。(つづく)

 

 2005年07月10日
  結婚一周年記念会

 弟が昨年七月に結婚して一周年。父の発案で、一家6人、卯辰山中腹の割烹でお祝い会をした。父母、我々夫婦、弟夫婦3家族。近所とはいえ、集合するのは、数ヶ月に1度程度。
 今年、開店七周年のこの料理屋さん、地元で評判のお店で、市内が一望でき、接待した県外のお客さんにいつも大好評なので、父のお気に入り。昼を外した時間帯でようやく予約が取れたという。
 割烹での小宴会は久しぶりである。掘り炬燵風に切ってあり、腰の問題もない。
 小綺麗で、和拵えの店の諸処に花が生けてある。絵心を刺激され、シャッターを押す。箸置き、お銚子、器も吟味してあるので、それもパチパチ。料理も、刺身に紫陽花、モミジが散らしてあって、カラフル。何枚も構図をかえて撮る。
 ということで、家族の会話そっちのけで、「物(ブツ)撮り」カメラマンのよう。
 「タウン誌の記者ですか、ライバル割烹のスパイですか。」状態。

 南瓜に海の幸を混ぜ込んだ春巻きが出た。父が急にオウム真理教の話をし出す。一同何でか意味不明。話の中盤で、その理由がわかった。
 父、「オウムの連中が言っている「ハルマキドン」が……。」
  春巻き丼!
 一同、「………。(-_-;)」
   
  以下は、蛇足のお勉強。
 ハルマゲドン(Harmagedon )。映画で「アルマゲドン(Armageddon)」というのがあったが、あれは英語。語頭の気息音を落とした形。「最終戦争」というのが、現代日本で流通している意味。SFや新興宗教の煽りで頻出するようになる。
 原典は「ヨハネの黙示録」16章16節、「かの三つの霊、王たちをヘブル語にてハルマゲドンと称ふる処に集めたり」。
 元々、「メギドの丘」という意味。「ハル」が丘。「メギド」は地名。現在も遺跡が残る古戦場のこと。終末の最終的な決戦の場所の象徴から転じて、戦い自体を指すようになったらしい。何とも「黙示録」的な世界である。

 

 2005年07月09日
   コーヒー消費量日本一の町

 いつも行くB屋さんで、職場用のコーヒー豆を多めに買った。年度初め、小部屋のコーヒー係を自分から買って出たからである。
 コーヒー飲みである。かなり飲む。日によっては五杯くらい。胃にはよくないかもしれない。飲み過ぎの日が続くと胃痛になる時もあるくらい。そのギリギリのセンで飲んでいる。変なバランス感覚。
 その昔、コーヒーと言えば、インスタントコーヒーにお砂糖いっぱいであった。私たち以上の世代は、家で豆を挽くことなど考えられず、そんなことしているのは、余程のお金持ちだけだった。本物は、喫茶店に行かないと飲めないものと思いこんでいた。町にコーヒー豆屋さんがなかったころの話である。
 十年ほど前、奈良の旧志賀直哉邸を見学した時、大正末期頃の建物なのに、洋間のダイニングキッチン、棚には本格的な電気コーヒー豆挽き機が置かれていて、そのハイカラな生活ぶりに驚いたことがある。
 小学校のころ、父親に繁華街の喫茶店に連れて行かれて、はじめて、プロが入れた豆挽きコーヒーを飲んだ。ミルクが白い渦状に流れ、それが、味に微妙な変化をつけていた。子供心にコーヒーの苦い味を美味しいと思ったのは、この時が初めてである。もう、かれこれ三十五年前のこと。
 中学生のころ、今度は、金沢にはじめて豆屋さんができた。結構近くて、バス停にして二つほど向こう。ご主人さんは、趣味がこうじて、その頃の流行語「脱サラ」して出した店。地元ではちょっと話題になった。長い間、金沢でコーヒー豆屋さんは、ここだけだったはずである。その豆屋さんが、実家のすぐ近くに引っ越してきたのが四半世紀前。家でコーヒーを挽く習慣が定着したのもその頃のことで、以後、ずっと、この店を贔屓にしている。
 この前の、入院お見舞いのお返しも、コーヒー豆セットを大量に発注して、お店の老夫婦に喜ばれた。何分、少量薄利の商売である。一度の大量注文は助かるのだろう。私だって、一度に三キロの豆を買ったのは初めてだった。
 観察していると、コーヒー豆の吟味や焙煎は、旦那さんの担当、浅すぎず深すぎずの焙煎は、ここの味の命である。でも、お店に旦那さんしかいない時は、ちょっと困る。会計や受注作業がもたもたして、さっぱり作業が進まない。そのあたりを奥さんがしっかり押さえていて、本当に夫婦二人三脚のご商売である。
 旦那さん熟練のロースト味に慣れているしまっているので、後発の地元大手チェーン店の豆は、みんな焙煎のしすぎとしか感じない。深炒りは豆本来の風味を壊す。
 私も、手の出しやすい安価な種類くらいは、色々飲み比べてみたが、ブレンドを真ん中にすると、モカは酸味が強く苦みは少なく、キリマンジャロは苦みが強い。そのくらいは分かった。特にキリマンは、美味しくないショップのものは、苦みがだけ立ってコクがなく、最悪となる。モカは比較的当たりはずれが少ないようだ。
 私は、ここのところ、モカブレンドあたりに落ち着いている。

