ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
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他に、巧いと思ったこととしては、女主人公と彼氏の関係が、そのまま紫式部と時の権力者藤原道長の関係に重ね合わせていることである。これは、多くの人が、読んでいて気づくことだ。彼氏が国文業界の人でなく、俗世を生きる社会人としての面を多く持ちつつ、彼女に文学的助言などをしている様子などは、当時、貴重だった紙を彼女に融通して、色々、アドバイスやネタを提供している道長そのものである。 作者は、いつものように表現に技巧を凝らす。明治小説風に、ルビを利用したあて字の効用をうまく利用したり、「今風」な言葉をわざわざ交ぜたり。それが、丸谷流の歴史的仮名遣いによって、見た目古風に書かれている。本当にあの手この手。これも読んでいての楽しみの一つであった。 ある個人サイトの日記に、「ところどころ、作者の『うまいだろう』というささやきが聞こえるような感じがする」とあった。確かに、あの手この手の作者のほうが、登場人物が活動する内容自体より全面に出ている印象で、なかなか図星の感想。笑った。 ただ、ちょっといつもより雑然とした印象がある。先般、読んだ阿川の『亡き母や』(講談社)にも感じたことで、失礼ながら、年寄りは、長尺ものを整然とまとめていくだけの持続力がなくなっていくものである。 表現的にも内容的にも、現代では少々重い。そうした意味で『女ざかり』ほどの大ベストセラーにならなかったのは仕方がないような気がした。
現代の読者は、国語の力が落ちている。小説もそれにあわせて、かつての概念では、未熟にしか見えない内容で、文学賞をとったりしている。ある程度の「読み」の力量のある読者にとって、小説が物足りないものばかりになってしまった。 そのアンチテーゼが、例えば、平野啓一郎『日蝕』(新潮社)だろう。、24歳の若さで芥川賞(1998年下期)を受賞して評判となった作品で、漢文調が難しいとの評判だったが、あれなど、高校卒業程度の漢文書き下し文を読む実力があれば、本当は読みこなすことができるはずの文体である。あの小説の成功の因は、そうしたちょっと読みにくい古めかしい文体が、情けない表現しかできなくなった小説に飽き飽きしていた一部の読者に歓迎されたといった側面があるのではないか。そのちょっとしたハードルをくぐると、中身は宮崎駿アニメ的中世ファンタジーで、そのあたりで、尚古趣味に陥らずに済んでいる。 それと同じようなところが、この小説にはあるのではないか。国語力があり国文学に興味のある人向け。読者を特化させることで生き残りをはかった小説の一種といえはしないか。
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