入院していたせいで、看護・介護の話題に、前より神経がいく。 8日、TBSの長寿番組「噂の東京マガジン」の「トライ娘の社会見学」のコーナーで、厚化粧・マニュキアばっちりの現代娘二人が、介護の体験をする話をやっていた。彼女たちは、3泊4日、老人介護施設の実習生として介護の現場を実体験したのだった。 彼女たちは、不潔になりがちで独特の匂いがする老人たちを介護したあと、その匂いで胸がつまり、昼食が食べられないと訴えていた。「どうしているんですか。」と職員に尋ねると、「気持ちはわかるけど、忙しくてそんなこと気にしている暇はありません。」と答えていた。日々の現場はそういうものである。 それにしても、思った以上に彼女たちはよくやった。 男性の下の世話など、若い女性なら躊躇して当然だ。どこまで、どう拭けばいいのかわからないと困っていたが、確かに女性と違って、かなりデコボコしている。 最後に、彼女たちには職員から「あなた達には介護のこころがあります。」と褒められていたけど、私も観ていて、そう思った。どんなに見かけが派手なイケイケ娘でも、その仕事の「こころ」があれば、ちゃんと一人前になる。それは、昨日も書いたこと。 ただ、お年寄りと文化が違うので、頓珍漢もあった。「御不浄に行きたい」と言われても、彼女たちには分からない。どんなに一生懸命触れ合おうとしても、そんな言葉のすれ違いの方が、大きな問題のように感じた。 今の老若の場合、間に戦前・戦後の断層が横たわっている。今の高齢者は、旧仮名遣い文化の最後の世代。それに、現代の土砂崩れ的言語崩壊が拍車をかける。
ところで、「御不浄」という言葉。何と優雅な言い方だろう。このおばあちゃん、もともとお上品な人か、テレビがまわっているから奮発した言い方をしたのか、どちらかである。 「不浄」とは、けがれていること。「浄」は、だから、きよらかでけがれのないこと。「浄」「不浄」の字を見ていて、そういえば、そんな「けがれ」という観念をもとにしたものの見方が、最近、世の中全体でなくなっていることに気がついた。けがれのない生き方、身の処し方をする。極めて純度の高い生き方である。 もちろん、その反対は、「法律に触れなきゃいいんだろ」路線の生き方。
「不浄観」という修行もある。死体が腐敗していく様を見たり心に観ずることで、無常を知り、俗世の執着から解脱しようという「行」である。 最初にこれを知ったのは、高校時代に読んだ谷崎潤一郎「少将滋幹の母」。その時は、物語の中の特殊な話かと思っていた。後で大学の授業で習って、ああ、あれのことだ、当時は一般的なことだったんだと知った。 考えてみれば、実に現実的で生々しい荒技の修行だが、確かに、腐って蛆がわいてくる様子を眺め続ければ、有無を言わせず、俗世の欲望など死すれば無、阿呆くさいことであると「観ずる」だろう。そんな気持ちを人間全員持ったら、喧嘩、いがみ合い、派閥なんて、なくなること必定。つまり、不浄を観ずることで、浄に至るということになる。
翌朝のNHKテレビで、今度は、フィリピン人女性に介護の資格を取らせて施設に送る人材派遣会社の取り組みを紹介していた。彼女たちは、本当に真面目に研修に取り組んでいた。多くは旦那が日本人の、身元もしっかりした方たちばかりである。 ところが、いざ蓋を開けてみると、施設側が採用をしてくれない。そこで、会社は、実習生として施設に送り込み、まず、人物を見てもらおうという作戦にでた。 言っては悪いが、下手な日本の現代娘などより、よほど戦力になるはずだ、と思いながらニュースを見ていたのだが、途中から、やはり少し問題もあるかもしれないと思い始めた。どんなに熱心でも、片言の外人さんには、年寄りの古風な言い回しは理解しにくいのである。一生懸命、耳を傾けても意味がとれない。日本の娘でさえトイレひとつ分からないのだから、当然である。 ここでも、最大の問題は言葉のようである。
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