 

 あれから、金沢に本当に多くのコーヒー豆屋さんが出来た。ご近所だけでも四軒ある。先年、新潟から一年間研修で金沢にいらした方も、コーヒー豆屋さんが多い町だと指摘していた。ただ、こっちは、今やどこの町もこんなもんだろうと聞き流してしていたのだけれど、この前、全国ネットのテレビで、日本一コーヒー豆の消費量が多い町として紹介されていて、かなり驚いた。古都と西洋の飲み物。全然イメージが結びつかない。
 その理由に、また唸った。金沢は、お茶とお菓子の伝統がある。今も「お茶の時間」が生活に定着しているからだというのである。つまり、日本茶で一休みがコーヒーになったという。
 平日、仕事で一段落したら、「お茶にしますか?」という会話は、我々、日常茶飯である。休日、家では、終日、コーヒーを用意している。こんな行動も、地域の伝統に繋がっているのかと思うと、何だか、未だに加賀百万石のお膝元、おっとりと仕事や商売をしている感じで、時代に取り残され「伝統工芸」しかめぼしい産業が残っていない県民気質を象徴しているなあと感心した。全然、威張れない。
 でも、じゃあ、他県の人は、お茶の時間ってしないの? ペットボトルでウーロン茶でも飲んでいるのかしらん?

 

 2005年07月08日
  学食に行く

  4月のある昼、久しぶりに職場の学生食堂に行った。高校では珍しく、我が勤務校には学食がある。横の購買窓口で食券を買おうとしたら、自販機でどうぞと言われた。もう導入して一年たつという。自分の机と教室の往復以外していなかった行動の狭さに驚いた。
 このごろは、時々利用する。今日は、親子丼。ここのご飯物は、具をドンとぶっかける具沢山で、見た目は悪いが栄養的には悪くない。カレーも「お袋さんの作った」という形容がぴったりの、ジャガイモごろごろのやつである。
 後から、お
若いのに肥りぎみの同僚某氏がやって来て、やはり、丼ものを注文した。出来上がるまで、清涼飲料水の自販機に向かって思案している。中の飲み物は、コーラなど甘いドリンクの類である。
「先生、丼だけでも醤油と砂糖で充分甘いですよ、そんな甘い飲み物は飲まない方が……」
と気軽に声をかけた。そもそも、丼に甘いコーラ類の組み合わせ自体、食い合わせとて、どうかと思う。不健康そのものである。
 彼は、さっとその場を離れた。リアクションまったくなし。
 そして、私からかなり離れて、出てきた丼を黙々と食べ始めた。
「いやあ、私も腰を悪くする前はウエストが90cm以上だったので、ちょっと、ちゃべを言いましたかねえ。」
と明るくフォローした。「ちゃべ」とは、こちらの方言で「お節介」の意味である。
  ところが、「まあ。」とか「ええ。」とか生返事。明らかに不快な様子である。
 どうも、私のちゃべ発言を命令と受けとってムッとしているらしい。学校の先生は、常に命令する立場。命令されるのが大嫌い。しまったと思ったが、後の祭り。早々に食べ終わって食堂を去った。
 後で、この話を同じ部屋の女性にしたら、おそらく、奥さんをはじめ周囲から口やかましく言われているのでしょう。それを、また言われて、なぜ、貴方にまで言われなければならないのだと立腹したのでしょうという分析だった。
 なるほど、それで当たり。
 私は地雷を踏んでしまったようなのである。

