遠藤周作「最後の純文学短編集」と腰巻きにある。刊行(1997年)後、2年ほどたって購入したが、読みかけのまま書棚に放置していた、今回、入院中の乱読の1冊として、病室に持っていって、最後まで読んだ。 彼は1996年に逝去したが、作品は1980年頃のものが多い。 タイトルの短編は、カトリック信者にも関わらず、妻がインチキ占い師の言うことを信じて、夫の不幸を回避しようと鳥取砂丘に行ってくれと言い出し、それに、不承不承、気が済むならと付き合う話である。 集中の短編は、老いや身内の死がモチーフとなっているが、闘病など、自身の死に至る直接的な話はない。それは、死の十年以上前の作品ということで、当然のことなのだが、死ぬ数年の、病気に苦悩する話を知っているだけに、腰巻きの惹句との間に、ちょっと違和感があった。
「六十歳の男」は、原宿に仕事場を持つ男が、表参道裏の喫茶店にたむろする竹の子族の娘に声をかけて親しくなる話。夜、彼女を押し倒す夢を見る。それは「情欲ためでなく(中略)生命を陵辱したい衝動」からであり、「生命への執着、生き残る者への嫉妬、醜いあえぎ」からだというのである。ラスト、ベンチで妻と語る平和なシーンを対比して、この短い話は終わる。
この話を読んで、私は東京にいた四半世紀前のことを思い出した。 当時、遠藤周作は、この物語通り、原宿を仕事場にしていた。自宅から仕事場に向かい、夜、自宅に帰る、勤め人のような生活をしていた。つまり、この男は作者の完全な分身である。 その仕事場に、学生時代、一度だけ訪れたことがある。先年亡くなられた中村宏先生(筆名上総英郎)に連れられて行ったのである。 彼は「遠藤周作論」(春秋社)などのカトリック作家論で著名な文芸評論家で、私が通った大学の助教授として、私の在籍中に就任され、近代文学の講座を担当された方。他に原爆体験を綴った「閃光の記憶から」(マルジュ社)などの著作がある(未読)。 私自身、すでに別の先生の授業で単位をとってしまった講座だったので、授業を聴講するということはなかったが、同級のK君は、よく先生のところに出入りしていて、その縁で、一夜、一緒に飲んだ後、いいところに連れて行ってやろうと、酔っぱらいの私たちを連れていってくれたのである。
電車を降り、ちょっとした距離を歩いて着いた遠藤周作の仕事場は、静かな通りにひっそりと建つ目立たないマンション一階角の区画にあった。 中村先生は、合い鍵を持っていて、出入り自由なのだという。当時、遠藤の関心は、ホスピスの定着など社会的活動にも向けられていて、そうした打ち合わせの場所としても利用するため、何人もの関係者がスペアキーを持っているという。グランドピアノが設置してある部屋もあった。時に親しい人を招き、ミニコンサートもひらかれるのだという。つまりは、一種の文化サロンとしての意味もあったのだろう。 夜なので本人はいない。主が帰宅した後の職場見学といったところである。 遠藤が実際に仕事をする部屋は、六畳ほどの小部屋で(作品では「四畳半」ほどと書いてある)、真ん中に大きな机があり、目をあげた前の壁(入り口入ってすぐ右の壁)には、今執筆に利用したりしている本の書棚があった。もちろん、全蔵書ではない。出入り自由の人たちは、図書館よろしく借りていってもいいのだという。 私たち闖入者数人は、それらの本をザッと眺めたが、ユング心理学の本が多かったのが印象的だった。彼の関心が、今、ユングにあることが知られ、今後の作品の転換が予想された。何だか、人の知らないことを事前に知ってしまったようで、少しワクワクしたのを覚えている。ちょうど「スキャンダル」(新潮社)執筆の頃の話である。
あの仕事場は、今、どうなっているのだろう。 先年、中村先生が逝去された折り、K君が連絡を入れてくれた。私は、深いお付き合いもなかったので、特に何もしなかった。ただ、先生といえば、この夜のことを、先生のちょっと酔って赤くなった穏和なお顔とともにはっきり思い出す。 四半世紀後、思いもよらぬ病院のベッドの上で、あの原宿に再会する。ちょうどあの頃、あそこで書いた短編である。なんだか不思議な気持ちだった。
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