 

 2005年07月07日
  ミュージカル「百婆」を観る。

  今週月曜日の午後は授業がなく、高文連文化教室だった。蒸した曇天の中、石川厚生年金会館大ホールに大移動。
 生徒と一緒に、わらび座のミュージカル「百婆」(脚本・演出 吉本哲雄)を観る。
 朝鮮半島より有田に渡来した陶工が、出世し名字帯刀を許される。その夫の死に際し、渡来人のしきたりで葬儀をしたいと願う妻の百婆と、帰化したのだから日本風にすべきと考える息子、そうした日韓の文化の差と同一性をうまく織り込みながら、楽しいミュージカルに仕立てた舞台であった。わらび座にしては、主義主張的でなく、豪華なエンターテイメントになっていた。
 いつも思うのが、生徒の無反応。日韓の問題を扱っているので、重い部分もあるのだけれど、渡来語でお経を詠むことになり、その翻訳を間違えてアリランの歌詞になり、葬式中、みんなが踊り出すとか、楽しい場面も沢山あるのに、誰も笑わない。黙って静かに観ていなければならないという脅迫観念が会場全体を支配している。その上、最後のカーテンコールの拍手も続かない。俳優がはけるとすぐ止み、出てくると、また、拍手する。まるで御義理で拍手しているかのようである。
 かと思うと、ほんの数名の女子生徒は、最後までコソコソ、クスクスと雑談を続け、その声が会場に響いているにもかかわらず、みんな迷惑しているのに気がつかない。
 なぜ、そういうことになるのだろう。
 まず、映画などで何百億円使った映像を見慣れている彼らは、舞台程度のスペクタクルでは、すごいと思わないのだろう。ユーモアもおっとりとしていて、刺激のあるギャグに慣れてしまっている彼らには、笑うほどのものでもない。ある意味、彼らはなかなかシビアでクールな観客たちなのである。
 つまり、映像世代の彼らは、舞台も映像作品の感覚で観ているから、映画館で観ている感じで黙って芝居を観、つまらないテレビを観ている感じで雑談するのだ。芝居は、観客と役者のキャッチボールで作るものという意識が全然育っていない。だから、大人が観ていて、どこどなく反応が変なのである。
 「もっと笑えばいいのだよ。よかったと思ったら、もっともっと拍手してあげようね。」
 今日、1年のあるクラスで、そんな話をしたら、だって、笑っていたら、先生に力一杯怒られたもん。と、ある女生徒が、えらく不興な面持ちで言い放った。
 わかった。芝居中、ペチャペチャ喋っていたのは、お前だ。

 2005年07月06日
  「この味がいいね」と君が言ったから。

  今日は、「記念日の日」だそうである。朝、ラジオで紹介していて、初めて知った。記念日を記念する日なんて、ちょっと訳が分からないと思ったが、実は、日本記念日学会なるものがあって、そこが、「記念日の普及を促進するため」に定めたのものだという。当初は別の日だったが、例の俵万智の「「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」という短歌が、「記念日」として、余りに有名なので、5年前から今日に変更になったそうである。
 ということで、今日は、「サラダの日」でもあるらしい。
 女性は、この歌のように、大好きな人から自分の料理を褒められたことを、一生忘れないもののようだ。でも、それが、何月何日のことなのかまでは覚えている人はほどんどいない。褒められた事実が大事なのだから、それが普通である。
 この歌は、そんな極「私」的な出来事を、記念日にする! と宣言することで、つまり、「公」的に扱うことで、日付を錨にして、はっきりと記憶に繋ぎ止めようとしている。そこに、この歌の新鮮さがあり、彼女ならではの個性がある。
 大抵の女性は、その後、結婚し、料理もうまくなって、旦那や子供に美味しいと褒められることもあるだろう。でも、そんなのは覚えていない。独身の時の、彼氏に褒められた、その一瞬の経験だけが、キラキラ思い出格納庫に収納されることになっている。
 この七月六日という日付、だから、万智ちゃんの、極めて「私」的な祝祭の日のはずである。それが、ここまで全国的に有名になって、記念日化してしまっては、元々この言葉が持っていた「公」的な意味だけに戻ってしまったことになり、「私」と「公」を結びつけた歌の含意が台無しになっているのではないかと思えた。
 それに、二十歳半ば(当時)の女の子の思い出に、日本人全体が乗りかかるような事態になっていることに、彼女自身、面映ゆさを感じて気が重いのではないだろうかと思ったものだ。
  それもこれも、この日が万智ちゃんの本当に大切にしている思い出の日だと思いこんでいたからの心配である。
  しかし、この思いは、次の彼女の打ち明け話で、まったくの杞憂と知れた。なぜ、七月六日なのか。それは、

 

「恋人同士の記念日に七夕というのでは、芸がない。けれど前日というのなら、その香りを分けてもらえる程度で、グッドなんじゃないかと考えた」
  (
「万智の交友録」丸谷才一 WEB「俵万智のチョコレートBOX」)

 

からなのだそうである。つまり、彼女自身、この日付にまったく思い入れはない。文学的虚構としてチョイスされた一日。おそらく、彼氏に褒められた経験はあるのだろう。だが、それがいつのことかは、芸術的効果を熟慮した「仕掛け」として選ばれたのである。
 丸谷才一は、この歌に、松尾芭蕉の「文月や六日も常の夜には似ず」という句と同じ精神があると指摘して褒めたそうだ。それに対して彼女は、

 

「私はこの句を知らなかったのですが、七月六日を選んだ理由は、まさに芭蕉と同じ気分でした。」(同)

 

と正直に追認している。
 七夕を待つ前日の気分に文学的興趣を感じ取る感性は、元禄の俳人、現代の歌人、時に隔てはあれど共通しており、そんなことを思いもつかない凡人の私にしてみれば、いずれにしろ羨ましいかぎりである。
  私は、彼女に見事にだまされた訳だが、それだけ、この歌が、若い女性の一瞬の欣喜の心情を見事に描き出す普遍性を持っていたということなのだろう。

 

 2005年07月04日
  変なカメラを何故買ったのか。

 先日、ネット通販で買ったデジカメ(リコーCaplio GX8)も、最近の嫌な客よろしく調べ尽くして購入したので、欠点はあらかじめ分かっていた。だから、ここ二ヶ月、色々、試し撮りをしているが、ああ、こんな変な写真になるのだ、掲示板で指摘されていた通りだと、確認作業のごとき様相を呈している。


 1、掲示板の投稿者曰く、「正直なカメラ」。
 自分でいじった設定がドンピシャ適切な場合には、意図的且つ個性的な画像が得られ、感激するが、それが外れると、一遽に悲惨な画になる。誰のせい? ハイ自分の腕がないからです、と反省を迫る。
 例えば、花のアップを撮るとする。一応、芸術写真(指向?)であるから、高画質に設定する。ズームは広角、マクロモード、絞りは開ける。色味は「濃い」を選択する。花の絵は原色の美しさが命、濃いめの方が見栄えするからである。ジャミジャミは嫌なので感度は低く設定、このため、手ブレの限界を超えないか、シャッタースピードの確認を忘れずにする。一枚撮って、画像確認、明るさを見て、必要とあらば露出補正して数枚撮る。この作業のどこかを忘れたり間違うと、もうダメなのである。
 でも、これは、まだ、何をすればいいか分かっているから問題ないほう。こういう状況ではこう設定すべきだろうとアタリをつけて撮影するような時は、もう一か八かである。
 カメラ自体、分かっている人向けに作ってあることも大きいようだ。
 例えば、感度をオートにして、ストロボもオート設定にしていて焚かれた場合、ISOを400まで上げていくが、ストロボオフにすると、100のまま。焚かない分、暗いから、焚く時より感度を上げるはずで、常識と逆になっている。どうやら、ストロボを焚くということは、記念写真のような場合なのだと判断して、多少ざらついても感度を上げるが、意図的に焚かない時は、絵作りをしているからだと判断して感度は上げないという理屈のようである。当然、シャッタースピードは悲惨なほど遅くなり、ブレ写真を量産する。まず、「しっかり構えよ。」という基本を強いること強いること。

 2、曰く、「じゃじゃ馬」。
 オートでストロボを焚くと、まず、青かぶりする。ホワイトバランスが安定していない。あっちに転び、こっちに転ぶ。この、オートじゃまともに写らないというのは、今の電気製品として、なかなかのもの(!)だ。こっちが積極的にシーンモード(晴天・曇天・蛍光灯・白熱灯など)で選ばなければならない。

  3、曰く、「画像に難あり」。
 画の暗部にざらつきがあり、荒れ気味。パープルフリンジが盛大に出る。暗い場所ではもっと盛大に。ISOを下げても残る。写真機で画像に問題があっては致命的なような気がするが……。

 

 では、そんな変なカメラと知りつつ、なぜ買ったのか。
 前にも書いたが、広角とマクロに特化して、スナップや旅行に最適なこと。銀塩カメラ然としたスタイルが、変な薄型と違った安心感があり、そのため、非常に握りやすいこと。ホットシューが装備されていたり、評判のよいワイドコンバーターレンズ(別売)があったり、マニアの遊び心をくすぐること。そして何よりも、一番使う絞り優先や露出補正がしやすく、好みの絵作りができ、写欲を刺激すること。こうした、弄くりたい人には、よくできたカメラなのである。いわば、大人のおもちゃ。
 スタイリッシュ、オートで綺麗に写りたいというのだったら、大定番、キャノンのIXY(イクシ)シリーズを買えばよい。デジカメ売り場で、展示品を全部触ってみて、文句のつけようがなかった。
 でも、と偏屈者は考える。それじゃあ、絶対、飽きる。「美人は三日で飽きる。」のと同じ(!?)。
 室生犀星は、女性を眺めるのが大好きな人だったが、とびきりの美人だけ大好きだった訳ではない。どちらかというと、容姿が普通の人、若干、問題のある人(「醜女」の言い換え。「一太郎」では変換しませんでした。どうも、既に殺されている言葉のようです。)の方が大好きだったそうである。そうした人が、ふと見せる女性らしさ、それを見つけることに無上の喜びを見い出していたという。「眺める人」犀星の人柄を示す有名な挿話で、たしか、先年亡くなった、犀星の取り巻きの一人だった新保千代子さん(石川近代文学館館長)から伺った話だ。
 何が言いたいか、もうおわかりだろう。あの言葉、「醜女は三日で慣れる」と続く。大変もって女性に失礼な断言だが、世の中に美人があちこち転がっている訳でもない。普通の器量の女性とおつきあいしていて、その中で、男が惹かれる女性の一瞬の煌めきを見つけて、それで、その女性をいとおしく思う。そういう風に理解すれば、実に真っ当で、愛情溢れた格言(?)ではないか。
 で、このデジカメ。何十枚と失敗写真を乱造するけど、時に奇跡のような煌めき画像が撮れる。それに感激して、このカメラにいとおしさが募り、今日も梨地の肌をなで回している。
 よい子だ、よい子だ。いい写真を撮らせてくださいよ。ナデナデ、ナデナデ。

 2005年07月03日
  店売りの生きる道

 サイバー攻撃にやられて、一時停止していたネットの「価格COM」の掲示板サイトが6月23日(木)、ようやく復旧した。
 最近の買い物は、まず、この「価格COM」や「2ch掲示板」で、ユーザーの生の声を読んで、良いところ悪いところを十二分に了解してから決意し、ネット上の最安値を検索、その価格情報をもって近所の店に行って交渉するというのが、私に限らず、多くの人の行動パターンになっている。このため、買う前から、その商品を熟知している客が、販売店員の知識を試しているかのような交渉をするという逆転現象がしばしば起こるようになった。山ほどある商品すべてに答えられるように、ある程度の知識を、広く浅く知っている店員に対し、この商品と思いこんで、知識を詰め込んで交渉にやってくる客。店員さんはさぞやりにくかろう。
 外出下手になって以来、そうした交渉も煩わしくなった。その上、現物が店にない場合、取り寄せになり、場合によっては一週間近くかかる。それに対して、ネット通販は、「即日発送可能」と書いてある商品など、次の日には宅配便で来てしまう。欠点だった機動性においても、今や店売りを凌駕している。つまり、客の心理的には、近所の店より「近い」ことになってしまったのである。
 この結果、「店を構える」ことの意味が低下した。職場によく顔を出す書店の外商さんも、本屋の敵は、今や「Amazon.co.jp」だとはっきり断言していた。本のような多品種少量販売の商品を扱っている場合、店置きには限度があり、手元に届くスピードで、勝敗ははっきりしている。
 ただ、私がのべつまくなしネット注文に走らないのは、本の場合、外商さんが回って来てくれているからである。急がないものならば、地元の本屋さんでという、こちら側の「義理人情」で、なんとか保っている世界なのである。
 もう外商を止めて職場へ来られなくなったF書店のOさん。何気ない雑談の中で、その人の趣味や興味のある分野をしっかり把握して、時々、頼みもしない本を、「欲しいんじゃないかと思いまして。」と持ってきていた。それがズバリと当たっている。ちょうど注文しようと思っていたところだったり、出ていることは知らなかったが、その内容なら、買わんわけにいかんなあ、という本だったり。
 しまいに、私は、近代文学の「耽美派」が専門だから、その手の研究書が出たら、そっちで判断して持ってきて。絶対、買うからと、下駄を預ける始末。
 プロ中のプロだったなあ。
 今の人は、売れ筋の、利鞘のありそうなシリーズのパンフを置いていくだけ。こっちの興味分野など詳しく知らない。
  客との濃密な関係。ご近所の電器屋さんは、とっくにそうした関係で商売をしている。本屋さんが生き残る道も、それしかないと思うのだが……。

 

 2005年07月02日
  (追記)「春の小川」の改変
 昨日の日記を書き終わってからも、少し気になったので、「春の小川」について調べてみた。
 歌われた景色は、田舎の情景のようだが、モデルとなった小川は、実は、東京渋谷の、当時の高野辰之宅近くの河骨川(こうぼねがわ)という川で、今や暗渠になっているという話は、以前、テレビで紹介されていて知っていた。ネットで見ると、毎年、「春の小川まつり」なる企画もあって、ゴミ拾いイベントなどをしているようである。
 問題の歌詞では、二番の「日なたに出でて」が「日なたで泳ぎ」に改変されている。これも、ダ行下二段活用の動詞「出づ」が、文語ということで敬遠されたからだろう。しかし、前後の文脈からみて、そこで「泳ぎ」という行動を示してしまうと、次の「遊べ遊べと」にぶつかってしまって、座りが悪くなっている。日なたに出て、「泳」ぐことイコール「遊」ぶことのはずで、これでは同じ意味である。
 1番の末尾「ささやく如く」も、「ささやきながら」になっている。これも、比況の助動詞「如し」が嫌われた。それに、これでは、ホントに囁いたことになってしまい、意味が違ってくる。
 ただし、一時期、「咲いているねと」と直されたようだが、私が習った四半世紀前には、原詞の「咲けよ咲けよと」に戻されている。一部にこうした回帰現象も起こっているようである。
 この歌詞の改作は、昭和17年、林柳波という人によってなされている。てっきり戦後の改竄かと思っていた。どうやら、すでに戦前から文語は嫌われていたようである。
 ちなみに、高野辰之は、昭和22年まで生存している。当時、すでに功成り名遂げた斯界の泰斗である。許可なく勝手に直して尋常小学校の教科書に載せたとは考えにくい。余りに彼が関係者故に、唱歌改作に柔軟な態度をとらざるを得なかったというのが真相なのではなかろうか。上田万年に習い、『日本歌謡史』『江戸文学史』『日本演劇史』の著者である文学博士が、この改悪を、悦ばしいものと思っていたとは到底考えにくい。
 実際のところはどうなのだろう。
 2005年07月01日
  (つづき)

 この他、文部省唱歌の成立に絡んで、作詞者が匿名になっている場合が多く、それもあって、教育の名のもとに、勝手な改竄が横行していることも、以前から知っていた。
  例えば、「春の小川」(岡野貞一作曲)の「さらさら行くよ」は、もともと「流る」だったということは、かなり有名な話だ。私自身、子供ながら、この歌を習った時、違和感を持ったことをはっきり覚えている。この曲、高野辰之博士(1876〜1947)の詞で、彼が、明治期、日本の音楽教育に輝かしい業績を上げたことは、以前訪れた、信州野沢温泉「おぼろ月夜の館(斑山文庫)」で勉強して知っていた。これなど、作詞者に対して失礼だし、識者の多くも改悪だと主張しているにもかかわらず復していない。「改むるに憚る事勿れ」である。
 文語を一切音楽教育から駆逐して、具体的に、何かメリットがあるのだろうか。「流れる」という言葉は、「流る」という言い方もあるのだなという程度のことがわかるだけで充分である。日本人が、一生、文語と無縁ならば、それでもいいが、中学三年からは勉強する。生徒は、古文を習う初期、「流れる」から「流る」の移行に、昔にくらべえらく手こずっている。それならば、そんな「言葉の無菌状態」にしておく方が、よほど問題ということになる。
 斎藤孝「声にだして読みたい日本語」(草思社)によって、音読の復権が叫ばれて数年たつ。あの時、幼稚園で「寿限無寿限無五劫の擦り切れ」や「祇園精舎」は大ブームだった。子供の吸収力は大変なものである。それを利用しない手はないと思うのだが。

 この本は「産経新聞」に連載されたもの。作者は音楽の専門家でなく記者(現論説副委員長)である。その感覚で書かれているので、分かりやすかった。
 ただ、部分的に過度の「原文至上主義」的な発想も感じられた。「蛍の光」三番四番に見られる「へだてなくひとつに尽くせ国のため」などの歌詞も、明治十四年に出来た当時の国威昂揚の精神を、いたづらにカットせず、「時代背景まで教えるのが教育」であるというのは、明らかに行き過ぎである。免疫のない子供らに、現在の大人が、正しいフィルターをかけて提示する、それが教育である。軍国的歌詞の歴史的意味合いは、大人になってから判断すべき部分である。

 誰でも知っている童謡・唱歌だが、大抵は一番くらいしか知らない。今回、はじめて全番知ったものも多い。その中で、特に「かなりや」(成田為三作曲)の歌詞に惹きつけられた。「唄を忘れた金糸雀は(中略)いえいえそれはなりませぬ」と、中間部を替えたパタンを三番まで続け、最後の四番で、「象牙の船に銀の櫂、月夜の海に浮かぶれば、忘れた唄を思い出す」と結ぶ。三番までは、四番に至る長いプロローグで、四番で、この詩は、一遽にシュールレアリステックな絵画的イメージに結実するのである。童謡の歌詞というのは軽視されがちだけど、西条八十という詩人の凄さをはっきり理解できた。
 「赤い靴」も同様。人身売買的な匂いがするので、掲載不可になっているようだが、背景に複雑な物語を感じる。歌詞は、その大きなストーリーを想起する端緒のような役割である。どんな物語か。それは決まっている訳でない。各自が想像するべきものである。
 こんな非現実主義的な抽象の世界や、ゾクゾクする物語世界のとば口を、昔の子供は歌っていたんだなと思うと、大人の配慮を押しつけられている今の子供が可哀想でならない。
 「昔に比べ、幼くなった」「学力が低下した」「想像力がなくなった」
 みんな大人がレールを敷いたことである。

[1] [2] 

お願い

 この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。

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